惠  日  寺(慧日寺)

                                      ▼ 耶麻郡磐梯町磐梯字堂東
                                      ▼ 磐越西線磐梯町駅バス大寺局前下車7分

  磐梯町駅前の大寺集落を北へ進むと本寺の集落があり、その突き当たりが恵日寺(えにちじ)跡(国史跡)です。恵日寺は会津仏教文化発祥の地、最古の総合寺院です。現在の恵日寺(えにちじ)(真言宗、山号は磐梯山は恵日寺跡の西南部にあります。

 平安時代の初め、法相宗の僧、徳一が奈良仏教の腐敗をきらい、常陸の国筑波山中禪寺をへて会津にきて、807(大同二)年磐梯山南麓に恵日寺を開き、ここで没しました。粗衣・粗食に甘んじ、厳しい修行の中から、天台宗を開いた最澄と「三一権実(さんいちごんじつ)論争」と呼ばれる5年間にわたる大論争を展開し、真言宗をひらいた空海(弘法大師)にも批判を加えました。

 開祖徳一の事業は金耀(こんよう)に受け継がれ、平安後期になると多くの寺僧や僧兵を擁して子院3800坊に及び、堂塔甍(どうとういらか)を連ねて壮観をきわめたといいます。そのころは会津四郡にその支配権がおよんだと伝えられますが、旧蔵の寺宝のなかに法隆寺などがもったと同じ古尺と淳和天皇下賜と伝える「余戸郷印(あまるべごういん)」の銅印があることは、その伝承の確かさを示しています。『平家物語』や『源平盛衰記』に登場する乗丹房が宗徒頭として活躍した平安末期には越後国小川荘(新潟県東蒲原郡)も寺領に加えたといわれますが、衆徒頭の乗丹房(じょうたんぼうが、平氏方についた越後の豪族城四郎長茂と同盟し、1182(寿永元)年、木曽義仲追討のため信州(長野県)へ出兵し、横田河原の戦いで大敗しました。そのため恵日寺の勢力は大きく後退しました。

 戦国末期には、このあたりで蘆名氏と伊達氏の戦いが繰り広げられましたが、1589(天正一七)年、伊達政宗の侵攻による兵火のため、恵日寺の堂塔伽藍はほとんど灰燼(かいじん)に帰しました。わずかに残った寺領も翌年蒲生氏郷が会津の領主として入部すると没収され、蒲生秀行のときようやく五十石の寺領を寄進されました。会津松平家の祖保科正之は、明暦年間(1655〜58)恵日寺を修復し、50石の土地を寄進しました。

 かって、広大さを誇った寺跡は、磐梯神社境内を中心とする約一町(1ha)で、金堂跡には磐梯神社が建っており、東側の三重塔跡には、1611(慶長十六)年の供養碑があります。石塔群のなかを奥へ進むと徳一廟があります。この石塔は平安期の層塔からなり、1979(昭和五四)年解体修理の際、経石130個が出土しました。西方1kmには戒壇跡があります。

 現存する絹本著色恵日寺絵図には1511(永正八)年高野山で修復した旨の墨書があり、鎌倉末期から室町初期頃の伽藍配置が描かれています。この図には、仁王門(南門)・中門・金堂・根本堂・両界堂が一直線に配置されており、恵日寺はある時期から台密(天台系密教)となり、鎌倉時代頃には真言宗に転宗したものと考えられます。寺宝のなかで、白銅三鈷杵(さんこしょ)(重文)は見落とすことの出来ない絶品で、類例は正倉院御物と日光二荒山出土品だけというものです。また惠日寺鉄鉢(重美)や、紙本墨書田植歌(県重文)、日光・月光菩薩面(県重文)も貴重な文化財としてしられています。


 

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