[ ムーンレンズ010203雑感 ]

ムーンレンズ(要約之三)

 衣服を脱ぎ捨てて熱狂する群衆をぼんやりと見ていたリーキィは突然我に返り、叫び声をあげながら扉を殴りつけ、武器になるようなものを探した。

彼は、外で司祭が理解できない叫び声をあげ、口笛のようなひゅーひゅーという声がそれに答えているのを聞いていた。

司祭は叫んだ。「いあ!しゅぶ=にぐらす! かの山羊は我らが生贄を受け入れたり!」

 リーキィが窓から覗くと、黄色い目が屋根のはるか上から彼を見下ろしていた。そのものは今や広場の反対側に立ち、ホテルの方へ近づこうとしている。恐怖と絶望に駆られて、彼は窓から身を乗り出すとしばらく窓枠にぶら下がり、そして飛び降りた。

その怪物はものすごい早さで動けるにちがいなかった。リーキィはずるずると滑るような音を聞き、そしてそのものの、頭部にのたくる触手の真っ直中に落ちていった。

彼は死に物狂いでもがいた。しかしゼラチン質の触手は彼を引き込み、包み込んでしまった。透き通った壁は脈打ちながら彼をしっかりと挟み込んでいるが、危害を受けるほどの締め付けではなかった。壁を引っかく彼の手はゼリーの上で滑り、ゼラチン質を蹴飛ばしてみてもそれはすぐさま元の場所に戻ってくるだけである。彼はなんとか頭を動かし上方を見て、自分が小さな袋状の空間に捕らわれている事を理解した。それは疑いもなく何らかの意図を持ってであった。そう、まだ死んではいない――だが何かより悪い状況に陥ったのではないか?

 やがてそのものは彼を捕らえたまま丘の方へと引き返し、戸口をくぐるとさらに薄暗がりの中を進んだ。リーキィは背後で石造りの扉が閉じる鈍い音を聞いた。

通路を下方へと数マイル程降って行った後、ついに怪物は立ち止まり、ただその場で揺れ動くだけになった。彼を捕らえていた触手が弾性を失って流れ去り、リーキィは地上へと沈んでいった。そして別の触腕が彼をつかみ、巨大なアーチ道の方へと彼を押し出した。彼はひどく興奮しながらも、周囲を見回した。しかし、小さな水滴が壁を流れ落ち、暗闇から浮かび上がるその湾曲部で煌めいている六角形の巨大な洞窟を一瞥する事が出来ただけだった。

 青白い巨人の無言の威圧感を受けて、彼は否応なくアーチ道をくぐった。

その後彼は、見る事の出来ない何らかの光源によって仄かに照らし出された、無限にも思えるほどの長さの階段を躓きながら降りていった。階段は下方へと真っ直ぐに続いていたのだが、薄明かりが鈍すぎて彼にはその終点を見る事が出来なかった。

「分かるかね? これを造ったのはローマ人達だ。」話しかけるような調子で、声が彼の耳元で恐ろしげに響いた。「レンズもまた彼らに造られた。彼らがこの地を訪れ、自分達のマグナ・マーテルの真なる姿を理解した時に……だが、この階段はさらに深く続いている。おそらくかのものが元々訪れし、源たる場所にまで――」

やがて明かりが強まり始め、自分達が目に見えない階段を下方へと歩き続けていた事を知った時、リーキィは彼らが近づきつつある場所がいかなる種類のものであるかという事を薄々感づいていた。恐ろしげな音が下から鳴り響いてきている――低音のトランペットのような音、洞穴の中から響くかの如き吠えるような音――しかし、光に照らされゆらめいている霧が視界を遮っていた。

そして、ついに彼らは固い地面の上に立っていた――少なくともそれは固い地面のように感じられた。だがリーキィには、あたかも何もない虚空に立っているようにしか見えなかった。

 目前に明らかとなったその領域に、リーキィは圧倒されていた。

あらゆる距離感が常に移ろい、見えるものが巨大でかつ遠方にあるのか、それとも微小でかつ手の届く程近くにあるのかすら全く確信が持てなかった。だが、そこを住処とするもの達の姿形はより明確になっていた。あるもの達は目立った外傷もないままその身体の一部分を驚くべき仕方で分離されており、別のもの達の身体は、一つ一つは良く知られている別々の諸器官がしかし本来属する事があり得ない部分と接合する事によって構成されている。さらに数フィート向こうに、彼は柔らかく光る金属製の小径が宙に浮かび、遠方に連なっている、上方へと向かう階段へと続いている事に気が付いた。

「この場所が、我々が不死性を授けられる所だ。」司祭が囁いた。「そして今、お前も我々の如きものになる――」

周囲のもの達がリーキィの側から退き、遠回しに取り囲んだ。頭上から怪物の吠える声が聞こえ、巻き髭状の触手が数本彼に向かって近づいてきた。

 次の瞬間、リーキィは司祭を殴りつけ、金属製の小径の方へと跳び出していった。

この領域の超自然的な特性が、今回だけは、彼の助けになった。彼が階段のふもとへたどり着くのとほとんど同時に、その背後に奇妙な角度を持つ多くの壁が突然出現し、引き離された追っ手達はそのただ中でもがいていた。彼は薄暗闇の中、背後からの音を聞きながら、騒々しく階段を登った。数百段も登った頃、彼は星形をした薄肉彫りの連なりから形成されている筋につまづき倒れ込んだ。

さらに少し登って、彼は何か巨大で重々しいものがグシャグシャという音を立てて彼の背後から階段を登ってくるのを聞いた。

 リーキィは息が切れるのもかまわず、さらに速く階段を駆け上がった。しかし……

彼は背後を振り返り、恐怖にすすり泣いた。何故なら、600フィートも離れていない下方におぼろげな姿が揺れ動きながら登ってきていたからだった。彼は一度に三段を駆け上がろうとして滑り――もと来た階段を転げ落ち始めた。

滑らかな石をなんとかひっつかみ、彼は落下を50段ほどで阻止した。下方からはいかなる音も聞こえていなかったが、しかし彼が頭をもたげ振り向いた時、焦りもがく口笛のような音が発せられた。そのものは200フィートほど下方で、まるで見えない敵と戦っているかのように、前後に揺れ動いていた。リーキィが見ると、それはあの薄肉彫りの連なる筋の場所だった。そして彼は突然、あの司祭が話していた事を思い出した――「星印」について……

再び彼は上方へと逃げ始めた。立ち止まったのは500ヤードほど登った時、追ってくるものの徴候がなくなった時だけであった。何時間にも感じられるほどの間――おそらくそうだったのだろう――彼は死に物狂いで登り続け、そしてついに外の世界へと続いているのを見る事の出来る、高いアーチ型の通路へと達した。彼はそこを走り降り、陽光のもとへと現れた。

そして、彼は自分の身体を見下ろした。

「そして、あなたは何を見たのですか?」リンウッド医師は話の続きを促した。

「私は、そう、あのもの達のようになってしまっていたのです。」リーキィは語った。「身体全体ではありません。が、残りの部分も既に影響を受けています――それでも、私はまだ死ぬ事が出来ると思います。このようなあり方で私に備わる不死性は、本当に最悪のものです……」

「なるほど。」医師は言った。「では、診察させて下さい。」

「あなたは本心からそう言っているのですか? 私が狂気に陥らない唯一の理由は、私の精神も同じく変化してきているに違いないからなのですよ!」

 だがリンウッド医師は、自分は今までにも恐ろしく損壊した死体を見た経験があるし、診察してみない事には彼の話を信じる事も、彼に対して何らかの処置をする事も出来ないと主張した。

リーキィは長い間沈黙していた。

「分かりました。」ついに彼は答えた。「けれども、その前に――」そして彼はテープレコーダーのスイッチを切った。

 1961年4月3日の午前3時17分頃、マーシィヒル病院にいた人達は、オフィスのある区画から聞こえてきたヒステリカルな叫び声に驚かされた。あまりにも衝撃的なその悲鳴は別棟にいた患者達まで目覚めさせ、それを聞いた人達は皆、後々まで悪夢に悩まされる事になった。

 看護婦達がその原因の場所と思われたリンウッド医師のオフィスに駆け込んだ時、彼は両手で眼を覆い、床の上に倒れ込んでいた。そこにいたのは彼だけであり、誰かに襲われた風ではなかった。鎮静処置を施して彼の叫びを止めた後も、その狂気の原因、彼が目撃したと考えているものについては確かな事は何も聞き出せなかった。

彼が語り得る全ては、彼が診察していた患者――テープのインタビューから察するに、危険なほどの強迫観念にとらわれており、そして未だに捕まっていない――に関する何かが「恐ろしく変化して」いて、さらに「パンの大神」「シュブ=ニグラスの膣における再誕」「形状の変動」そして「半ば樹妖の如き」ものに関連しているように思われる、という事だけだった。

 一般的な見方は、リンウッド医師は発表予定の論文の作成における疲労等が重なり、患者がもたらした伝染性の妄想の一種に影響されてしまった、というものだった。

 しかし、病院の住み込み外科医であるウィティカー医師の証言を信用するならば、この妄想には何らかの現実的根拠があるのかもしれない。彼は用事でリンウッド医師を訪問しようとしていたので、悲鳴が上がった時に他の誰よりも早く現場に来ていたのだ。そして彼が廊下に来た時、何者か――おそらくリンウッド医師の診察した患者であろう――が扉から出て行くのを見た。ウィティカー医師はその人物の顔を見てはいなかったが、扉へと伸ばした手については良く覚えていた。

「それは黒い色だった、輝くような黒さだった。」彼は他の人達に話した。「無数の筋に覆われていて――木でできた鳥のかぎ爪のような形をしていた。実際、人の手には全然見えなかったんだ。」

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「クトゥルフの呼び声」RPG用データ(トラペゾヘドロン様提供)
「ムーンレンズの番人」 / 「シュブ=ニグラスに祝福されしもの」

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