江戸時代の障壁画

興正寺別院 (こうしょうじべついん)


富田林・寺内町の寺院や町家には江戸時代の絵画や書も多く残されています。寺内町の成立・発展の中心となった興正寺別院の本堂 (外陣)には、江戸時代の狩野派画家・狩野寿石秀信筆の襖絵  (障壁画)である、「松図
(写真上)と「竹梅図(写真下)がそれぞれ残されています。

狩野寿石秀信は幕府御用絵師として、御所、東福門院御所、東宮御所、仙洞御所、江戸城、大坂城、二条城等の公の画業に携わり、華々しく活躍しました。興正寺別院の襖絵の制作年代は、興正寺別院が永禄4年 (1561年)に建立された後、寛永15年 (1638年)に再興されましたが、内陣の欄間彫刻や仏壇まわりが元禄5年 (1692年)に改造されているので、この頃の制作かと思われます。「忠臣蔵」でおなじみの元禄14年 (1701年)、浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた場所が、俗称江戸城本丸”刃傷松の廊下”で、この廊下の”松”を描いたのが寿石秀信でした。 


(注記) 大阪芸術大学資料 (1997年6月発行)より一部を引用させて頂きました。


興正寺別院・本堂襖絵 「松図」 (狩野寿石秀信筆)
「松図」 (狩野寿石秀信筆)


興正寺別院・本堂襖絵 「竹梅図」 (狩野寿石秀信筆)
「竹梅図」 (狩野寿石秀信筆)



興正寺別院本堂(欄間彫刻)

興正寺別院本堂の正面欄間には、中国故事「二十四孝」に由来する7話を題材にした欄間彫刻が施されています。
エピソード

大阪府南河内郡富田林町(当時)は、1944年8月下旬に始まる大阪市学童集団疎開の府内における受け入れ地のひとつであり、東住吉区の平野国民学校と育和国民学校から同年9月17日に集団疎開が実施されました。寺内町域にある西方寺、興正寺別院、妙慶寺、浄谷寺などを含む11か所には平野国民学校から学童448名、派遣教員15名、寮母14名、作業員12名の受け入れが行われたとの記録が残っています。興正寺別院本堂には平野国民学校の5年男子65名が逗留したそうです。近鉄富田林駅周辺や石川河川敷には本土空襲が激しくなった時期に艦載機からの機銃掃射が行われましたが、寺内町域は幸いにも戦災から免れました。
(参考資料) 「大阪河内の近代−東大阪、松原、富田林の変貌」(大谷渡著、東方出版 2002年5月)

また、興正寺別院・院主(華園勝文氏)からお伺いした話では、本堂障壁画の表面に残る一部の擦れ傷はこの時の学童疎開の児童が残したものだそうです。


重要文化財・旧杉山家住宅


富田林寺内町の建設当初から関わった旧家。江戸時代中期から木綿業をはじめ、その後酒造業に転じて財を築いた。国の重要文化財に指定された母屋内部は、大床の間、座敷、奥座敷など京風の数奇屋造様式を取り入れた造りになっており、江戸時代の狩野派画家 狩野杏山守明筆の障壁画や水墨画が描かれている。


大床の間
障壁画「老松の図」は文化文政の頃、狩野杏山守明の筆



座敷の水墨画 狩野杏山守明の筆






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Copyright 2002 by Naoya Okutani , edited in Japan