第三章

 その翌日のこと、千沙は少々むくれていた。
「明日は」と、一清は言った。「明日は私は城にいることにしましょう」と。確かにそうだが、その「明日」一日だけ千沙と一緒にいて、その翌日にはもう出掛けてしまった。
(そりゃ、お忙しいのは分かってますけど)
千沙は、結婚以来何十回もつぶやいた言葉を心の中で繰り返した。
(やっぱりこんなの理不尽だわ)
というわけで、千沙は一人でこっそりと城を抜け出そうとしていた。
かえこときえこは一清にばれて肝を冷やし、
「だいたい姫さまはわがままなんですよっ!」
と散々説教というか、文句を垂れたので、もう協力してくれそうにない。それでかえこたちにさえ秘密で、足音を忍ばせて廊下に出たところを、
「どこにいらっしゃいますの、千沙さま」
と呼び止められた。
ぎくっとして振り向くと、嫣然とした笑みを冷ややかにたたえたふえが立っていた。
「ふ、ふえさま! 何しにきたの?」
「あら、ずいぶんなおっしゃりようですこと。せっかく千沙さまが喜びそうなお話をしに参りましたのに」
「なんですの?」
 ふえさまは頼りになるけどちょっと意地悪だと思っている千沙は、「喜びそうな」というのは100%は信じられないながら、話を聞く気になっていた。
「千沙さまは近頃『孫子』に興味がおありだとか。私も少々心得がございますから、僭越ながら御教授に参りましたのよ」
「ふえさまの意地悪っ!」
千沙は顔を赤らめてきびすを返し、自分の部屋にさっさと入ってしまった。
「千沙さま!」
ふえはその後をついて部屋に入ると、後ろ手に障子を閉めた。
「理解できませんわ。なぜあんな得体のしれぬ男に興味をもたれますの? 一清さまのご命令に逆らってまで。しかも人妻が。不倫なさるなら加賀に火の粉がかからぬよう、よそへ行っていただけません?」
いつにも増してふえは手厳しい。
「不倫なんかじゃないわっ!」
千沙も大声で言い返した。
「それに、半助さんは悪い人じゃない! 一清さまも、ふえさまも、会ってみれば分かるわ!」
ふえはいささかも動じない。
「私はここ数日あの男を監視しておりましたけれど、とにかく何しに加賀へ来たものやら全く分かりません。不審な行動が多すぎます。これは私の勘ですが、普通の町人でないことは確かです。千沙さまは御自分が利用されているかもしれないとはお考えになりませんの?」
「利用って、何よ」
「例えば城内の様子を探るとか」
「そんなことないわ。あの人の目を見れば分かるもの」
(これだから純粋培養のおのんき姫は困るのよ!)
とふえは思ったが、さすがにそこまでは口に出せなかった。
 千沙は悲しそうな顔でふえを見つめた。さすがのふえも、ちょっときつかったかと気がとがめた。
「どうして疑うの?」
悲しげに千沙が言った。
「え?」
「会えば、話せば分かるのに、一清さまもふえさまも、なぜまず疑うの?」
「……」
ふえは言葉がなかった。それは理由はいくらでもあるのだ。お姫さまには分からない事情というものがある。人の上に立つ者、国を守る者は、ただひとが良いだけではすまないのだ。
 だがふえは、そうした理由とは別のものを突き付けられたような気がして、言葉に詰まった。
「では千沙さまは……」
真剣な顔でふえは言った。
「なぜあの男をそんなに信用なさるのですか?」
意地悪ではなく、本当にふえは知りたかった。なぜ疑うのかという千沙の疑問と同じほど、なぜ信じられるのか、と。
「あの方は、一清さまと似たところがあります」
「どこが!?」
ふえは吐き捨てるように言った。
「一清さまのようにお優しくて、強くて、頭が良くて、ついでににぶちんの殿方はそうそういるもんじゃありませんよ!」
「だって、そう思うんですもの」
ふえにまくしたてられ、千沙はすねた子供のような顔をした。
「思うって、それですめばだれも苦労はしませんよ! とにかく今日は外出はお控えなさいませ!」

 一清は、北の庵の庭に立ち、垣戸のほうを見つめていた。間もなく、一人の青年がその戸を入ってきた。
 半助は一清の姿を認めると、一瞬驚いた顔をして立ち止まったが、すぐ、にやりとして一清に近づいてきた。
「今日は千沙さまはおいでではないようですね」
用心する様子も見せない。
「今日でおいとまを、と思っていたのですが」
落ち着き払った半助の態度に、一清はかえって警戒心を強めた。
「あんた、この前千沙姫をつけていた人かな。それともひょっとして一清さま?」
「?」
一清は千沙を尾行させた覚えはなかったが、ふえが配下の者にさせたのかもしれないと考え、その点にはふれずに、
「加賀の当主、一清だ」
と静かに答えた。
 半助は少しばかり目を見開き、一清を見つめたと思うと、くすくすと笑い出した。
「な、何がおかしいっ!」
一清は顔を赤くして思わず声を大きくした。どこから見ても殿様には見えない一清が城主であることが分かると、普通の人間はまず驚き、それから謝ったり平伏したりするものだが、笑われたのは初めてだった。
「あ、これはすみません」
半助は謝りながらもなお、おかしそうにしていた。
「いや、まさか本当に殿様とは。千沙さまが、一清さまはいつも髪はぼさぼさのまま後ろにゆわえただけで、烏帽子もかぶらず直姿もつけず、供も連れずに一人で出歩いているとおっしゃっていたから、半分冗談のつもりで言ったのに。まさに千沙さまの言われたとおりですね」
  まさにそのとおりなので否定できない一清であったが、顔を赤らめながらも、またひっかかるものを感じた。
「おまえ、半助というのは本名か?」
半助はようやく真顔になった。
「そうですよ。正確には土井という姓があります。土井半助」
「そうか。では土井半助。単刀直入に聞こう。おまえはどこの国の者だ?」
「摂津です。姫君にもそう申し上げましたが」
「訛がないな」
「生まれは瀬戸内のほうですので」
「ふ…ん」
「言っておきますが、千沙姫さまとの間に、問題になるようなことは何もありませんでしたからね。かえこ殿ときえこ殿が証人ですよ」
「おまえは聞かれたことに答えろ」
「はいはい」
半助は小さく舌をぺろっと出した。
「千沙からはほかに何を聞き出した?」
「え?」
半助は不可解な顔をした。
 一清は、いちだんと鋭い目になった。
半助の顔からも、それまでのおかしそうな表情は消えた。
「何の目的で千沙に近づいた?」
重ねて一清が聞いた。
「答える必要はない、と言ったら?」
「答えるまではここから出さん」
半助は不適にもニヤリと笑った。
「つまり、あんたの合図次第であの連中が飛び込んでくるってわけか」
「なに?」
 何のことを、と一清が聞き返そうとしたその瞬間、何か球状のものが外からポンと投げ込まれた。
 一清は一瞬、それが何かを確かめるために近づこうとし、半助は身をかわそうとした。が、その刹那、それは爆発した。
 爆発の力そのものはさして大きくなかったが、もうもうたる煙りがたちこめ、異臭が一清の鼻をついた。一清はあわてて鼻と口を手で押さえたがすでに遅く、頭がくらくらして、気を失った。

 

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