「学歴社会は今や実力社会に変わった」なんて言葉を、いったい誰が信用するというのだろう。研究者の世界は、旧態依然としている。私のように一匹狼で、何のコネも持たない研究者が、公募で採用される奇跡が起こり得るのか、経験者がいれば教えて欲しい(3)。
ある人は「主著論文が10篇以上あれば助教授(准教授)になれる」と言うが、私の研究業績は、准教授にもなれないようなものでしかないのだろうか?(4)
また、ある人は「夜明け前が最も暗いのだから希望を捨てないで頑張れ」と励ますが、いつ来るか分からない夜明けを、私は待ち続けることができるのだろうか?
「二兎(にと)を追う者は一兎をも得ず」のことわざ通り「何かを得たいのなら、他の何かを犠牲にしなければならない」というのは本当だと思う。無理に両立させようとすれば、どこかで破綻をきたすことは間違いない。これまでの半生を振り返ってみると、随分と色々なものを犠牲にしてきたような気がする。例えば、人並みの暮らし、暖かい家庭、心を許せる恋人たち。これらは私にとって、研究とは両立できないものであったのだろうか?
2001年10月某日、ある人から「あなたは実績も実力も兼ね備えているのだから、もっと自分をアピールしてもよいのではないか」と言われた。その言葉に後押しされたわけではないが、このホームページをアップしたことで、ついに私はルビコン川を渡ってしまった。世の中には「鳴かず飛ばず」という言葉があるが「キジも鳴かずば撃たれまい」という、ことわざもある。さて、これから私は、どうなるのか?
[脚注]
[脚注の脚注]
(1) このときの発表会では、鳥山欣哉くん(高校の同級生。共一会。現在、東北大学農学部教授)も発表していた。
(2) 周りには「旧帝大系の大学に進学しないと、研究者になるのは難しい」と教えてくれる人は誰もいなかった。また私は、修士課程修了後に、旧帝大系の大学の大学院博士後期課程に進学する予定で勉強を続けていたのだが、大学院博士後期課程が新潟大学にも設置されることになり、第一期生の定員充足のため「修士相当論文を提出して審査を受ける」という方法で、修士課程を一年で中途退学して進学することを、指導教官が勝手に決めてしまった。確かに当時は飛び入学を有り難いと思っていたし、そのことで未だに「どうのこうの」言う人もいるが、今となってみれば「あのとき初心を貫いていれば......」と残念でならない。
(3) 私のことを「コミュニケーション能力が足りない」と、勝手に決めつけて中傷している人がいるようだが、そのような人は「私が、高校・大学と体育会系のバレーボール部に所属して、毎日のように汗を流していた」という事実を忘れているのではないのか?考えてもみて欲しい。団体競技であるバレーボール部員に、もしコミュニケーション能力が備わっていなかったとすれば、7年間も、他の部員と上手くやって行くことなんて出来なかっただろう。私がコミュニケーションを避けるのは、悪意を持って、私に接触して来る人に対してだけである(悪意を持っている人は、手に取るように分かるから不思議である)。自分自身をタイプ分けするのは好きではないが、あえて分類すると、相手が気付かないことに気付いてしまい、その結果、損な役回りをしている、将棋棋士の(故)芹沢博文九段タイプではないかと思っている(何のエピソードか知らない人たちのために解説すると、1969年度、将棋B1組順位戦最終局、中原誠[当時、七段]との直接対決で、終盤まで優位に進めながら逆転負けしてしまい、A級復帰を逃した対局のことである。終盤に、将棋記者が盤側に張り付いたことから、他の棋士の昇級の目がなくなり、この対局が重要な意味を持つことに気付いてしまった結果、心を乱して負けてしまったそうである。そのような人生の機微、細かいことに気付くところが、私と似ていると思う)。
(4) 個人が生涯に生産する論文数は、研究分野間で明らかに異なっている(1)。だから、この研究業績を「たった一人で頑張っている割には多い」と見るか「なんだ少ないじゃないか」と見るかは、その人の考え方次第だと思う(悪意を持って、少ないと決めつける人は多々いるだろうが......)。
(1) 例えば生物学ひとつ取ってみても、生態学分野の論文数1に対し、分子生物学・医学・生化学分野の論文数は、少なく見積もっても、その5〜6倍になるだろう。また、第一著者や責任著者と、それ以外の共著者とでは、単純に論文数だけで、研究業績の多少を比較することが出来ないことも、まともな研究者なら分かるはずである。