福島県の原始

            

 最近、「旧石器発掘ねつ造」の考古学の根底を揺るがす問題が発生しましたが、県内でも、一斗内(いっとうち)松葉山遺跡、原セ笠張遺跡が問題となっています。  

 それはさておき、東北自動車道の建設に続いて、東北新幹線・母畑地区農地開発・相馬地域開発などの関連発掘調査に加えて、東北横断自動車道建設工事関連の発掘も進められ、これまでの遺跡発掘の調査研究から、はるか夜明けの福島の姿が、これまでになく鮮明になってきました。

 伊達郡桑折町の平林遺跡の調査から、私たちの祖先が2万〜3万年前の旧石器時代から住んでいたことがわかりました。また、耶麻郡高郷(やまぐんたかさと)村の塩坪遺跡からは、黒曜石片が出土し、1万4000年くらい前に、この地方の人々が直線距離で220kmに及ぶ長野県の和田峠から産出する黒曜石の交易圏に入っていたと推定されてます。縄文時代に入ると、こうした動きは益々著しくなり、伊豆諸島の神津島 (こうづしま)産出の黒曜石が、南会津郡只見町窪田(くぼた)遺跡まで運ばれ、新潟県の姫川流域産出の硬玉(ヒスイ)の大玉が、東白川郡矢祭町我満平(がまだいら)遺跡で暮らしていた人々に用いられ、日本海沿岸のアスファルトが、太平洋側の相馬郡新地町三貫地しんちまちさんかんじ)遺跡の人々の手に入り、骨角製漁具の柄の接着剤に使われていました。

 縄文時代早期では、双葉郡大熊町大平(おおだいら)遺跡・耶麻(やま)郡塩川町常世(とこよ)遺跡などが知られていますが、前期では、東北地方でも最も古い貝塚のひとつといわれているいわき市平鎌田の弘源寺(こうげんじ)貝塚があります。ここで暮らした人々は、ヤマトシジミを食べ、鹿やイノシシを捕らえ、鹿の角で釣り針やもりをつくってタイやカツオをとって暮らしていました。

 中期では、河沼郡柳津町の河沼郡柳津(やないず)石生前(いしうまえ)遺跡から粘土紐と沈線で渦巻文をつけられた豪華な土器が出土しました。これは、阿賀川沿いに日本海側から伝えられた火焔(かえん)土器とよばれるもので、耶麻郡西会津町野沢の小屋田遺跡かも出土しています。この時期には、住まいの構造にも変化がみられ、二本松市原瀬の上原遺跡の住居では、中心部の炉に接してもう一つの炉がつくられています。これはやがて外壁へ移動し、「かまど」へと変化していきます。なお、この頃から粘土の「たたき」のほかに敷石の住居もあらわれてきます(相馬郡鹿島町上栃窪(とちくぼ)遺跡)。
 

 後期には、敷石住居が広く普及しました(大沼郡三島町佐渡畑遺跡)。容器でも、千葉市加曽利貝塚の土器の流れをくむものがつくられ(伊達郡国見町川原遺跡・河沼郡坂下町竈原(かまどはら)遺跡)、いろいろな形の容器が工夫され、生活の質的な水準が向上しました。またこの時期には、「安座する土偶」(福島市飯坂町東湯野の上岡遺跡)や環状列石(田村郡船引町北鹿又の前田遺跡)などもあらわれ、内面的な動きの表現にも大きな変化がみられました。

 晩期には、大洞(おおぼら)式とよばれる土器が広く普及し、いわき市小名浜では、茎糟式離頭銛や組合せの「寺脇(てらわき)型」釣り針などを用いて、マグロ・イルカ・サメ・タイ・カツオなどをとっていました。
 耶麻郡西会津町の上野尻(かみのじり)遺跡や郡山市田村町の御代田(みよだ)遺跡などでは縄文晩期から人々が住み着き、関東から伝えられた弥生文化を受け入れて、稲をつくり、磨消(すりけし)縄文をつけた壺や碗を用い、一度埋葬した死者の骨を拾って骨壺に入れて、再び埋葬しました(再葬墓)。稲作は、白河市天王山遺跡・安達郡大玉村諸田遺跡にもひろがり、相馬郡飯舘(いいだて)村大倉地内の真野川流域のような高冷地でもおこなわれました。再葬の風習も会津若松市の墓料遺跡・石川郡石川町の鳥内遺跡・伊達郡霊山(りょうぜん)町の根小屋(ねごや)遺跡でもおこなわれていました。弥生時代が進むにしたがって、経済的に富裕なものがあらわれ、壺や甕(かめ)を棺としたものや土壙墓(どこうぼ)がつくられ、勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)を副葬しました(双葉郡楢葉町(ならはまち)北田の天神原(てんじんばら)遺跡)。

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