“恐怖”には大きく分けて2種類のものがあります。知らないことによる恐怖と、知っているからこその恐怖です。
知らないことによる恐怖……言い替えるなら、予想がつかない不安による恐怖です。極端に強い不安感ともいえます。例えば、暗闇が恐いのは、中に潜んでいるかも知れない「何者か」が見えないからでしょう。
人は無意識の内に次の瞬間のことを予測して行動しています。もし、次に起こることが完全にわからなければ、不安から来る恐怖を感じることになります。遊園地のデートの定番「お化け屋敷」の面白さは、この予測のつかない不安感を楽しむことにあります。
知っているからこその恐怖は、その正体がわかっているにもかかわらず、自分を圧倒することが可能なモノ(モンスターや事件や現象)に対する恐怖です。その威力を知っているからこそ恐いというわけです。極端な話、拳銃を生まれて初めて見る人にとっては、銃口を向けられたとしても恐怖は感じられないでしょう。
クトゥルフで面白いのは、この「知らない恐怖」から「知っている恐怖」に転換する瞬間です。訳のわからない怪異現象がいくつも起こり、それがプレイヤーたちの仮説や事件や魔道書などによって、その裏に強力な超常の存在を知る(推理する)瞬間に走る知的でかつ恐怖に満ちた戦慄……それこそクトゥルフの最大の魅力であるといっても過言ではないでしょう。
(中略)
自分が信じていた良識や「真実」だと思い込んでいた事象が、単なる幻想にすぎないと知ったとき、自分の意識や存在や判断の根拠に自信が持てなくなり、何もかもが崩壊して行くような気分……いわゆる「足元ががらがらと崩れ落ちた」ようなショックを受けたとき、心に恐怖が生まれます。
例えば、いままで善良だと信じていた人物が殺人鬼だったりするショックというのは、みなさん推理小説などの中でお馴染みだと思います。
人でないモノが人の振りをしている、神(キリスト教)の教義ではとうてい救いえない強大で異質のモノがこの世界を伺っている、クトゥルフ神話小説でお馴染みのこれらもまた、人々の価値観を崩す恐怖だったのです。(もっとも、前者は今では手垢がつくほど使い込まれたネタになってしまいました。また後者はキリスト教的世界観が身についていない我々にとって、今ひとつぴんと来ないモノがあります)
クトゥルフ神話の中にはこのパターンの恐怖がたくさん出てきます。そもそもクトゥルフ邪神の存在自体が、このパターンの恐怖なのですから。
どちらかというと、これはシナリオレベルの問題です。シナリオを離れて、ゲームの中にこの恐怖を反映するのはかなり難しいと思われます。ですが、逆にいえば、市販のシナリオをプレイする際に、この点に気をつけて読んでいけば自然とシナリオのツボがわかると思います。
前々項で、「知らない恐怖」から「知っている恐怖」に変わる瞬間が……と書きましたが、この「崩壊する価値観」は、逆に「知っていること」から「知らない恐怖」に転換することにより恐怖を作り出しているわけです。
SANチェックは、ただ単に恐怖に驚いたために行われるものではありません。“宇宙”の本質的な恐怖(あるいは「クトゥルフ神話的恐怖」)に向き合ってしまったとき、その人間が、そのおぞましさに耐えきれるかどうかを試す“チェック”なのです。
もう一つ、誤解されやすい点として、正気度と狂気との関係があります。
そもそも正気度とは、その人がどれくらい狂っているか(あるいは正気か)を示す数字ではありません。どれだけの「“異常な”“おぞましい”事態に耐えられるか」を示しているのです。言い方を替えるなら、いくら正気度が高くても狂人は狂人です。
(後略)
クトゥルフでは狂気には大きく3種類あります。一時的狂気、不定の狂気、永遠の狂気です。
すべての狂気に共通なルールは「狂気に陥ってるキャラクターはNPCとなる」ということです。
一時的狂気はもっとも起きやすく、また持続時間が短いものです。これに陥ったキャラは理性的な行動をとれなくなります。
不定の狂気に陥ったキャラは理性的な行動、積極的な行動が取れなくなります。基本的に技能を必要とする行動もできないと考えた方がよいでしょう。
永久的狂気はほかの2種類の狂気と違います。たいていの場合、道徳観の破壊が伴うからです。
道徳観が破壊されるということは、つまりクトゥルフ邪神を認め、その力にあらがうことをやめてしまったということなのです。
いったんこうなってしまったら、彼または彼女にはクトゥルフの探索者を続けていく理由はありません。もし、彼または彼女が再び登場するとすれば、無関心無感動な世捨て人になっているか、ぶつぶつと狂気の知識をつぶやく狂人になっているか、あるいはクトゥルフ邪神の圧倒的な力に魅惑されPCたちの敵となって立ちはだかるか、いずれかです。
永久的狂気に陥っているキャラクターは、理性的な行動も積極的な行動もとれます。ただしモラルを喪失したNPCとしてですが……
(前略)
永久的狂気は前述のとおり、道徳観の破壊が伴います。永久的狂気に陥っている人物は、もう、人間の努力や英知や道徳などといったものを信じられなくなっているのです。
(中略)
呪文使用による正気度の喪失は、おぞましい行為を自らの手で起こしてしまうことに対する罪悪感と解釈すればよいでしょう。これなら、SAN値0の道徳観が破壊されたNPCがSAN値の喪失なしでこれらの呪文が使える理由もつきます。
(中略)
SANチェックは単に驚く訳ではありません。対象になった現象・物体がまがまがしい宇宙の波動で人間の精神をむしばむことをルール化したものです。
(前略)
実は、ラヴクラフトの作品の中で、夢の中の世界に直接触れているものはそう多くはありません。
ドリームランドが舞台とされている作品の半分以上は、執筆当時、舞台がドリームランドであることを意識されずに書かれているのです。では、それらの作品がなぜドリームランド系列の作品に分類されているかと言えば、ドリームランドを舞台にしたもっとも長い作品である『幻夢境カダスを求めて』において、それらの事件やその舞台となった土地、関わった人物などがドリームランドにある(いる)と言及されているからなのです。つまり、これらの作品は後からドリームランド系列に組み込まれたのです。
ラヴクラフトの活動時期から見ると、ドリームランド作品は前半期に集中しています。明言はできませんが、ラヴクラフトは後半期はこのドリームランド構想にあきてきたように思われます。たぶん、現実世界に付随するというドリームランドの設定自体が、どこかに救いを持っているからでしょう。後年ラヴクラフトが目ざしたものは、圧倒的かつ畏怖的で、救いのない「恐怖」ですから。
最近は若干また傾向が変わりつつありますが、一時期はホラーといえば、ズルズルグチャグチャのスプラッタものが中心でした。こういうスプラッタは、生理的嫌悪感を催させ、それによって恐怖感を盛り上げています。
スプラッタものの走りである『死霊の夜明け』(原題『Dawn of Dead』/ジョージ・ロメロ監督)はそこらへんを良く考慮した作品でした。しかし、この映画に続いて作られたたくさんのスプラッタ映画はここらへんに気がついていないものも多く、ただ生理的嫌悪感のあるものを出せば観客は恐怖を感じると勘違いしている風の作品が続出しました。ま、しょせん亜流が本家を越えられないのは、こういったところに関しての考察が甘いからでしょう。
スプラッタのすべてが安易な恐怖感に頼ったものだとは言いません。ですが、安易に恐怖を求めようとRPGでグログロの描写をしても、プレイヤーはそんなに恐がってはくれません。
なぜか? それはRPGは映画と違って言葉で描写するしかないからです。RPGでは、マスターの描写が終われば、その怪物の姿かたちはプレイヤーの頭の中にしか残りません。映画と違って、いつまでも画面上を動き回って恐怖の香りを巻き散らすというわけにはいかないのです。
「恐怖」と「生理的嫌悪感」は明らかに別物であり、そして、テーブルトークRPGには生理的嫌悪感は向いていないのです。
ただし、効果的に使用するのなら、シーンを印象的にするのには使えます。要は、恐怖を作り出すのに生理的嫌悪感にだけ頼るのは(三流ホラー映画以上に)うまくないやり方だ、ということなのです。
(後略)
恐怖は“クトゥルフ”の基本的な感情ですが、別に「恐怖」の感情だけにこだわる必要はありません。いや、むしろ、恐怖ともうひとつの感情を混ぜ合わせることによって、お話に奥行きを持たせることができるのです。
「恐怖」と相性のいい感情として「悲しみ」と「嫌悪感」があります。前述のプレイヤーの感情移入がうまくいっていればいるほど、これらの感情も盛り込みやすくなります。
嫌悪感が恐怖にすり替えることもできるというのはすでに述べたとおり、三流スプラッタ映画で実証済み。また、良くできたホラー小説は、単に化け物を出し恐怖を訴えるだけでなく、「人間」の魂の奥底の恐ろしい部分を暴き出してみせます。本当に怖いのは「人間」である、というわけです。
拙作『人形使い師』(RPGマガジン'90年9月号…古いシナリオなので知らない人も多いかな?)では「恐怖」がエンディングで「哀しさ」に変わるという実験をしてみました(あまり成功したとは言えませんが)。ロマンティックな“クトゥルフ”という、今考えてみればかなり冒険的なシナリオでした。
感情ではありませんが、「悲劇」もまた、ホラーによく合う言葉です。
難しいことを考えなくても、プレイヤーが十分に感情移入させたNPCをクライマックスで殺す(あるいは発狂させる)だけでも、かなりの衝撃をプレイヤーに与えられます。できるならば、そのきっかけがPCにあったり、あるいは、PCがNPCを殺さなくてはいけないはめになってしまったりすると、なおさらナイスです。
もっとも、悲劇は好まないプレイヤーが多いことと思いますので、やるときは慎重に、事前に宣言しておくくらいの配慮は必要でしょう。
秘密結社の「秘密」とは、「公的」あるいは「公開」という言葉の対語として使われています。つまり、公的に届けていない、あるいはその目的や所在や会員などを公開していない結社のことです。
(中略)
実際に「秘密結社」という表現を使う場合(特にオカルト関係で)、もう一つの条件があります。
“入会の際に何か秘密の儀式を行うもの”です。入会の際の怪しげな秘密儀式を伴わないものは、非公式非公開の結社でもオカルト上の“秘密結社”に入れないのが一般的です。
こういった秘密結社はその目的から大きく分類して、以下の4つに分かれます。
生活共同体的結社、宗教的(魔術的)結社、政治的結社、犯罪結社です。オカルト系で魔術結社と呼ばれるものはこの宗教的結社に分類しておきます。方向性は違いながらも、傾けられる情熱の質は同じものだからです。
(中略)
結社といえば物々しいのですが、これをギルドと言い換えると、ファンタジーRPGなどでありふれた存在になります。まあ、実際にはギルドと結社はだいぶ違うモノなのですが、そもそもの結成動機が「自己の利益を守り、外部からの圧力や攻撃に対抗する」といったモノであるという点では同じです。
この結社の結成理由が、社会的に認められるものでなければ、その結社の構成員は結社の存在を隠すことになります。つまり秘密結社です。
宗教的結社は、信仰していることがバレたとき世間一般身の回りの人々から非難や社会的圧力を浴びせられるだろう宗教の信者などが結成した結社です。
(中略)
犯罪結社はもちろん、公開できるわけがありません。
生活共同体的結社というのは未開社会や村社会においてよく見られるもので、ある特定の条件を満たしたものだけが入れる“寄り合い”みたいなものです。前の二つと違って、たいていの場合、構成員がその結社に入っていること自体はほかの人にもわかっているのだが、そこでどのようなことが行われているかは公開されていない、ということが多いようです。
(中略)
政治結社は公開されていることもありますが、一般的には既存政治権力に対するレジスタンスの格好をとるので、存在から構成員まで完全に秘密のことが多いでしょう。例外として、政治家の親睦会と主張しているフリーメーソンみたいな例もありますが。
急進的政治結社はまた犯罪秘密結社になりやすい傾向があります。
秘密結社の「秘密」の文字は、存在それ自体よりも、秘密を有している結社であることを示していると解釈する方がいいでしょう。
実際の秘密結社は、この4つのカテゴリーのうちどれに入るとははっきり言えないものがほとんどです。
(中略)
黄金の夜明け団(に限らず、多くの魔術結社)の特徴は、結社内の地位と魔術師としての力や品格が同一視されていることです。
これはとりもなおさず、組織として運営していくことを当初からあまり考慮されていないことを示しています。
(中略)
円滑に組織を運営したい場合、リーダーに必要なのは、その組織の目的に対する実力(魔術結社なら魔術の腕、野球部なら野球のうまさ)ではなく、人々を統べ、意思を統一し、従わせる魅力なのです。
もちろん実力があるということは、魅力の一端を担える要素です(野球部員なら、野球のうまい人に憧れますよね?)。ですが、完全に魅力=実力(あるいは実力=魅力)ではないことは、日常生活をちょっと思い返してみればわかると思います。
近代魔術結社の多くが、数年〜十数年で構成員どうしのトラブルを起こし、2世代以上に渡ることなく分裂解散していることも納得がいくというものです。
ついでにいえば、組織の構成員にとって、組織の目的が生活に近ければ近いほど、実力=地位(品格)の組織構造になりやすいものです。例えば、未開人の狩猟のリーダー、サル山のボスザル、軍隊の小隊規模でのリーダーなどです。
逆に、組織の目的が構成員の生活にそれほど食い込んでいないものならば、実力者とリーダーが別個のものになりやすいものです。例えば、学校の学級委員などです。
あまり勝負にこだわっていないスポーツサークルの会長なんかも、実力より人望が優先されている傾向がありますよね。
言い方を替えれば、組織員がその組織の目的にのめり込んでいるほど、実力=地位(品格)の構造が成立しやすくなっているのです。
この観点を魔術秘密結社に当てはめると、結社構成員の心の大部分は魔術に占められており、普段から魔術中心の生活やものの考え方をしていたりすると思われます。たとえ外では一般人のふりをしていても、ついあらぬところでそういったボロが出てしまうことでしょう。
(中略)
クトゥルフでの陰謀は、それを企んでいる黒幕の正体に次の3種類のパターンがあります。
単発シナリオはほとんどが1か2のパターンですが、キャンペーンシナリオは例外なく、3のパターンです。敵役がたくさんいる必要があるというだけの理由ならば、2の「一族がいる」でもかまわないような気がしますが、キャンペーン自体の黒幕としてでてくることはまったくといっていいほどありません。
これは、キャンペーンにおいて、バリエーションに富む陰謀を持たせるためだと思われます。血縁関係のある一族郎党の陰謀では、どうしても近代的な野望には不向きのようです。シナリオでも2のパターンは比較的因果関係が単純なものが多く、せいぜい邪神を呼び出して村一つ破壊ぐらいのレベルでおさまっています。
宗教団体なら同じ目的のもとに集まった同志ですから、組織の構造も単なる役割分担の範囲を越えて、もっとシステマティックになっており、陰謀集団としての品格を備えていると言えるでしょう。
また、1のパターンでは結局真相を暴いてもせいぜい邪神の復活を阻むという程度のことしかできず、PCとしての活躍の場が作りにくくなります(“異界のクリスタル”や“巣窟”などは成功した数少ない例です)。直接的にPCが対決できる人間(あるいは人間大の神話怪物)が登場する話の方が、PCたちの活躍(特に戦闘に近いアクションシーン)を作りやすいのも確かですから。
つまり、秘密結社は、PCたちが対峙しやすく、またある程度の品格を持って組織だった陰謀を進めることのできる敵役なのです。
ちなみにラヴクラフトの書いたクトゥルフ小説では、不思議なことにほとんど3番のパターンの話はありません。ラヴクラフトは、秘密結社のもつシステマティックな組織性が「訳のわからない圧倒的な宇宙的恐怖」の印象を弱めてしまうと考えたのかも知れません。
(中略)
比較的わかりやすい理由と言えるでしょう。世界征服、世界破滅、邪神復活…そこへ至るまでに何をやらかすか考えるのも怖いですが、最終的な目的を達成してしまったときにどうなるかが怖いというパターンです。
目的自体は直接的に他人に危害を与えるものではなくても、その過程において何か危害を加えられる可能性があれば、やはり怖い秘密組織と言えます。例えば、構成員の現世利益だけを望んでいても、その際の生け贄に人間の命が必要だとしたら。生け贄が無差別にさらわれているとしたら、PCが、あるいはPCの身内がその標的になることもありうるわけです。
秘密結社の匿名性が怖いわけです。これをもっと推し進めると、映画『ゼイリブ』や『ボディ・スナッチャー』、TV映画『V』のような侵略ものになります。
もっとも、侵略宇宙人ならばブチ殺してしまっても問題はないかも知れませんが、秘密結社の場合、ちゃんとした人間なのですから、そういうわけにもいきません。その秘密結社構成員とは顔見知り、友人、恋人、親兄弟かもしれません。
巨大かつ複雑化した現代社会においては、政治にしろ経済にしろ、一個人の意志がその大きな流れを変えることはほぼ不可能です。せいぜいが、その流れの方向修正を行う程度でしょう。いや、それ以前に、一個人が個人レベルで政治や経済の機構や情報を完全に把握すること自体が極めて難しいことになっています。
ところが、一般に秘密結社にはこうした経済や政治の流れにもっと大きな影響力を与えられると考えられています。つまり政治的秘密結社には、常に、これがある意志を持ってこれらをコントロールし始めたときにどうなるかという恐れがつきまとっているのです。
これは、逆に言うなら、個人レベルの手を離れて、まるでそれ自体が生き物のように動き続ける政治や経済のシステムへの恐怖の裏返しということが出来ます。
世界経済が、各国の政治が、まるで一つの意志で操られているように動き出したら…。確かにこれは怖いことであります。
(中略)
“クトゥルフの呼び声”RPGは、実は“暗黙の了解”が結構たくさんある世界です。もちろん闇雲な不文律ではなく、システム上、あるいは世界観上の理屈がそれぞれにつけられています。が、最終的に、どうしてそうなるのかといえば「コズミック・ホラー」を再現するため、という点に帰着します。
例えば「クトゥルフ邪神の存在やその影響をやたらと世間に広めてはいけない」という前提があります。そんなことをすれば全世界がパニックになる恐れがある、というのがシステムの方からの理由付けです。何しろ、クトゥルフ邪神のことを知るだけで心が弱い人(=SAN値の低い人)は発狂する恐れがあるのですから。
また、そんな強大なパワーの存在を知ったら、邪な考えの持ち主が自分勝手な目的のために用いる可能性も出てきます。例えていうなら、クトゥルフ邪神のことを一般に公開することは、街頭でティッシュのように核ミサイル起爆スイッチを配るのと同じようなものなのです。
世界観の方から理由付けするなら、PCたちは、この恐ろしい禁断のクトゥルフ神話知識を一般社会から隔絶するために、自己を犠牲にして戦っているのです。それはたいていの場合、(わざわざ明言しない漠然とした)正義感や社会に対する責任感、人類愛といった感情にもとづいています。
逆に言えば、そのような理由付けができるキャラクターだけが、クトゥルフでPCとしてプレイすることができるのです。世間はバカだ、明日にも世界が滅びてしまえばいい、みんな死んでしまえと世の中を恨んだりすねたりしているキャラクターは、クトゥルフRPGの主人公としてはふさわしくないのです。
同様、暗黙の大前提として、「PCはクトゥルフ邪神を憎み、対抗する気概のある人であるべきだ」というものがあります。クトゥルフ邪神の暗黒の力に身をゆだねてしまうことに抵抗を感じないキャラクター、暗黒の秘儀を自ら執り行ない自分自身だけのために力を得ようとするキャラクター、こういったキャラはPCにはなれません。
なぜなら、これらはSAN値0のキャラが行うことだからです(システム側からの回答)。SAN値は道徳観・倫理観をも表しています。おぞましいクトゥルフ邪神に身をゆだねたり、己の欲望のために暗黒の力を得ようとするのは道徳観・倫理観の崩壊した行為なのです。したがって、SAN値が0でないキャラクターなら、こうした行為に抵抗を覚えるはずなのです(世界観からの回答)。
つまり、邪神に身をゆだねたり暗黒の力を得たりすることを抵抗なく考えるようなキャラは、システム上いくらSAN値が残っていても、SAN値0だと言えるでしょう(考え方としては、HPがいくら残っていてもダガーで首筋を切られれば死亡、というのと同じですね)。そしてご存じのようにSAN値0のキャラはNPCになるのです。
さらに拡大解釈すると、非常識なまでに、やたら銃を振り回したり他人を脅かしたり殺そうとするキャラクターも道徳心・倫理観が欠如していると言えるでしょう。
これが、システムと世界観からの理由付けです。けれど、もっと簡単な言い方があります。そのようなキャラクターは(戦闘だけではなく、もっと広義な抽象的意味合いにおいて)クトゥルフと戦う意味があるのでしょうか?
ついでにいいますと、こういった道徳心・倫理観が欠如したキャラクターは、絶対にクトゥルフ邪神に勝利できません(一時的な勝利をおさめることはあり得るかも知れませんが)。邪神怪物たちと同じ土俵の上に立ったら、向こうの方が圧倒的にパワフルなのですから。PCたちが勝利するためにはクトゥルフ邪神たちにはない力…道徳心や倫理観、社会規範や人類愛といったものに賭けるしかありません。
(高井力氏執筆のシナリオ「レンの鏡」より、超理性体「ファグファ」の設定の抜粋)
ファグファは超理性の存在です。それにとって、狂気はあまりにも無意味です。ファグファは自分の感情や感性などをすべて理解していて、それを制御しているからです。ファグファは、一説ではイスの偉大なる種族のなれの果てだと言われています。その精神が、時を超えて他の種族に入り込もうとしたとき、時間と空間の中で迷ってしまったと言うのです。そのモノは幻夢境に迷い込み、そこでは精神のみで存在することができることに気づきました。そこでしばらくの間、自分の興味にまかせて幻夢境を冒険しました。その結果、正気度が0になり、永久の狂気に陥ったのですが、同時に超理性の存在となりました。すべてを理解し、自分の中に知識を取り込む…それが彼の生き方、生きる目的です。
やがて、ファグファはこの世界で永く存在するには、何らかの形(物理的な物質)で、体が必要であることを理解しました。しかし肥大したファグファを受け入れられる生命体はいません――少なくとも彼の知るかぎりでは…。彼の膨大で狂気に満ちた知識を、何らかの生命体の脳に入れようとすれば、脳がズタズタになってしまうでしょう。そこでファグファは、もっと巨大なものに精神を入れることにしました。ランホーゴンという街です。ファグファは、街の住人と相互に理解し合い、街の住人たちの支配者となりました。ファグファを理解しようとすれは その知識と理論に圧倒され、理論的に完全に言いくるめられてしまいます(ファグファと接触している間、SANが低下し続け、0以下になってしまうと完全に支配されます)。そうなってしまったら、そのものはファグファの目的に奉仕するのは当然であると理解し、一生をファグファに捧げることでしょう。ファグファに支配されたものは、超理性の存在となり、ファグファのためならばどんな不条理な行動でもとろうとします。
このように支配された住人は、ファグファがその体を宿した街を、ファグファの望むとおりに改築しました。街の中央付近に2つ、北の端付近に1つ、図書館が造られ、ファグファの知識が蓄えられました。
その街では、ガクも、夜のゴーントも、グールも、シャンタク烏も、その個性を失い、ファグファの意図に従い、協力し合って生きています。それは非常に平和で、一種のユートピアでもあると言えます(もうそのものには、感情もなければ個性もないのです)。
やがてファグファは、街と一つとなって、移動することさえできなくなりました。それでも幻夢境の各地に使者を送り、知識や物品を収集しました。そして街は繁栄の一途をたどったのです。
STR 0(物理的な攻撃はできません)
CON 100
SIZ 約150,000(ファグファが宿っている街のサイズ)
INT 99
POW 100
DEX 25(精神的攻撃のみ通用)
APP ―
移動 0/∞(「その他の特殊能力a」参照)
耐久力 約7,500
ダメージボーナス:0
武器:なし
装甲:9(つまり、家の壁)
ファグファを直接見ることはできません。ただし、ファグファと精神的な接触を行なうと、精神が危険にさらされます。
INTの抵抗ロールをしてください。抵抗に失敗すると、1D6の正気度を失ううえ、3分後にはまた抵抗ロールをしなくてはなりません。これは抵抗に成功するまで続きます。正気度が0になると、ファグファに支配されてしまいます(ファグファのINTは99ですから、INT86のニャルラトテップでさえ、65%で抵抗に失敗してしまいます)。
支配された者はINTが、自分のINTとファグファのINTの平均値までに上がります。DEX、STR、CONは2倍になり、耐久力も向上します。さらに、正確さや知識を要する技術の成功値は、すべて95%まで上がります。これらはすべて、超理性により気の迷いや暖味さがなくなってしまうためです。また、支配されている者は、ファグファの知識さえ(もちろんファグファのためですが)利用できるのです。
なお、この支配の方法は、INTがまったくない生命体と、まったく目的を持たない生命体には無効です。ファグファの能力は、目的をねじ曲げることにあるからです。また、究極のワガママで、気ままな生物――ネコ――には効きません。
また、正気度が0の者は、精神が破壊されてしまいます。
a) ファグファはほかの物体に自らの精神を移すことができます。精神を移す対象は、生命体、非生命体を問いません。これはイスの偉大なる種族の力と同類のものです。しかし、彼の心を受け入れられる体は、人工的に作らないかぎり存在しないでしょう。そのため、ほかの場所に行こうとする彼の試みはことごとく失敗しています。彼としては、ほかの世界の知識も欲しくてしょうがないのですが…。
b) 精神投影―これはほかの生命体との意志伝達に利用するものです。ファグファの心の一部を、生命体の心に焼きつけてしまうのです。ファグファはこの能力を使えは生命体を支配しなくても、生体が無意識のうちに、彼に都合のいいように行動するよう仕向けることができます。また、かなり複雑な会話も可能です。このような接触を行なえは正気度が下がってしまうでしょう。
ニャルラトテップでさえ知らない呪文まで知っています。ただし、絶対に使用しません。それは彼の理性に反することだと十分理解しているからです。
ファグファには一本の「精神の触手」があり、ここが物体の精神体をとらえる感覚器になります。この触手により、精神的接触も行なわれます。この触手は現在、レンの鏡のコントロールに集中しているため、鏡面にしか出現しません(出現しても見えませんが)。物理的なものを知覚するには、自分の支配していたしもべの知覚を利用します。
「でふぉるめ・いごーるなく」画:鈴木猛