帰路、そしてムルンへ


2005年のダルハディン湿地調査も終わりを迎えてみると、長かったようで、短くもある夏であった。

8月21日(日曜日)、私たちサンショウウオ・チームは、ホドン川周辺の森林地帯で見つかったキタサンショウウオの新産地の様々なデータを採り終えると、湧き水の池湧き水のオボーに立ち寄り、午後7時7分には、シシヘデ川周辺の第1調査地対岸にあるキャンプ地へと到着した。

ジープから降りて、私が真っ先にしたことは、このジープを貸していただいた藤則雄さん(金沢大学名誉教授)への感謝を込めた挨拶であった。それから荷物を降ろし、濡れたテントを広げて乾かすと、午後7時45分にはテントを建てることが出来た。第1調査地のほうは、立ち篭めた雨雲から稲光がしていて、もうすぐキャンプ地のほうにも来そうな気配であった。午後8時13分、羊の内臓肉で作ったお粥の晩飯を食べていると、雨が降り出した。テントの中へと避難し、寒くなって来たのでウインドブレーカーを着用した。午後8時30分、雨風が激しくなって来て、上空を雷が通過して行くのが分かった。

午後8時43分、リュックサックから調査道具を取り出してパッキングし直していると「テントが雨漏りしている」とかで、中川雅博さん(近畿大学)が避難して来た(ここからテントは、中川さんと一緒であった)。彼と「晩飯が足りない」という話をしていると、雨でずぶ濡れになったムーギーが、テントまでお粥を配達してくれた。彼女はサンショウウオ・チームの料理担当で、格段に気の利く、誰が見ても筋骨隆々の女性である。2005年9月からは、モンゴル教育大学大学院の博士課程に進学することになっていた。指導教員は、ズラさんと私だそうで「キタサンショウウオの繁殖行動の研究をやりたい」という話であった(1)。

22日(月曜日)は第1調査地から引き上げる日で、ジープのドライバーがアムールイトウを釣り上げたことは既に書いた。その日は午前11時44分に昼食を採り、中川さんと2人でテントをたたんだ。それから、パッキングしたリュックサックを紐(ひも)で縛り、トラックへと積み込んだ。荷物を積んだトラックは、このままウランバートルまで直行するから、必要なものは手荷物としてジープに持ち込むことになる。午後1時19分、学生・大学院生も含めたサンショウウオ・チームに自然史博物館の研究者2名を加えたメンバーで、ジープに乗って出発した。当然のことながら、その日のうちにムルンへは着かず、途中でキャンプを張ることになる。

午後3時2分に国立公園の出口で通行の許可を受け、途中のキャンプ地には午後3時25分に到着した。私たちが乗ったジープは第1調査地をジープの最後尾で出発したはずなのに、なぜか一番乗りであった(途中で追い越した記憶もないのに、他のジープは一体どこで道草を喰っているんだろう?)。午後4時5分、とりあえずテントを張って、他のジープを待つことにした。午後4時22分、調査隊長の○○さんのグループが乗ったジープが到着したのを皮切りに、学生の大部分が乗ったトラック、ビャンバーさんのグループのジープ、荷物を積載したトラックが次々と到着した。午後6時37分、藤さんのグループのジープ、タミルさんのグループとナランチェストさんのグループが乗ったジープが到着した。これで全員が揃ったことになる。

午後7時50分、モンゴルと日本の教員・研究者21人が一ケ所に集まり、シャンパンとアルヒで乾杯の儀式をおこなった(このときロシアのグループは、既に自分たちのジープでウランバートルに向かっていた)。それから、それぞれの国の歌合戦が始まり、たき火を囲んでの宴会となった(このとき学生は学生で集まって、何かしていたようである)。午前0時35分、お開きの後、午前1時には就寝することが出来た。風が強く、星の綺麗な晩であった。

23日(火曜日)の朝(午前6時頃)、早くに起床すると、はるか彼方に見える森林地帯まで私ひとりで歩いて行き、倒木をひっくり返して、キタサンショウウオ個体の発見に努めた。サンショウウオ・チームの他のメンバーは、とっくに調査が終わったものと思っていたようだが、ジープで移動する際も、休憩で停まる度に、私だけは周辺の倒木をひっくり返してサンショウウオを探していたのである。佐野智行さん(姫路獨協大学)からは「仕事熱心だねえ」と感心されたのだが、そういったことではない。私の目的は「このテーマで論文にするとき、何をしなければならないのか?」を常に考え、実行することにある。そのためには「ホドン川周辺の森林地帯以外にも、色々な場所を探したという事実が必要」と判断したまでのことである。

午前8時20分に朝食を採り、午前11時に集合写真を撮影すると、午前11時30分にジープで出発した。このジープには、藤さん、ナランチェストさん、エンフバトさん(通訳)、それと私の4人が乗車した。ここからは、学生・大学院生は全員がトラックの荷台への乗車である。午前11時48分に峠のオボーで休憩し、午後1時10分、バーヘミン川に到着した。ここは、ムルンとダルハディンを行き来するときに必ず渡らなければならない重要なポイントで、ムルンまでは約130kmの距離である。午後1時50分に川を渡り、途中途中で休憩をはさみながら、午後6時、その日の宿泊地であるムルン市内のゲル・ホテルへと到着した。

ムルンからウランバートルへ就航している搭乗便の関係で、モンゴルと日本の教員・研究者は、ここで一泊である。午後6時50分、学生が乗ったトラックを見送ってから、夕食のためにホテルのレストランへと向かった。ムルンでの出来事は、また別の機会に、したためることにする。

[脚注]
(1) 修士課程の大学院生であったタイワンのときもそうだが、私への指導教員の依頼の件で「モンゴル教育大学からは、正式な文書(辞令)が降りていない」という難点があった。これでは、幾ら私が「大学院生の研究・教育指導をしている」と主張しても、日本では認められないだろう。私は、モンゴル教育大学から給料をもらっているわけではない。それなのに、こういった辞令なしに大学院生への責任だけ負わされたのでは、こっちとしてはたまったものではない。


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