[ ムーンレンズ010203雑感 ]

ムーンレンズ(要約之二)

 部屋から飛び出すと、リーキィは支配人の所へ走った。だが写真を見せてその出所を問いただしても、彼は確かに奇妙だが知らないものだと答えるだけだった。写真を預かろうかという支配人の申し出を断り、リーキィは自室へと引き返す。そして再び窓の側に立った。

 外を見て、彼は眼下の群衆が何かを待つかのように広場へと集まって来ている事を奇妙に感じた。

彼は突然、彼らが皆彼の立っている窓の反対側の道路を避けている事に気付いた。見てみると、その道路は非常識なくらい幅広く、もはや使われていないのが明白な建物の列によって縁取られていた。それを追うように視線を上げ、リーキィはその道路が広場と街の背後にある大きな剥き出しの丘をつなげている事を発見した。道路の上には何かの痕跡がかすかに残っていたが、彼にはその形状を把握する事は出来なかった。

 そのうちにリーキィは線路を見て、先程の出来事を思い出した。彼は腹を立てながら、駅に向かおうと窓から振り向いた。

 だが次の瞬間、部屋の扉が音を立てて閉められ、鍵がかけられた。

 彼は扉へと突進したが、向こう側から何か重い物が置かれていた。彼の怒鳴り声にも応答が無いので、リーキィは窓へと向かった。しかし外側の壁には何も取っ掛かりが無く、そこから脱出する事も困難に思えた。誰の仕業か知らないが、ゴーツウッドの住人が皆このような狂人ではないはずだ、通りにいる人に呼びかけてみよう、と彼は考えた。

「いかにしてゴーツウッドがその名を得たか、お前は知っているか?」彼の背後で声がした。

リーキィは辺りを見回した。部屋の中には他に誰もいない。

「お前はメンデスの山羊について聞いた事があるか?」ゆっくりと声は続いた。扉の向こう側からである事を彼は理解した。「魔女のサバトにおいて常に現れたものを知っているか? ピレニーの山羊の地について、あるいはパンの大神について、知っているか? プロテウスの如く変幻自在なる神については? そして、千の仔を孕みし森の黒山羊は?」

 リーキィは窓の下の群衆に呼びかけた。だがその一人が彼の方を見上げた時、彼はその表情の無い顔と呪術めいた手の動きに震え上がった。群衆は窓のちょうど真下に集まり始め、彼を表情の無い顔で見上げた。

「かの山羊はあらゆる時代を通してあり続けたのだ。」声は続いた。「スペインにおいて、結社の円陣の中に現れた黒山羊――バスクの魔道士達がそれと相見えるために使用した山羊の牧場――そして常に悪魔はキマイラの如き姿で現れる……何故にジュピターの神官達がイデスの日に白山羊を捧げたと思うか?――だがおまえは宇宙を補完するものについて知りはしまい……ましてやハイチにおける山羊乙女の儀式の元型や、あるいは金羊毛の神話の背後に潜む恐怖については思いもよらないだろう……」

 リーキィのあげる抗議の叫びを無視して、声は語り続ける。

「ふむ、お前はまだ何も理解していないと見える――まだ何も……お前に語ろうとしているのは、かのものがここにいるという事、今この瞬間も近くにいるという事だ――かのものは人類の栄えるはるか以前よりここにいたのだ……おそらくは悠久の時をここで過ごしてきたのか、あるいはいつの時代にか向こう側からやって来たのかも知れない。しかし別のもの達――グリュ=ウォより来るもの達――が、かのものを星の封印の中に封じ込め、ただ月のある夜にのみ彼らが封じた領域の内よりその肉体を現し得るようになったのだ。だが、もし逆角を通じて召喚出来る場合は、部分的に肉体を得るだけとはいえ、かのものは歩み出る事になる――サバトにおいて現れたもののように。

黒ミサにおいて起きた事が、全て語られているわけではもちろん無い。かのものは現れたが、真なる姿をもってではなかった――それはかのものの崇拝者にとってすら心耐え難き姿なのだ――けれども、かのものはその真なる形状のある部分を保持していた。黒ミサに参加した者達は、召喚されたものの尻に口づけするのが常だったというのを聞いた事があるだろう? そう、それは決して汚らわしい行為ではなかった――かのものは山羊の如き姿を形作る事はなく、そこからは血を吸い出すための器官を伸ばしていたのだ。もっとも、お前は今夜さらに多くの事を知るようになるだろうが。

とは言え、お前は今夜我々が衣服を脱いだ姿を見て、わずかながらも衝撃を受けるかも知れない。我々はかつて、かのものの場へ、語る事無き領域へと降りて行ったのだ、長きにわたって……変異を遂げてしまうまで生きるために。お前もおそらくは異なる形でこの事について聞いているのではないか――黒山羊の仔については? シュブ=ニグラスのゴフ・フパデュは? しかし樹妖やファウヌスやサテュロスについては、古代の記述とはかなり異なっている故に、お前の心の準備にはならない――」

 声は突然途絶えた。窓の外では今しも太陽が沈もうとし、群衆は何かを待ち続けている。そして理解し難い呟きが下からわき上がり、リーキィは突然激しい倦怠感に襲われて寝台の上に沈み込んだ。

彼が目覚めた時、月は既に昇っていた。

彼が窓から覗くと、その光は下の通りを白く照らし出していた。窓の下の群衆は、もはやただ待っているだけではなくなっていた。彼らは鉄塔を中心にして込み入った半円形の形に並んで立ち、反対側にある丘の方を見つめている。彼は窓枠をさらに押し上げた。それはガタガタという音を立てた――だがこちらを見上げる者は誰もいなかった。下からは、声を揃えて発せられている呟き、聞き取る事の出来ない言葉から成る詠唱を聞く事が出来た。

 リーキィは自分の置かれている立場が非常に危険なものである事を理解し始めていた。よもや全ての住民がそうではないとは思うが、とにかくこの街には悪魔崇拝を行う結社が存在しているのだ。彼らは月夜にその神に呼びかけ――儀式として人間を生贄にしているのかも知れない。今の自分のような人間を。

下から誰かの叫ぶ声が聞こえ、リーキィは窓へと駆け寄り下を見た。黒い長衣に身を包んだ人影が、こちらに背を向ける形で鉄塔の側に立っている。その人影は旋回軸に結ばれているロープを調整しており、それに合わせてレンズと鏡が動き、収束された月光が光条となって道路を丘の方へと伸び上がっていった。

 この人物が自分をここに閉じこめたにちがいない、とリーキィは思った。しかし今の状態では、あれが誰なのかはまだ分からない。

その時、人影がこちらに振り向いた。その男は陽根を意匠化した模様に覆われた長衣をまとい、首には細い薄紅色の円筒から成る首飾りをぶら下げている――その正体をリーキィは執拗に推測していたのだ――だが彼はすでに、それがセントラル・ホテルの支配人である事を理解出来るようになっていた。

「男神は来たり! 女神は来たり!」彼はゆっくりとした濁声で叫んだ。「我ら、その歩みを助けん!」そして、リーキィを恐怖させるように、群衆が詠唱を始めた。「アスタルテ――アシュタロス――マグナ・マーテル……いあ!しゅぶ=にぐらす! ゴルゴ、モルモ、一千の顔持てる月よ、我らが生贄を喜悦と共に御覧あれ……千の牝羊を引き連れし牡羊よ、汝が社を拝し易からしめる汝の種子で我らを満たしたまえ……シュブ=ニグラスのゴフ・フパデュ……」

長衣の司祭がロープを操るに従って、収束された月光の光円は今や着々と丘を這い上がっていく。突然それはゆらめき、そして停止した。司祭は不明瞭な叫び声をあげ、群衆は静まり返った。その静寂の中でリーキィは微かな絶え間ない蠢動の音を聞いていた。何か遠くにある――そして巨大なものの。

次の瞬間、丘の一面が左右に弾け飛んた。

リーキィにとってはそのように見えた。だがほとんど同時に彼は、丘の中腹にあった扉が開いたのだという事を理解していた。丘の一面を全て占めていた扉だ。大きく口を開けた穴を向こうから微かに照らす月光が、そこから始まっている広大な通路を露わにしている。暗闇の奥から、青白くて巨大な何かが進み出ようとし、反射光を浴びてきらりと光った。

 けれどもリーキィはそのようなものを見たくもなかった。群衆に殺される方がまだましだと思い、彼は何がなんでもこの部屋から脱出しようとした。

その時、広場の群衆がヒステリックに叫んだ。ゆっくりと、自分の意志とは裏腹に、リーキィは窓の方に振り向き、そして見た。

何かが丘の戸口の中に立っていた。それこそが、写真の中のものだった。しかし写真とは異なり、小さすぎてその細部の全てが見えないという事はなく、生きても動いてもいないという事もなかった。中でも頭部が最悪だった。何故なら、その表面の大きな黄色い目はそれぞれ異なった方向を見つめていて、巻き髭のような触手はよじれ、痙攣しながら巻きつき、時々透き通って頭部を垣間見せていたからである。

そのものは戸口の外へと歩み出た。三本の背骨状のものが、あたかも船を漕ぐかのような奇怪な動きでその胴体を持ち上げ、前方へと進めている。嘴が開き、そこから声が流れ出てきた――しゅーしゅーと言うかん高いもので、今や広場の中を前へ後ろへ揺り動きながら詠唱を続ける崇拝者達に向かって語りかけていた。

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