第五章

 二人が捕らえられていたのは、さして広くもない小屋だった。一清と半助は、その小屋からさらに山の上へと走っていった。
 普通の人間は、逃げ出せば山を下るものだ。そこで裏をかいて一旦山奥のほうへ逃げる、というのが半助の作戦であった。山奥といっても加賀領内のこと、一清は猟師でさえ見逃しそうな獣道の一本一本まで熟知していた。今度は一清が先にたって、わざと細い道を選んで奥へ奥へと入っていった。
 半刻ばかり、木の枝や藪をかきわけるようにして進んだだろうか。ぽっかりと開けた見晴らしのよい場所に出た。そこで一清はようやく足を止め、後ろを振り向いた。
「さすがによくついてこられるな」
一清はにニヤリと笑って半助に言った。半助も同じように笑い返しただけでそれには答えず、
「追っ手は来ていません。ここまで来れば多分大丈夫でしょう。あとの道案内もお願いします」
 半助も足を止めて周囲を見回した。すでに陽はすっかり傾いて、村々を赤く染めていた。
「きれいなところですね」
半助が感嘆した声をあげた。
「そんなのんきなこと言ってる場合か」
一清は軽くたしなめたが、むろん悪い気はしなかった。
「さ、行こう。まっすぐ降りて降り口に待ち伏せされているといけないから、少し遠回りをしよう」
 一清は半助を促し、再び、道とも思えぬ道に分け入って行った。
「よくこんな道をご存じですね」
カサカサと藪をかき分けながら、後ろをついてくる半助が声をかけた。
「領内の地理をすべて頭に入れておくのは城主として当然だろう」
一清は誇る様子もなく言った。
「天井裏に忍び込んだ時の身のこなしもなかなかのものでしたよ」
「忍者になれそうか」
一清は笑いながら言った。
「安住での一清さまの評判は、加賀唯一のまことの武士だとか」
 一清は今度は答えなかった。さっきから誉め言葉を並べ立てるのが気持ち悪くなってきた。
「千沙さまがおっしゃるには、兵法にも通じていらっしゃるとか」
 一清は足を止め、振り返った。千沙姫から何を聞き出しているのか。最初に半助に対して抱いた疑念が、再び湧き起こってきた。
 半助も足を止めた。一清を促すでもなく、まっすぐに見返している。
「おまえ、何が言いたいんだ」
一清は静かに聞いた。
半助の顔にも笑顔はなかった。
「つまりね、今ここでわたしがあなたを殺ってしまえば、加賀は終わりだってことですよ」
半助はそう、平然と言ってのけた。
 一清は背筋がぞーっとした。だが、半助の目に殺気はなかった。それゆえ、自分がここで殺されることは思わなかったし、もし半助が自分を殺そうとしたところで、易々とやられる自分ではないという自負もあった。
 しかし、半助の言葉は今までだれも気づかなかった、あるいはふれようとしなかった加賀の国のアキレス腱に刃を突き付けたようなものだった。
「まだお世継ぎもいないし、いたとしても、あなたと同じだけの能力をもっているとは限らないでしょう?」
 いくばくか顔が青ざめ、動くこともできずにいる一清に、半助はさらに冷水を浴びせた。
 一清は何か言い返したかったが、悔しいことに何も言えなかった。
 ふっと、半助の顔に笑みが浮かんだ。
「わかりましたか?」
「え?」
一清はなんのことか分からず、目を丸くした。
「領主というものは、すべてにおいて第一である必要はないのです。優秀な武将、間者、軍師などをうまく使い、総合的に的確な判断が下せればよいのです。城主自らが事に当たろうとして城下をうろついていると、こういう目にあうのです。わたしは以前、一人で出歩いている間に敵に城を囲まれてしまったという間抜けな殿様に会ったこともありますよ」
 そう説教しながら、半助の口調は軽いものへと変わっていった。
「おれはそんな間抜けじゃない! 第一、そういう事態にならないために、おれが走り回っているんだ!」
 一清もようやく舌が動くようになった。だが、半助も案外しつこかった。
「ではもし、わたしは忍者でなかったらどうなっていたと思うんです? あんな所で命を落としてもよかったのですか?」
「だが、おれが道を知っていたからこそ、ここまで逃げおおせたんだぞ。おまえだっておかげで助かっただろう」
「わたしがあそこで死んだからといって、大勢に影響はありませんよ。でも一清さまが今亡くなられれば、加賀の国は立ち行きませんよ」
 一清はこの言葉にかっとなった。
「おれはそういう考え方は嫌いだ!」
一清の胸に、怒りとも悲しみともつかない感情が湧き上がった。
「おれの命とおまえの命と、何か違いがあるとでも言うのか!? むろんおれは、加賀を守るためならばおまえを斬ることもいとわない。だけどそれが、人間として正当化できるとは思っていない。ましてや自分の命のほうがほかのだれかより重いなどと、どうして言える!?」
 まるで必死に訴えるかのような一清に、半助はなおも言い逆らった。
「そういうことを言っているのではありません! 加賀を守るためにならわたしを斬るというのと同じように、加賀のために、自分の身の安全を第一にしなければならないと言っているのです。人の上に立つ者は、時には家臣を犠牲にしてでも生き残らなければならない時があるのです」
「いやだ!」
一清はほとんど泣きそうな表情だった。その一清を、半助はいぶかるように見た。

 一清が両親を亡くしたその戦で、一清を守るために何人もの人が死んだ。ふえの父勘兵衛も、親友だった鮎太も……。守りたかったのに、幼い一清の小さな手から、こぼれ落ちていくように死んでいった人々のことを、一清は決して忘れない。
「家臣も、国民(くにたみ)も、城主の道具じゃないんだ。みんなおれの友達なんだ。おれが守ってほしいんじゃない。おれがみんなを守りたいんだ」
震える声で一清は言った。
(何をむきになっているんだろう。おれは。こんな、もしかしたら敵かもしれないやつを相手に……)
そう思いながらも一清は、言わずにはいられなかった。
 今度は半助が黙る番だった。
 半助は複雑な表情で一清を見て、それからため息を一つついた。
「行きましょう。わたしに背中を見せるのが御心配なら、今度はわたしが前を行きます。後ろから道を指示してくだされば」
 ほんのわずか、一清は間をおいて答えた。
「いや、このままでいい」
二人はしばらくの間、黙々と歩いた。
 一清は半助に言われたことを考え続けていた。
『ここで一清が死ねば加賀は滅びる』
『城主がすべてにおいて第一である必要はない』
 それは確かに正論かもしれない、とは一清も考えていた。有能な家臣団がいれば、たとえ城主が無能でも、幼くても、国は守られていくものだ。逆にどれほど優秀な城主でも戦になれば一人では闘えない。城主一人に頼っていて、代替わりした後、それこそ子が同じ能力を持っていなければ、敵につけこまれるか、内部分裂するか、という可能性もある。
 それを指摘してくれた半助に、一清は信頼感さえ感じ始めていた。だからと言って、人を盾にしてまで生きるなどということは、どうしても一清の性に合わなかった。
 やがて、もっと歩きやすい道に出た。あたりは暗くなりかけて、星が輝きだしていた。
 一清は、黙ったまま歩いていくことが気まずくなってきた。半助の言ったことが正論ならば、自分はあんな言い方をすべきではなかった。何かフォローをしなければ。
とは思うのだが、こういう時うまい言葉の見つからない一清であった。
 と、不意に半助が声をかけた。
「一清さま、腹へりませんか?」
まるで何事もなかったかのような声だった。頭の中でさっきの問答をひきずっていた一清は思考がショートしかけた。
「ほら、こんなところにびわがありますよ。ひと休みして食べていきましょうよ」
遠足にでも来ているような、半助ののんきな物言いに、一清は悩んでいた自分がばかみたいに思えて、どっと疲れた。
「そうだな。休んでいくか。あと少しで里へ出られるが」
 半助は、にこっと笑うとさっさと木に登った。一清もすぐ後に続いて登り、別の枝に腰掛けた。
「下で待っていれば取ってあげたのに」
と、半助。
「木登りは子供のころから得意なんだ。それに、木の実は木に登ったまま食うと、格別においしいんだぞ」
「変な殿様」
半助は遠慮なしにそう言うと、びわにかぶりついた。
「おまえに変だと言われる筋合いはない」
そう言って一清もびわをほおばった。
 一つ食べ終わり、二つ目をもぎながら、一清は思いきって尋ねた。
「おまえ、土井と言ったな」
「ええ」
「改めてきく。何の目的で千沙に近づいた?」
半助は一瞬手を止めたが、何も答えず、また食べ始めた。
 そんな半助を横目で見て、一清は淡々と語り始めた。
「おれは千沙とおまえとの間に不義があったと疑っているんじゃないんだ。だが、おまえはただの物見遊山の者には見えなかった。事実おまえは忍者だった。何かの目的があって来たとしか考えられない。おれは、千沙姫が傷つくのを見たくないんだ」
 半助は黙って食べながら一清をちらりと見た。
「昔、鮎太っていう親友がいたんだ」
一清は半助を見ず、遠くを見つめるような目で話し続けた。
「そいつはおれの身替わりに、一清として殺された。おかげでおれは生き延びることができたんだけど。その戦は、鮎太が敵に情報を漏らしたせいで犠牲者が増えたんだ。親友だったのに……もともと鮎太は敵の内通者で、そのために加賀に来たんだ」
 一清は言葉を切って、一口びわを飲み込んだ。
「結局鮎太は、おれのために死んだ。鮎太は加賀を裏切っても、おれのことは裏切らなかった。なのにおれは最後まで鮎太を信じてやれなかった。だからおれは、千沙のこと絶対信じるんだ」
「それとわたしと、何の関係が?」
ようやく半助が口を開いた。
「鮎太が内通者だと知った時はショックだった」
「……」
「千沙に同じ思いをさせたくない」
「それで?」
「もし、おまえが加賀に仇なす者ならば、殺す。だが、おまえは話の分からないやつではなさそうだ。事情によっては見のがしてやってもよい。できるなら殺したくはないが。まずはおまえの話を聞いてからだ」
 一清が言い終わるか終わらぬかのうちに、半助が「くくっ」と笑い出した。片手を額に当て、さもおかしそうに笑い続けた。
「何がおかしいっ!」
一清はかっとして思わず怒鳴った。
「くく……あはは……あんたねえ」
半助は笑いながら言った。
「わたしは忍者ですよ。忍者が仕事の内容を、そう簡単にしゃべるとでも思ってるんですか? しゃべったとしても、それが本当だとは限らないでしょう?」
「おまえなら腹を割って話せると見込んだのだがな」
一清はまじめに答えた。
「あなたの言うことは矛盾していますよ」
半助はからかうように、いくぶん刺も込めて言った。
「なんだと?」
「わたしが忍者だから、あなたははなっからわたしを疑っているんだ。なのになぜ、今になってわたしが本当のことを言うなどと信じられるのです?」
「!」
「家臣は道具じゃないとおっしゃった。『間者』というと、道具のように聞こえるからそのようには呼ばれないともお聞きしました。それは一清さま自身が間者は道具だと思っていることの裏返しなのですよ」
「そ、そんなことはない」
「わたしは忍者です」
半助の顔に笑みはなかった。
「忍者であることに誇りを持っています。どう呼ばれるかにかかわりなく、大名の道具に成り下がる気はない」
「しかし、汚いことは忍者にやらせて、都合が悪くなれば闇に葬ってしまうような大名も、珍しくはないだろう」
「確かに。けれど、こちらも主君を選ぶことはできる。それに他人がなんと言おうと、わたしは忍者と呼ばれることを、嫌だとも恥じとも思いません」
「う……」
 一清は否定できなかった。ふえを千沙に紹介した時、間者と言えずに『友達』と言ったため、「浮気してるんだ」と千沙に泣かれた一清だった。だが言われてみれば確かに、それは他国の間者を、同じ人間だとみなしていなかったことになる。
 一清は自分の小ささに胸が痛んだ。
 半助は、まるでそんな一清の気持ちを軽くするように、またからかうような笑みを浮かべて、明るい声で言った。
「それに、忍者だって人間ですからね。下心なしに足をくじいた家出姫の手当てをしたばっかりに、事件に巻き込まれるようなドジをふむこともあるってことですよ」
 一清は、もう半助のその言葉を疑う気持ちはなかった。半助の物言いがおかしくもあり、千沙が迷惑をかけたと思うと、申し訳なくもあった。それでも、確かめなければならないことがあった。
「ならおまえ、いったいこの国で何をしていたんだ?」
問いつめるのではなく、友人に対するような口調に、半助も気を許したようだった。
「実は、わたしの友人に頼まれたのです」
「友人て、もしかしてそいつも……」
「忍者です。でも、そいつの両親は行商人で、そいつも赤ん坊のころから諸国を回っていたのです。それが子供のころ、安住で戦に巻き込まれ、母親一人が行方不明になってしまったのです」
「安住か」
安住は領地を広げることに意欲を燃やしていて、戦も多かった。
「ところが、父親の行商人仲間だった人が、先だって安住と加賀の国境あたりで、そいつのお袋さんを見たって言うんですよ。しかも、どこかの男の人と連れ立っていて、まるで夫婦のようだったと」
「人違いではないのか?」
「かもしれませんが、見つけた人は、お袋さんが男の人といっしょだったものだから、声を掛けそびれているうちに見失ってしまったとのことなのです。それでも友人にしてみたら、わずかな可能性にかけたくなるのは無理のないことで、本人が安住を、私が加賀を捜すことにしたのです。」
「それで?」
「見つかりませんでした。わたしは、もうここにはいないと思っているのですが」
「そうか」
 一清は、ふえが聞いたという半助と行商人ふうの男との会話の意味が、ようやく飲み込めた。
「どこかで生きているといいな」
一清はぽつりと言った。社交辞令ではなく、両親を失った一清の心からの願いだった。
 半助は一清を見て、ふっと笑った。一清はそんな半助を見て、なつかしいような、切ないような気持ちになった。それを悟られまいとするように、
「さ、休憩は終わりだ。城へ帰るぞ」
と元気よく言った。
 二人とも枝からしゅたっと飛び下りて、再び一清を先頭にして歩き出した。
 しばらくして、一清は顔を赤らめ、半助を見ずに言った。
「土井、すまなかったな。最初から疑って……」
半助は一瞬きょとんとした顔をしてから、くすりと笑った。
「仕方ないですよ。もう気にもしていません」
一清は本当にほっとした。
 またしばらくして、一清は突然思い出したように聞いた。
「おい、それでおまえ、結局どこの忍者なんだ? 任務ではないにしても、よその者にそんなに領内をくまなく歩いてほしくはないな」
「大丈夫ですよ。金山と城内には入っていませんから」
「そういう問題じゃないだろう」
とは言うものの、最も立ち入ってほしくない所は金山と城なのだ。一清は半助を敵に回したくないものだと思い始めた。
「ご安心を。わたしの友人はフリーですし、わたしはどこの手の者でもありません。忍術学園の教師です」
「忍術学園?」
「ええ。摂津にあります」
「へー」
 一清は安心すると同時に、土井半助という男にどんどん興味を引き付けられた。
「忍術学園ということは、忍者を育てるということか?」
「もちろん」
「その若さで後進を育てるのか? どこかの大名に仕えて出世したいとか、手柄を立てたいとか考えないのか?」
半助はくすくすと笑った。
「今のところ、そういう欲はないですね」
優秀な忍者のはずだが、と、一清は不思議に思い、それがまた興味をそそった。
「仕事は楽しいのか?」
「うーん……そうだなあ……」
 一清の質問に、半助は初めて口籠った。
「?」
「んー、楽しい、というと語弊があるかな。でも、毎日充実してるし、子供達もなんだかんだ言ってかわいいですし、満足はしていますよ」
半助は明るくそう言い切った。
「そうか、子供はかわいいよな」
一清も子供は好きだった。見回りの途中で子供達と遊んだり、いっしょにお弁当を食べたりすることもあった。
 ふと、半助はまた笑いを含んだ声で言い出した。
「そういえば、千沙さまは子供のようですね。すごく純粋で、好奇心が強くて、突拍子もないことを言ったりやったり。失礼かもしれませんが、なんかうちの生徒たちを思い出しますよ」
 一清はなんとなく脱力感に見舞われた。千沙と半助の不倫を心配してはいなかったが、かといってまったく穏やかでいられたわけではなかった。何より、何らかの目的のために、半助が千沙を篭絡しようとしているのではないかという危惧はあった。なのに半助にとっては、千沙はそのような対象としてはそもそも問題外だったわけだ。かわいい子供としてしか見られていなかったとは……。夫として、安心したというか、情けないというか、複雑な思いであった。
 里の灯が見えてきた。一清は半助を振り返った。さすがに半助もほっとした笑顔を浮かべた。
 そして二人はまた、あれこれと話をしながら城へと帰っていった。




 

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