城下町会津若松

 小学校の時に学校図書館で「野口英世」の伝記と「白虎隊」の本を読んだ
ことが会津との出逢いだった。当時、幕末の歴史のことはよく理解できなかった
けが、白虎隊の悲しい物語は心に深く刻まれた。
 中学3年の修学旅行で初めて会津地方を訪ねることができた。タイミング良く
幕末の会津が舞台のNHK大河ドラマ「獅子の時代」を放送していたため、より会津
の町がインパクトとなった。観光バスのガイドさんが抜群に可愛くて説明が上手
で、飯盛山、鶴ケ城、武家屋敷にその時からとても興味を持った。
 会津の魅力は、磐梯山猪苗代湖の調和がとれた自然があり、鶴ヶ城を中心
とした落ち着いた城下町が旅情を感じさせてくれる。そして、会津松平家23万
石の城下町は幕末の会津戦争をはじめ、多くの歴史と文化を伝え自然、史跡、
温泉、スキーリゾート・・・・・観光地としても非常に充実している。

鶴ヶ城
 会津若松のシンボルである鶴ヶ城は、正に鶴をイメージさせる優雅な5層の
天守閣があり、城下町のどこからでも眺められる。旅をしていて、美しい城のあ
る町は本当に羨ましいと思うし、鶴ヶ城は町の景観に非常に調和している。
 徳川御三家に次ぐ家格であった会津松平家は、仙台の伊達、米沢の上杉な
ど外様大名に対する守りであり城郭や石垣も堅牢だ。会津戦争のおりには西軍
の攻撃から1ヵ月も持ち堪えた。大阪城、名古屋城の天守閣のように権力の
象徴としての派手さはなく城跡の老木の上に落ち着いた美しさがある。西軍(会
津では薩摩、長州を官軍と呼ばない)の砲撃で破壊された天守閣は昭和40年
に復元された。平成13年には干飯櫓が復元されている。
 江戸時代には重臣たちの武家屋敷が建ち並び、会津戦争では戦いと悲劇の
舞台になった甲賀町通りを真っ直ぐ南に歩くと追手門口に到着する。老舗の菓子
屋である会津葵本店や城下町らしい武徳殿(武道場)を過ぎると西出丸に大きな
有料駐車場がある。天守閣の近くまで自動車で行くことができる。
 石垣に囲まれた緩やかな坂を登ると、目の前に巨大な鶴ヶ城天守閣が姿を現
す。苔むした石垣と老木との上に白壁が輝く優雅な天守閣が美しい。郷土博物館
である天守閣から城下町を眺めると、周りは山々に囲まれ狭い盆地の地形である
ことがわかる。
 旧本丸の茶室であった麟閣「荒城の月」の碑を散策。名曲「荒城の月」は鶴ヶ
城、仙台の青葉城をイメージして詩が書かれた。城跡は福島県立博物館、会津体
育館を含む広大な敷地で城跡公園として整備されている。

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本丸御殿跡の茶室「麟閣」
歴史・物語の舞台を歩く
本丸御殿跡と天守閣

弾丸で変形した桜の木

甲賀町通りに残る桜の木。会津
戦争の時の小銃の弾丸で変形
した。130年前の歴史の証人だ。

城下町歩き 会津若松
会津戦争を歩く

追手門に至る甲賀町通り

重臣の武家屋敷が建ち並んでいた通り
で、慶応4年(1868)8月23日の城下
の戦いの中、今に語り継がれる激戦と
悲劇を生んだ。
 鶴ヶ城落城の際、降伏の式場が作られ
た場所でもある。

藩校日新館の跡

西出丸の堀端に広大な敷地を占めて
いた。会津藩の教育水準は全国トップ
クラスで、文武に優れた人材を輩出し
た。白虎隊の悲劇も、厳しい日新館
教育の影響が強い。
 街の郊外に観光地としての日新館
が復元されている。

庄内藩校致道館

城下町歩き 鶴岡

水戸藩校弘道館

水戸藩校 弘道館

福島県会津若松市


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会津藩校日新館を歩く
会津松平家庭園 御薬園
七日町通り

平成15年の秋、会津方面をドライブした。中学3年
の修学旅行以来、30回以上会津を旅行している
かもしれない。
観光シーズンであるため会津は観光バス、乗用車
で混雑していて鶴ケ城西の丸駐車場も10時くらい
には満車だった。飯盛山、武家屋敷周辺も観光客
が多く、見所の多い会津観光はさすがに人気だ。
来年の大河ドラマ「新撰組!」のキャンペーンで、
東山温泉の辺りには幟がたくさん立っていた。近く
会津が生んだ野口英世がお札になったりで、益々
会津は注目されそうだ。

一方通行が多い城下町会津。ワシントン
ホテル方面から天守閣を目指して車を
走らせると、歓楽街に城門跡の石垣がある。
そこがかつての追手口である甲賀町通り。

貴重な本丸の遺構。他に七日町の
阿弥陀寺には三層櫓が現存している。
奇跡的に戊辰の戦いを生き抜いた。

雪の鶴ケ城を歩く

御薬園

天守閣の北東方向、千石通り沿い
にある庭園。会津松平家の別邸で
もあった。