第九章

 翌日から半助は、ふえの作成したリストを基に内偵を開始した。
 ふえはそれぞれの人物について、半助から何ら聞かれる以外には、まだこれといったことはしていない。鷲尾の様子を探ることは続けていたが、正直なところ、気もそぞろだった。
 一清はあれ以来、鷲尾に目立った動きはないものの、領内と国境の状況に、いつも以上に気を配っていた。
 一度、安住に潜り込んでいる半助の友人から連絡があった。
安住で忍者を捕らえたこと、加賀に関するその者の発言を、安住としては加賀に伝える気はない、とのことだった。
 安住にしてみれば、加賀が勝手に崩壊してくれればありがたいくらいのものだった。その後、鷲尾に取られないための手は、当然考えてあるだろう。
 半助がふえにそう告げると、ふえは驚きもせず、
「安住さまの考えそうなことだわ。あのたぬきおやじ!」
と言い放った。
「どうせお互いさまなんだろう?」
半助はからかうように言った。
「鷲尾の狙いが安住だってこと、どうせ伝えてないんじゃないの?」
 図星だった。
 ひたすら加賀さま大事で生きてきたふえは、ごう慢な安住が嫌いだったが、第三者から見れば、腹の探りあいは確かにどっちもどっちと言えるのだろう。
 ふぇはもう、「よそ者に何が分かるの」とは言わなかった。

 そんなある朝のこと。一清はまだ暗いうちに早朝の武術訓練を終え、汗を流そうと、井戸のある裏庭 へと回ってきた。
 その時、裏庭の塀の上に、ちらっと黒い影が見えたような気がして、一清はとっさに木の陰に身を隠した。
 影は音もたてずに裏庭に降り立った。一清は木陰からそっとのぞいてみた。
(なあんだ)
 一清はほっとした。影は、紺色の忍装束に身を包んだ土井半助だった。初めて見る忍び姿の半助に、一清は、
(あいつ、本当に忍者だったんだなあ)
と、改めて感心してしまった。
 それほどふだんの半助は、忍者とは思えない明るい青年だった。
 昨夜のうちに城から出て、何事か調べていたのであろう。半助は少し疲れた表情で頭巾をするりとはずすとふうっと息をつき、井戸水を汲んで、それを頭からざぶっとかぶった。
 そのまま両の手を井戸のふちにかけて、何か考えているようだった。
 一清は少し迷ったが、木の陰から出て、
「土井!」
と呼び掛けた。
 さすがの半助も考え事をしていて気づかなかったのか、驚いた顔をしたが、すぐににっこりといつもの笑みをみせて、おはようございます、と言った。
「寝てないのか?」
一清が尋ねた。
「ええ。でも忍者ですから一晩や二晩は平気ですよ」
一清は「忍者ですから」の一言に何か言い返そうとしてやめ、別の質問をした。
「何か分かったのか?」
「いえ。ふえ殿は鷲尾を探っています。わたしは領内に、おそらくまだ敵の密偵がいると思うんですが、見つかりません。このまま何もせずに引き下がるとは思えないのですが」
 一清は、まさか半助が重大事を隠しているとは気づいていない。半助の言ったことは確かに嘘ではないのだから、それも仕方のないことだ。それにしても、半助の表情は平静だった。
「しかし、こうもやすやすと気づかぬうちに城に出入りされるとすると、少し警備を見直したほうがいいのかな」
 真顔で悩み始めた一清に、半助は笑いかけた。
「どんなに厳重に警備をしたところで、その気になれば入れるものです。ここはこれでいいのではないですか?」
それで納得してよいものか、一清は返事をしかねた。
 考え込んでしまった一清に、半助はこう付け加えた。
「まあ、わたしがここにいるのもあと数日のことですから、一清さまが信頼できる者と御相談なさって、お決めになればよいことです」
 一清は思わず顔を上げた。
あと数日? あと数日で帰ってしまうのだ……。
 本来ならば礼を述べ、労をねぎらうべきなのに、一清はそれを言いたくなかった。黙ってうつむいてしまった。
 そんな一清に半助のほうが驚いてしまった。
「あ、あのぉ、何か……」
「い、いや、おまえには……こんなに一所懸命やってくれて……」
言いかけて口籠り、一清は意を決した。
「土井、俺に、加賀に仕官しないか?」
一瞬、半助は目を丸くして一清を見つめたまま、固まってしまった。
「えーっと……」
半助は返事に詰まり、ひどく困った表情になった。
 そんな半助の顔を見ただけで、一清は半助の答えが分かってしまった。いや、実のところ、そんなことは聞く前から分かっていたのだ。だから今まで言い出せなかった。
 それでも、もしかしたら、という淡い期待があった。できるなら半助に加賀に残ってもらい、もっと教えてほしい。「信頼できる参謀」になって、自分を助けてほしい。
 ピピ…と、沈黙する二人のものに、小鳥が舞い降りてきた。一清が表情をやわらげた。
「やあ、おはよう、鳥母さん、鳥父さん」
これを聞いて半助がずっこけた。
「な、なんです、そのネーミングは!」
「なんで? だって鳥子たちのお父さんとお母さんだから…」
半助が笑いをかみころしながら、横を向いて「がき」と、ぽそりと言ったのを、一清は聞き逃さなかった。
 一清は口をとがらせたが、半助のそんなところが気に入っていた。

 不意に、小鳥たちが何かにおびえたように、バタバタと飛び立った。
「一清さま」
一人の若者が近づいてきた。
「なんだ、隆房か。どうした」
「千沙姫さまが探しておいででした」
そう言って隆房は、忍装束の半助を横目で見ると、一清の耳近くに口元を寄せた。
「一清さま、あのような忍者ふぜいにあまり目をかけられますな。私の仲間にも反感を持っている者が多くおります」
 隆房は一清にささやいたが、半助に聞かせまいとするような気遣いはしなかった。が、半助のほうもべつだん顔色を変えなかった。
「おまえにもいずれ分かるよ、隆房」
一清はなだめるように言った。
「一清さまーっ!」
 再び一清を呼ぶ声がした。千沙の声だ。
「一清さま! 朝餉食べちゃってくださーい! 一清さまー!」
姫君とも思えぬ大声に、一清は少し照れたように顔を赤らめ、
「土井、さっきのことは忘れてくれていい」
と言い残して声のするほうへと駈けていった。
 あとには、うさんくさそうな視線を半助に向ける隆房と、半助とが残された。
「おい、いい気になって一清さまに取り入ってんじゃないぞ」
隆房は、一清の前にいる時とは別人のような乱暴な言い方をした。
 半助はそれには相手をせず、
「どうもあんたは鳥たちに嫌われてるようだな」
と、皮肉まじりに言った。
「おれも鳥は嫌いなんでね」
隆房は鼻白んで言うと、それ以上は半助にからまず、一清の去ったほうに歩き出した。
 その背中を見送る半助の顏からも、いつもの人の好さは消え、隆房の背中を射るように、鋭い視線を放っていた。  




 

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