新島襄の故郷 安中

群馬県安中市

群馬県の交通の要衝である高崎から、国道18号を中仙道、信越本線に沿って
碓氷峠、軽井沢方面を走る。今日は天気が悪く、正面に広がるはずだった榛名山、
妙義山、浅間山が見えなくて残念だった。前橋、高崎あたりからの上信越の山々
の屏風は美しい風景だ。
 京都御所近くに赤煉瓦の校舎が印象的な同志社大学のキャンパスがある。ミッ
ション系の私学の名門として、関西を代表する学校の一つで、同志社を明治8年(18
75)に作った新島襄の故郷である上州安中をドライブしてみた。
 安中はかつて中仙道の宿場町であり、安中藩板倉家3万石の城下町でもあった。
信越道、新幹線、バイパス道路が出来、多くの地方都市と同様に、安中の中心部の
町もなんだか元気がない。それでも、休日には市街地郊外の新島襄の旧宅、安中
教会、安中藩武家屋敷である郡奉行所、武家長屋などに観光客が訪れる。舌きり
雀と温泉マーク発祥地で有名な磯部温泉に泊まり、独特の岩山である妙義山まで
足を伸ばすのも楽しい。

新島襄は天保14年(1843)に安中
藩士の子として、江戸神田の板倉家
上屋敷で生誕。17歳の時に初めて
安中を訪れている。
 蘭学、英語、聖書から海外に興味
を持ち、21歳で函館からアメリカへ
密航している。幕末の海外渡航禁止
の世の中で、命がけの行動力はもの
すごい。後世に名を残す人の発想は
常識では考えられない。
 アメリカでの留学時代もスポンサー
など、新島襄の生涯は周りのサポート
に恵まれている。それだけの人徳を
備えた人物だった。

安中教会

新島襄は33歳で山本八重と結婚。
八重の兄覚馬は旧会津藩士で、京都
府顧問として同志社の設立に尽力。
明治学院(東京)、関東学院(横浜)
フェリス女学院(横浜)と、会津藩が関
係する学校は非常に多い。
 

郡奉行役宅

領民の年貢を管理する郡奉行の家とは
いえ質素です。

安中藩武家長屋

武家屋敷には、このような武家長屋がいくつかあったようで。
10石程の下級武士の生活は大変そうです。
 越後新発田の城下町にも、似たような長屋が現存していた。

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城下町会津若松
海岸教会「花嫁のベール」
城下町歩き 新発田

京都御所裏手に位置する
同志社大学キャンパス。

京都を散策する
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