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伊達郡桑折町万正寺字坂町 梁川の対岸、桑折町にある西山城も、伊達氏の本城として重要なものでした。この城もまた初代朝宗の築城と伝えられています。桑折は古代の郡衙(ぐんが)の所在地とも推定される土地であり、朝宗築城の伝えはかなり真実性があるといえます。 東北自動車道のガードをくぐって坂を上ると坂町観音(観音寺)があります。その前の道を上って右に入れば西山城趾(国史跡)への道です。山道を500mほど登ると二の丸跡があり、さらに200mも進むと標高193mの西山城本丸跡(高舘跡)に至ります。西山城は、築城年代は不明ですが、奥州守護職十四代伊達稙宗(たねむね)が1532(天文元)年に対岸の梁川城から移ってから、いわゆる伊達氏天文の乱後の1548(天文一七)年頃、その子晴宗が米沢城に移り住むまで、伊達氏の本拠となりました。西山城は本丸の北方の産が沢川の河岸段丘上に馬場、本丸から500mほど西の標高220mの所に西館・中館を築き、本丸の周囲に空堀をめぐらし、中館と西館の間には野面石の石塁が築かれた規模の広大な山城でした。桑折駅の西方丘陵上にあるこの城は、古代以来の交通の幹線をひざもとにおさえる政治・経済上の要地で、館跡からは信達平野や吾妻連峰などが展望できます。 観音寺は伊達氏の四代伊達政依(まさより)が室町幕府の設けた五山の制にならって創建した伊達五山の一つで、もとは臨済宗で、のち霊山寺門流に属して天台宗となり、さらに浄土宗いわき専称寺末となりました。伊達五山は、虎関師練の(こかんしれん)の「済北集(さいほくしゅう)」によれば、伊達政依が、京都の東福寺主席を務め、1286(弘安九)年に会津若松の門田に東昌寺を開いて住んでいた山叟慧仏(さんそうえぶつ)(仏智)を招いて、始祖伊達朝宗のために満勝寺を開き、次いで父義広のために観音寺、朝宗夫人
結城氏のために光明寺、義広夫人のためと推定される光福寺を創建し、東昌寺を移して自らの寿塔を建ててこれに加え、伊達五山としました。これはいずれも仙台に移され、今は寺跡すら明らかではありません。ただ一つ現存する坂町観音には、木像聖観音座像(県文化)や洛中洛外図・田村将軍蝦夷退治図などの絵馬などがあります。 伊達家の家系 |