作成:2003/1
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 横浜 Y-07
写真1
関東大震災当時の横浜地方裁判所の庁舎
横浜地方裁判所震災略記 1935より
写真2 横浜地方裁判所慰霊碑
当時の横浜地方裁判所は明治23年に新築された西洋風の煉瓦造り二階建ての建物であって、地震によりもろくも崩れ落ちました。まもなく付近一帯から発生した火災の猛火に襲われ、所長をはじめとして、合計94人の命が失われるという惨事が発生しました。
当時の様子を「横浜地方裁判所震災略記 部長判事 長岡熊雄 震災遭難記 1935」を抜粋して示します。
・・・当時の裁判所の構造は三千余坪の敷地に鉄柵を廻らし表門と裏門とあり本館は中庭を囲んで前後左右の廓をなせる四角形の構造で前廓は煉瓦造の総二階なるが中央ばかりを三階の物見台とし後廓も煉瓦造であるが之は左右両端に丈を二階とし中央は一階であった。
左右両廓は木造の総二階であったが外部にコンクリートを塗ってあったため私はうかつにも地震の当日までコンクリート造だと思っていたがコンクリートが剥げたところを見ると木造なることが判った。
本館の外に煉瓦造の倉庫三棟と登記所、宿直室、廷丁部屋、人民控所等の付属建物があった。又後廓一階の下は地下室で拘置処に使用せられており囚人は此地下室から或は公判廷へ或は予審室へ出るようになっていた。此構造は他に類がないので横浜のセリ上ゲといって有名なものであった。
本館も倉庫も煉瓦造の部分は震動の直始に崩壊し木造の部分は倒壊しなかったが大破損をなし或は天井の落ちたところもある。しかし続いて起こった劫火のために悉く燼灰となった。之がために末永所長を初め判検事、弁護士、新聞記者、起訴関係人等多数の殃死を見るに至った。 実に前代未聞の悲惨事である。・・・
写真3 横浜地方裁判所
写真4 横浜地方裁判所慰霊碑(題字部)
撮影:2002/12
関東大地震の32年前、明治24年(1891)には日本の陸上で起こった地震では最大といわれる濃尾地震が発生し、七千人以上の犠牲者を出しました。この地震によって、煉瓦造の紡績工場や公共の建物が数多く倒壊し、煉瓦造の建物が地震に弱いことがわかりました。
横浜地方裁判所庁舎は、濃尾地震の前年に建てられた煉瓦造の建物であり、煉瓦造の建物が地震に弱いという意味では、建てられたその時から惨劇への道を歩み始めていたともいえそうです。ある建物が地震に弱いと判っていても、建替えたり、耐震補修したりすることは当時でも、現在でも容易ではありません。
1981年以前の耐震基準に基づいて建てられた一定以上の建物には、「建築物の耐震改修の促進に関する法律」によって耐震改修の努力義務を課せられていますが、耐震改修はあまり進行してないようです。