雑多な出来事


モンゴル国セレンゲ県シャーマルの調査地で、2005年7月15日〜25日に起きた、取り留めもない出来事をしたためてみる。

まず驚いたのは、どこにも中継塔が見当たらないのに、調査地で携帯電話が繋がることであった。「草原地帯で、周りに遮るものが何もないからだろう」と思うが、おかげで調査中にズラさんの携帯電話が鳴りっ放しで、はっきり言って仕事にならなかった(1)。

キャンプ地の周辺は放牧地で、たくさんのウシが飼われていた。あるとき何気なく見ていると、10頭前後の母ウシが突然「モー」と鳴き出した。すると、それまで遊んでいた仔ウシが、自分の母親のところに間違いなく駆け寄る姿が印象的であった。どうも、おっぱいの時間だったようである。

シャーマル調査に行く前日、7月14日(木曜日)の午前中は、ウランバートルのスーパーマーケットでヒツジの肉を買おうとしたら、どこにも肉がなかった。なんでも「ナーダムのお祭り(Nadaam Games)」で全部、売れてしまったとのこと......。そのため、何件目かのスーパーマーケットで漸く手に入れた肉の量では足りず、ズラさんたちは現地調達を目論んでいたようであった。

7月16日(土曜日)午後1時10分頃、予備調査が終わってキャンプ地へと戻る道すがら、草原に点在するゲル間を移動して、ヒツジを丸ごと1匹、買おうと試みていた。しかし、どのゲルに行っても、遊牧民は頑として首を縦に振らなかった。聞くところによると、セレンゲ県ではヒツジの絶対数が少ないので、食肉目的では売らないのだそうである。これで当てが外れたズラさんたちは、少ない肉で10日間をやり繰りしなければならなかったのである。特に炊事担当のムーギーは、肉の量が少ないことで妙に恐縮していたが、日本人の私にとっては充分すぎるほどの量で「普段から大量の肉を摂取しているモンゴル人のほうが、充分な量の肉を食べられずに大変だったのではないか?」と、むしろ彼らのほうが気掛かりであった。

7月18日(月曜日)午後7時50分頃、ムーギーとオンノンが晩飯を作る様子を見ていて、食材としてのニンジンの余りの小ささに驚いてしまった。ちょうど成人男子の中指くらいの大きさだろうか?これが、本来の野菜の姿なんだろうなあ......。聞けば「モンゴルでは夏(7〜8月)の時期、ニンジンが小さいうちから出荷する」とのことであった。なんでも「秋には育つから大丈夫」とのことで、モンゴルでは、日本のように作物を育てる技術がないように思われた(2)。

それでいて、彼らは、この時期のニンジンの数倍にも大きく育った葉を惜し気もなく捨てていたので「ニンジンの葉は、食べられるんだよ」と言って、料理の中に取り入れさせた。独特の苦味はあるが、全員、気に入ってくれたようで、それから何度となく食膳に上ったのは収穫であった。

7月19日(火曜日)午後2時11分、昼飯のためにキャンプ地に戻っていたら、セレンゲ県の自然保護レンジャー3人がジープに乗って来訪した(年老いた男性、若い男性、若い女性といった構成であったが、ここでも若い女性がトップのようで、モンゴルの教育事情を見事に反映していた)。どうも誰かが通報したようで、彼女から説明を求められたズラさんが、文部省の許可を取って遂行している調査であることを力説し、なんとか事なきを得たようであった。こうして疑いが晴れ、彼女からシャーマル村の2005年7月の気象データをもらう約束を取り付けたのは、大きな収穫であった。

7月21日(木曜日)は、調査地の近くでキャンプをする10数人のグループに出会い、一抹の不安を覚えた私は、ズラさんを通じて「ここでキタサンショウウオの調査をしているので、私たちの調査地に入らないで欲しい」と要請した。モンゴル人の中にフランス人女性2名が加わった不思議なグループで、聞くところによると、グループのヘッドはセレンゲ県の知事であった。う〜ん、変なところで、偉い人と知り合いになってしまった。

7月23日(土曜日)午後5時頃、私たちのキャンプ地の隣に暮らす遊牧民の男性が、友人の男性を連れて調査地にやって来た。その男性は赤と白のツートンカラーの軽のワンボックスカー(中古車)に乗っていて、見ると神戸スバル自動車の「Sambar 660 vivio」という車種であった。なんでも「自動車のエアコンを回すベルトが切れた」とかで、日本語の説明書を持って来て、私に「ベルトの種類と径を教えてくれ」と言うのであった。調査中ではあったが「日本人が来ている」という噂を聞き付けて、助けを求めて来た相手を無下に断わるわけにも行かず、私の説明をズラさんがモンゴル語に翻訳して対応することにした。しかし、それにしても、こんな田舎の村にも日本車が入り込んでいるとは、ちょっとした感動ものであった。

7月24日(日曜日)の本調査終了後、午後10時56分からは恒例のキャンプファイアーが始まった。シミンアルヒという、日本のイモ焼酎のような味のする蒸留酒を飲みながら、全員でモンゴルの歌を唱っていた。それに途中からズラさんの演説が加わり、宴は延々と明け方近くまで続いたようであるが、私は先にテントに戻り、午前2時には就寝した。

こうして調査は無事に終了したのだが、それにしても特定のテーマで書くことの難しい単発的な出来事が多く、これじゃ、まるで日記を書いてるみたいだねえ。

[脚注]
(1) モンゴルで普及している携帯電話は、バッテリー装置の取り外しが可能な代物のようである。そのため、バッテリーがなくなると、ズラさんは学生の携帯電話からバッテリー装置を取り外し、自分の携帯電話に付けて使っていた。それでもなくなると、今度はキャンプ地の隣に暮らす遊牧民の男性に充電をお願いしていた。彼は自転車に乗って、近くにあるシャーマルの村までズラさんの携帯電話のバッテリー装置を持って行き、村に唯一の店(雑貨屋)で充電して、小遣い稼ぎをしていたようである。ちなみに、この雑貨屋は、モンゴル国立大学の学生であるラウガの親戚の家だそうである。
(2) このように、私が、事実を事実としてありのままに伝えると、なかには「モンゴル人をバカにしている」と曲解する人も出て来る。しかし、そういった情報は、受け取った側が考慮する問題である(いわゆる、情報リテラシーのこと。私が何か書くと、そのことに粘着して中傷するくせに、そういった人に限って、自分では何も遣らないんだよなあ)。今回の情報に関しては「モンゴルに作物を育てる技術がないのであれば、日本から技術を導入してやれば、喜ぶんじゃないのか?これは、まさにジャイカ(JICA)の、シニアボランティアの出番ではないのか?」と考えるのが一例で、なにも私が、そこまで言及する必要はないのではあるまいか?


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