2013年10月14日追記:
扶桑社から2013年7月10日に発行された文庫本「古きものたちの墓 クトゥルフ神話への招待」に、尾之上浩司氏によって邦訳された"The Moon-Lens"が「ムーン・レンズ」という題で、キャンベルのこれも初邦訳の短編「湖畔の住人」、コリン・ウィルソンの「古きものたちの墓」及びブライアン・ラムレイの「けがれ」と共に収録されています。
1961年4月3日のちょうど真夜中を過ぎた頃、マーシィヒル病院の外科医であるジェームズ・リンウッド医師は自分のオフィスにおいて、次の会議で発表する「安楽死擁護論」の原稿を作成していた。だが、テープレコーダーのスイッチを入れた途端、彼のもとへ一人の人物が訪ねてくる。
今まで見た事のない男が戸口の外に立っていた。医師は何か本能的に不快感を感じた。それが男の薄汚れた、みっともなくだぶだぶにたるんだズボンと長いレインコートのせいなのか、それとも彼の鼻が捉えた微かな爬虫類じみた匂いのせいなのか、彼にはうまく言えなかった。
相手がリンウッド医師である事を異常なほど低くゆっくりとした声で確認すると、男は彼に自分を安楽死させてくれるよう頼み始める。合法的自殺を幇助するつもりのない事を冷徹に告げる医師に対して男は、死の苦痛を恐れつつも耐え難き生を送っている事を理解させようと、自分の身に起こった出来事を語り始めた。
男はロイ・リーキィという名前だった。4月1日、彼はまだ訪ねた事のない古書店を求めてブリチェスターからイグザムへと向かう事を計画した。だがそちらの方面へ向かう人はほとんどおらず、イグザムに直通している鉄道やバスの路線も無かった。仕方なく彼は、11時30分に出発する列車でゴーツウッドまで行き、12時10分頃にそこへ到着した後に20分ほどイグザム行きの接続の列車を待つ、という経路を選ぶ。
そして列車は5分遅れで、ロワーブリチェスター駅を出発した。しばらくの間は味気ない景色が続き、やがて線路はなだらかなコッツウォルドの丘陵地帯を抜けて、周囲は草原から森へと変化していく。景色を全て占めてしまう程、木々が密集していた。
彼は木々の間に一軒の家も見る事がなく、そして森の中にいかなる生命の気配も感じなかった。一度、一瞬だけ森の中のずっと向こうに、奇妙な灰色の円錐が見えたように思えた。それはすぐに視界から消えてしまったが、その光景は彼の心を奇妙な不安と共に満たした。
ここから先、線路はほぼ真っ直ぐで、時々丘の周囲を緩く曲がっているだけであった。そしてブリチェスターを出発してから約30分後、線路がひときわ大きく左へと曲がった時に、リーキィは初めてゴーツウッドの町を目にした。
ひっそりしている、というのが最初の一瞥から彼が持った印象だった。密集した鈍い赤色の屋根、狭い通り、周囲を取り巻く森――全てかどこかひっそりとしているように思われた。
曲がり終えた列車は再びもの寂しい森の中を抜け、そして5分後、駅のプラットフォームへと滑り込んでいた。
他に誰もゴーツウッドで下車する者はいなかったが、彼はすぐにその理由が分かった。プラットフォームはむき出しの滑りやすい板で作られ、待合室の窓は薄汚れて落書きが書かれている。固い木製の椅子は塗装もされていない。この場所全体が廃れて、活気を失っていた。
イグザム行きの列車の時刻を聞くために駅長室へ向かったリーキィの前に、それらしき男が現れた。
彼は奇怪な程膨らみ、かさばった制服を着ていた。その顔は胸が悪くなるような山羊の如きもので――中世の木版画に彫られたサテュロスに似ている、とリーキィは思った。
イグザム行きの列車は15分後だという事をひどく訛ったしゃべり方で告げ、駅長は再び部屋に引っ込んだ。リーキィは椅子に座り、数ヤード下の通りを眺める事にした。時たま通行人がこちらの方を見上げるが、彼には目もくれずに行ってしまう。
彼らが何処か上の空である事が、リーキィの印象に残った。何であるかは分からなかったが、通り過ぎて行く人々は何かを予期しているような雰囲気を持っていた。
数分後、そのような観察にも飽きてきた彼は屋根の上に目をやり――そこに何かが、街の中央、駅と木々におおわれ街の背後にそびえる大きな丘との間に、そびえ立っているのを見た。太陽光がまぶしく反射しているので細部は分からないが、どちらかと言えば頂上部に丸い物体を乗せた旗竿のような形をしている。
それを眺めていたリーキィのもとに部屋で電話の応対をしていた駅長が現れ、樹が倒れて線路をふさぎ、本日のイグザム行きの列車が出せなくなったと告げた。落胆したリーキィがブリチェスターへ引き返すための列車の時刻を訪ねると、30分前に今日唯一の便が出てしまっていると言う。彼には行きにその列車とすれ違った記憶がなかったのだが、その時は困惑に気を取られていて気付かず、一晩この街に泊まるようにするという駅長の提案を考えてみる事にした。彼は駅を離れ、食事がてらに向かいの駅付きの喫茶に入った。味はかろうじて悪くはなかったのだが、たとえそれがよりましなものでも、彼は食事を楽しめなかったであろう。
他の客達の顔もまた同じように奇怪なものであり、その膨れたスーツや長いドレスの中にはこの上なく胸の悪くなるような不具があるかもしれない事を彼は感じた。さらには、最初に手袋をはめたウェイターに給仕された際、その手袋に隠された手について推し量る事が出来たのだが、それらは当然痩せ細っているとリーキィは考えた。
リーキィが代金を払いながらホテルのある方向を聞くと、店員はこの街唯一のホテルへの道順を教え始めた。
「中央広場にありますよ。ああ、その場所が分かりませんか。うーん、真ん中に安全地帯のある四角い広場なんですが、あのと――いや、ここからブレイクドン通りに沿って――」
店員の教えた道順に従い、リーキィは街の中心へと向かっていった。街並みは普通であり、他の街にあるような建物や施設は全てそろっている。だが駅で受けた印象のせいか、彼は何か居心地の悪さを感じていた。
やがて彼は大きな広場に着き、その反対側に「セントラル・ホテル」というネオンを見つけた。
だが、彼の関心はすぐに、広場の中央にそびえる50フィート程の高さの金属製の塔にひきつけられた。その頭頂部には周囲に鏡を配置した大きな凸レンズが見え、それらは全て、張られたロープで地表と結ばれている旋回軸の上に、ちょうつがいでとめられている。
この不思議な物体についてリーキィは近くの人に尋ねてみるが、言葉無く見つめられるだけであった。当惑しつつも彼はホテルへと向かう。
ホテルの中は感じの良い受け付け、大きなロビー、幅広の赤い絨毯がひかれた階段等のある、安心させられるものだった。彼は支配人らしき中年の男を呼ぶと、一晩宿泊したいと告げた。
「はいはい、二部屋ほど空いております――申しわけありませんが、いずれも広場に面しておりまして、少し騒音が気になるかも知れません。宿泊及び朝食付きで27ポンド6ペンスになりますが、よろしいでしょうか?」
リーキィが承諾すると、支配人は部屋へと案内するために階段を登り始めた。その途中で、彼は支配人に広場の鉄塔について訪ねた。
「え? ああ、あれですか。この地方の遺跡ですよ。どういうものなのかは、おそらく今晩にでも分かるのではないでしょうか。」
彼はNo.7と書かれた扉を開け、厚い絨毯のひかれた室内へとリーキィを案内した。そこには寝台、化粧台、真ん中に写真立ての置かれた枕元の机、そして洋服ダンスが二つ備わっている。リーキィは部屋に入ると、発言の意味を尋ねようと支配人の方に振り向いた。しかし支配人は既に階段の方へと向かっていた。肩をすくめると彼は窓の方へ向かい、外の群衆を見下ろした。奇妙だ、と彼は思った――彼は手荷物を何も持ってこなかったのに、支配人は前金を払うよう彼に尋ねる事をしなかったのだ。
その時、彼は列車の汽笛を聞き、煙が立ち上っているのを見た。なんと、いましも列車が駅を離れて行こうとしているところだった――ブリチェスターへ向かって!
リーキィは慌てて扉へと駆け寄ったのだが、その拍子に枕元の机をひっくり返してしまった。急いでそれを元に戻そうとした彼は、その上にのっていた写真立ての写真を見て、思わず跳び上がった。
写真の中のものは、戸口の中に立っていた。彼にはそれが生きているものだとは信じられなかった――先端が大きな円盤状の肉趾になっている、いくつもの関節を持つ骨張った脚、それらに支えられている白い肉の円柱、このようなものが思考する事はもちろん、動き回る事すら信じられなかった。そのものには腕が無く、単に地中に突き込まれている三本の背骨状のものがあるだけだ。だが、中でもその頭部が最悪のものだった――白いゼリー状の、巻き髭のような触手の集合体から形成され、灰色の水滴のような多くの目に覆われ、そしてその中央には、歯の付いた大きな嘴があった。けれども、最もリーキィの心を乱したのはこれらの細部のどれでもなかった。自分は最近この戸口を見た事がある、写真のように開いているものではなく、閉じているものを、という思いだけだった。