富田林と吉田松陰 (嘉永6年、仲村家に滞在)

                                

「富田林と吉田松陰」 (嘉永6年2月・3月)

富田林・寺内町にある石上露子の生家・杉山家の人物系譜の中で父・杉山団郎を調べている中で、森田節斎と吉田松陰が富田林へ来たのは何で来たのかと思うようになり、調べてみると以下のような事であった。

「石上露子を語る集い」代表 芝昇一氏

吉田松陰が滞在した仲村家住宅
(大阪府有形文化財指定)
(2004年5月9日講演録から引用)

 嘉永五年(1852年)佐渡屋徳兵衛家(仲村家住宅)では、泉州熊取の岸和田藩大庄屋中家との婚姻が取り結ばれた。しかし、同年末から両家との間にトラブルが生じ複雑な事態になり、翌六年二月に至り、佐渡屋では中家当主中左近とも同じ尊攘派学者として面識がある大和五条の学者森田節斎に調停を依頼することになった。森田節斎(文化八年〜明治元年)は、頼山陽の高弟であり、江戸昌平興にも学んだ学者である。この森田節斎は佐渡屋徳兵衛の叔父増田久兵衛と同郷であり、増田家とはかなり親密であった。二月十四日に森田節斎は増田久兵衛と同道して佐渡屋を訪れた。佐渡屋の日記「年中録」には「二月十四日熊取縁談之掛合用二付五条増田氏共二森田節斎先生同道入来被下候」と記されている。

然しこの時、森田節斎は一人の青年を連れて来た。「年中録」の他の別の一記録には、「森田に付添罷越候長州浪人吉田と申す者両人有之候所、長滞留被致」と記されるこれは吉田松陰の事である。松蔭はこの嘉永六年、脱藩の罪を許され、遊学の許しを得て江戸に赴く途中にあり、当時は二十四歳であった。松蔭がこの時どうして節斎と共に佐渡屋を訪れる事になったのか。

松蔭が長州萩を発足したのは、正月二十六日で、海路を大阪に着いたのは二月十日であった。彼が大阪で最初に訪問した人物は坂本鉱之助であった。鉱之助は萩野流砲術家坂本天山の子で、当時玉造口定番与力、桃谷の屋敷を与えられ、砲術教授も行っていた。特に、天保八年大塩平八郎の乱に際しその砲撃によって乱鎮圧に功績をあげ広く名が知られるに至った。松蔭はその名を聞き防備軍事への関心からその人に会おうとした。

翌十二日には高津宮に参詣したあと、松蔭は大和五条の森田節斎を訪うべく急いだ。節斎の門人で、松蔭も先年奥羽で会った事のある江幡五郎(のち那珂悟桜)という人から頼まれたことを節斎に伝える事がひとつの目的であった。しかし、頼山陽の高弟として聞こえ、海防や尊皇思想に関心深い節斎その人に会い、教示を受ける事に大きな期待を抱いていたであろう。松蔭は平野から大和川を渡り、家々で織る河内縞にも目を向けながら藤井寺、古市を経て竹内街道を通り二上山を越え竹内で泊まった。その日の詩に「一日三州(摂津・河内・大和)の路を踏む、摂を出て河に入り大倭に入る」と詠んでいる。(発丑遊歴目録)

翌十三日「風雨・蓑笠を侵し、残寒、粟肌に生ず」と詠じながら新庄を通り行程六里、漸く五条に達し医師堤孝亨宅に於いて初めて節斎に会うことが出来た。節斎は当時四十三歳意気軒昂なときであった。その時「夜半に至り快甚し」と松蔭の日記には記されている。

翌十四日、節斎は、富田林佐渡屋徳兵衛家からの依頼の約束もあり、出向かねばならず、前日に遠路を着いたばかりの松蔭はまた節斎に従って富田林に同道することになったのである。「十四日晴、節斎に従い錦部郡(石川郡の誤り)富田林一富豪家仲村徳兵衛に至る。増田九左衛門もまた従う。五条を出て千窟(千早峠)を登る。山頗(すこぶ)る高峻、千窟城(千早城)は阪に在り金体寺・赤坂・嶽山(だけやま)数砦、前になり、連珠の塁を為す。山を下れば即ち千窟村、村を過ぎて、富田林に至る」と日記にある。

松蔭は前日大阪から五条に着きすぐに又、この朝五条から千早を越えて富田林へ来たのである。真に精力的な健脚ぶりである。松蔭としては暫く節斎のもとに滞在しその話を聞くつもりであった。ところが、節斎は富田林佐渡屋の依頼で出向かねばならず、やむなく同道を促したのである。さて、佐渡屋に着いてからは何をしていたのか二十三日迄の十日間「長逗留」したのである。松蔭の日記には二月十五日には松蔭らは佐渡屋に所蔵されていた董其昌(とうきしょう)・趙礼叟(ちょうれいそう)などの中国の書また空海の書や雪舟の画く龍虎図などを見た。松蔭も「みな希觀(きこう)なる者」(まれにしか見ることの出来ないもの)と記し、節斎も甚だ賞嘆したという。また、この地を領する伊勢神戸藩では財政困難に陥り、農民たちに百両出せば名字太刀一代を許し、百五十両出せば苗字世襲・太刀一代を許し、二百両出せば苗字太刀世襲などという新令が出されたことなどを日記に書きとめている。

十六日には安芸緋縅(ひおどし)の事また若狭小浜の僧琅山(ろうざん)から明徳説を聞いたと記す。そうした角力取や僧侶が富田林に来ていたのであろうか。この日は他に象戯師(将棋)や碁の本因坊のことなど書いた。十七日にも出来事らしいものは無かった。ただ、「河泉の間、女工其の盛ん、男子もまた閑あれば即ち綿を紡ぐ、また一奇也」と記しているのが注目されよう。長州の農村と比べてこの光景が特異に見えたのである。偶然の閑暇を楽しみながら、佐渡屋に滞在していたように思われる。

漸く二十三日松蔭は節斎に従い岸和田に赴いた。佐渡屋からの依頼で相手方中家が岸和田藩大庄屋であることから、岸和田藩儒相馬一郎を訪ねた。その六里の道中での節斎の詩の一節には、「他日忘る勿れ、河内路、輿中輿外(駕籠の内と外とで)共に文を論ず」とみえる。おそらく節斎はその傍らを徒歩で従い、河内の風景をみやりながら、議論しあったのであろう。彼等は佐渡屋の依頼で相談するために赴いたのであるが、又その地の学者と議論することに目的はあったようで、三月三日まで岸和田に滞在しそれから堺に、また熊取の中家出入の医師左海祐斎に掛け合ったりした。その間も、松蔭は節斎に同行していたのである。三月十八日、二人は再び富田林佐渡屋に帰着する。その後四月朔日(ついたち)に大和に出立するまでの二週間ほど佐渡屋に滞在していたこの間の資料がない。

松蔭は節斎と一旦わかれ、四月一日に出立して大阪に立ち寄った後、再び大和に赴いた。松蔭は五条にしばらく滞在したのち節斎の紹介で、八木の聾(ろう)儒谷三山を訪ね、筆談を行った。その後、奈良、伊勢、津を経て六月五日、江戸に至る。丁度、ペリーが軍艦四隻を率い浦賀に来航していたときであった。それを眼前にした松蔭は、また新たな思想と行動へ向かう事になるのである。

佐渡屋徳兵衛(信道)は、松蔭より一歳上の二十五歳で、松蔭と語り合うには良い年齢であった。松蔭の安政六年十月二十七日の死後、谷三山宅の追悼式に佐渡屋徳兵衛の名が出ている。松蔭はこの河内大和に於ける八十日間を生涯最良の時と言い、富田林滞在中は、行動から行動へと自らを駆り立てずにはおられなかった松蔭の僅かに有した心安らかな時間であり、師友との出会いは暫しの充電期間であり、富田林が学問好きの若い浪人を厚遇した文化的包容力を持っていたという事を語ってもいるだろう。                                    以上

(注記)
上記内容は「石上露子を語る集い」芝昇一代表が2004年5月9日(日)午後に富田林寺内町センター集会室で開催された同会第6回定時総会の席上で講演された講演録です。講演内容は「富田林市史」等の資料などから引用・ご朗読されたものです。同会会報5月号「小板橋」(第五十号)に収録されました文章をそのまま転載させて頂きました。(2004年5月30日、歴史散歩、同会会員・「富田林寺内町の探訪」管理人)

富田林と天誅組エピソード

祢酒太郎氏(元・富田林市役所市史編纂室長)の著書「とんだばやし歴史散歩」(1976年刊、富田林市中央図書館蔵書)第1編第13節 「吉田松陰、仲村家に滞在〜嘉永6年2月・3月」項には、仲村家に滞在した吉田松陰とその後の天誅組との関連について、以下のような興味深い記述がありますので、一部を引用させて頂きました。

(引用)

奈良本辰也著「吉田松陰」(岩波新書)によると、松蔭は嘉永4年(1851年)3月、藩主に従って江戸に留学し、一代の傑物、佐久間象山に師事した。このことが一大転機となって、東北の旅に出たあと、亡命の罪に問われ、富田林に来た松蔭は、士籍を削られ,世禄を奪われ、全く一介の浪人であった。松蔭がこの旅に出られたのは、松蔭の失脚を惜しんだ藩主から特に父百合之助に対し、十カ年諸国遊学の願い出をするように内命があったからである。松蔭は第2回目の江戸遊学の途中、各地の知名の士を訪ね、5月24日、江戸入りするが、それから十日後には、江戸はペリー艦隊の浦賀入港で混乱の渦が巻いていた。その中で24歳の松蔭は佐久間象山と連絡し、ひそかに浦賀への出かけて「賊艦」の装備や動静を調べている。

松蔭が富田林を去って十年後、伊勢神戸藩(下注)の支配下にあった甲田村から水郡善之祐(のち喜田姓に改名)を筆頭に天誅組河内勢が出ている。仲村徳兵衛の次男、徳治郎は松蔭の滞在中、毎日近づいて給仕をしていたが、当時十五,十六歳であったこの少年が十年後、天誅組の一員として義挙に参加した。

また、仲村家のすぐ近くで塾を開いていた辻幾之助も徳治郎と共に活躍した天誅組の有力な志士の一人であったことを思うと、松蔭の富田林での滞在が地元の人達、特に青年に与えた影響は大きなものであったのではなかろうか。                              以上


(注)
伊勢神戸(かんべ)藩: 膳所藩本多家の分藩。1万5千石。現在の三重県鈴鹿市



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