司馬遼太郎「峠」の旅

新潟県長岡市

幕末の越後長岡藩家老であった河合継之助の生涯を描いた「峠」は、高校
1年の頃に読んで以来の愛読書だ。継之助が幕末の動乱期に藩政の改革、
軍制の近代化に勤めた長岡を何度も訪ねている。
 秋晴れの休日、関越自動車道の長岡インターから市の中心部へ向かい、越後
平野に恵をもたらす広大な信濃川から眺めた長岡の町は、5年前に比べて更に
発展していた。幕末の北越戦争、先の大戦での長岡大空襲からの不死鳥は現代
でも勢いがあり、抜群の行動力と先見の明、そしてグローバルな発想をもっていた
河合継之助を生むに相応しい土壌だ。
 長岡は新潟の中でも独特の気骨をもった町とのことで、「峠」を片手に継之助を
想いつつ歩きたい町だ。

「峠」の主要舞台の一つである牧野家7万4千石の長岡城
はJR長岡駅周辺にあった。城跡の面影はないが、「峠」の
クライマックスである長岡藩兵の長岡城奪還作戦に思いを
馳せる。

駅前通り

河合継之助邸跡

JR長岡駅から線路に平行して北へ
徒歩10分ほどの長町にある。継之
助フアンとしては、隣に建設中のマン
ションに住みたくなった。

摂田屋本陣の光福寺

北越戦争の際に、長州、薩摩を中心
とした西軍に対し長岡、会津、桑名等
の同盟軍が本陣を置いた。中立の夢
が潰えた継之助が、不本意にも開戦
を決意した場所だ。

小千谷談判の慈眼寺(小千谷)

慶応4年(1868)5月2日、「峠」の名場面である小千谷談判が慈眼寺
で行はれた。西軍軍監岩村精一郎(土佐)に対し、長岡藩の中立と東西
両軍の調停を模索した継之助の構想は受け入れられず、戊辰戦争中、
最も悲惨といわれた長岡の戦いが始まってしまった。
 20年ぶりに談判の部屋を訪れてみると、岩村精一郎の裾をとらえて
懇願する継之助の決死の姿が眼に浮かんだ。

長岡戦争の火蓋が切られた榎峠と朝日山の古戦場。長岡城下への
要衝にあり、信濃川の大河を守りに長岡、会津、桑名の同盟軍は勝利
を収める。
 山県狂助(長州藩 後の山県有朋)、黒田了介(薩摩藩 後の黒田
清隆)に率いられた西軍と、後に日露戦争の名将になる立見鑑三郎
(桑名藩 後の立見尚文)らの東軍が激突した榎峠、朝日山の戦いは
北越戦争の白眉だ。
 朝日山の山道には所々に東軍兵士の墓があり、山頂には塹壕が掘ら
れている。昭和56年だったか、自分の発案で家族で朝日山を登ったこ
とがあり、その後も友人を連れて朝日山散策をしたことがある。

西福寺の鐘楼

5月19日の早朝、朝霧を利用して
信濃川を越えた西軍奇襲部隊の
攻撃を早鐘を突いて城下町に知ら
せた。

悠久山の蒼柴神社

長岡藩主牧野家を祭る社殿。
長岡城が落城すると、継之助
はここで城奪還の策を練る。

河合家の菩提寺であった栄涼寺

河合継之助邸跡の近くにあり、JR線沿。1868年7月25日、新町で
左足に銃弾を受け負傷した継之助は、担架で運ばれながら会津への
道を向かうが、会津只見(福島県只見町)で8月16日に戦傷が悪化し
42歳の生涯を閉じる。


南会津 只見町

鑑三郎の故郷

東海道桑名城下
会津戦争の旅
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歴史・物語の舞台を歩く
越後長岡

悠久山は江戸時代からの公園
で、天守閣を模した歴史博物館
もある。継之助が横浜で購入し
た最新鋭のガトリング砲(機関銃の
先祖)模型は目を引く。

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