石の語り部 伊藤萬蔵
略歴 天保四年正月、尾領国平島村(現一宮市丹陽町平島)に於いて、農業治左衛門・りかの長男として生まれた。 少年時代、名古屋城下の米穀商に丁稚奉公に出された。生来の努力家、若くして独立して店を持った。世状も又、三百余年続いた幕藩体制が崩壊して、明治新政府に移行する激動の時代、商才に富んだ万蔵はこの機会を逃す事なく、時流にも乗った。延米・仲買・株取引・金融・貸家業と串広く商売の手を広げ、巨万の財力を得た。萬哉はこれを私する事なく、これは「神仏や世間様のお陰」として、全国の有名社寺に対して石造物の寄進を続け、感謝の日々を送った。その数は千基ともいわれているが、私が調査確認をしたものは426件であった。 晩年は家督を三男に譲り、自らは「徳山」と号し景雲橋の東に隠居した。万蔵は神仏を崇め、寄進を続けた他には、これといった道楽や趣味もなく、「一粒の米にも感謝をして」を口癖に、感謝と堪忍の文字を揮豪に託して、多くの人に配った。巷ではこれを夫婦喧嘩のお守りとして珍重したとの逸話も残されている。 萬蔵は昭和2年1月28日午前5時、九十五才の生涯を閉じた。当時の新聞は一市民の死亡を、異例とも思える取りげ方をしている。いわく積善の人・生活に感謝し神仏えの信仰に生きた人・立志伝中の人・意志堅固にして自信家であった等々、その奇人振りに併せて報道をしている。戒名は「寿照院観空徳山居士」、名古屋市昭和区の八事誓願寺に眠っている。 (田野尻弘 氏の個人誌「萬蔵報」2005年2月号より) |
2012年7月に「東海奇人伝」(生前の萬蔵対談集)が公表された!
2011年10月は、萬蔵が皆さんに知られることとなりました。中日新聞の「愛知の賢人」に掲載され、萬蔵の本「石造物寄進の生涯・伊藤萬蔵」が出版されました。
田野尻弘さんの伊藤萬蔵への思いは、下記に転載しました。
伊藤萬蔵さんの追悼記事(昭和2年新愛知新聞より)と私の書いた「萬蔵めぐり」を掲載しました。(06年1月)
伊藤萬蔵の寄進物一覧表です。(田野尻さん調査を改変したものです)
最近の萬蔵の話題を、「萬蔵ニュース」として掲載し始めました。
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田野尻さんの寄進物調査は、まだまだ続くようである。
私は、田野尻さんの調査を基に少しず
つ伊藤萬蔵の寄進物を記録していきたい。(ゆあさ:メール)
(田野尻弘 自家版「石の語り部 寄進物調査満願達成記念誌」より) 石の語りべー伊藤萬蔵 平成八年十月十一日記す 私は、平成三年の秋脳梗塞で倒れ、右半身に後遺症を残した。リハビリの為にもと思いこの冊子作りを始めた。 私の住んでいる荒子町には、尾張四観音の一つ観音寺がある。境内には、国の重要文化財・多宝塔を始め、地蔵・灯篭等の石造物が多く建っている。数年前、これ等を調べ「観音寺かいわい」という冊子にまとめたことがある。 この中に、大正十二年四月、伊藤万蔵の寄進した、高さ一・〇二メートル、胴回り一メートル五十センチの供花壷がある。それだけを見れば、それで終わりであるが、私も定年退職をした頃から、関西を中心とした寺巡りをするようになった。行く先々の神社や寺院で、名古屋市西区塩町・伊藤萬蔵と書かれた、寄進物を目にする事が多くなった。その場合でも、始の間は「ほう‥こんな所にも」と思い、それでおしまいであった。 本気になって、そのルーツを調べてみようと思った裏には、次ぎの様な事情があった。 今年の八月二十四日、京都府亀岡市にある、西国二十一番札所・穴太寺を訪ねた。山門の左側に建っていたのが、大正八年三月、万蔵が寄進した「西国二十一番・穴太寺」と書かれた寺標であった,しかしそのものは、私が今までに見てきたものとは全く違っていて、新しさもさる事ながら、石の材質が違うものであった。いぶかりながらも門を入った。その左手に、本堂に向き合うようにして、あの万蔵の寄進物特有な、筆太の書体の文字の刻まれた寺標が建っているのではないか、これには私も驚いた。目指すしろものが二本もあるとは・・・。 古い寺標は、頭の部分と中程に、折れた跡があり、これを修理したものと思われる,新しい寺標の文字は、古い方の拓本であると思われた。寺の関係者に聞いたところ、昨年交通事故によって倒され、新しいものに代えられた事がわかった。その際、壊された寺標は、八十年近くの間、多くの巡礼を見続けてきたもの、廃棄する事なく再建をした寺側の温かい気持が伝わってきた。そんな事もあって私が万蔵を調べてまとめたのが、この一文である。 それまでに私が記録していた万蔵のものは、地元の荒子観音寺を始め、京都の仁和寺・東寺・清涼寺・六角堂・善峰寺位のものであった。奈良の南円堂、福井県の永平寺のもの等は、見た記憶は残っているが、記録はしていなかった。手始めは九月の初めの事であった。最初に笠寺観音に行き、荒子と同じ供花壷を見、その後八事から覚王山に向かった。日泰寺の境内や、その周辺には驚く程多く、万蔵の寄進物があった。それからは日泰寺と万蔵の繋がりを調べる為に、図書館通いを始めた。その結果、日泰寺に関係する資料は意外に少なく、結果的には何も判らなかった。寺の発行するガイドブックを見て、おぼろげに繋がりがみえてきた。この寺の誘致前後に関係があり、特に客集めに始めた新四国・八十八ケ所の開設に当たり、世話人として、特に資金面で多大な協力をした事が判り、寺の周辺に寄進した物が多い事も理解する事が出来た。 それでは、その財力はどこからきているのかと思い、明治・大正時代の、名古屋財界の本を探してみた。 この地方の名家・松阪屋の伊藤家や、川伊藤家の話しは多いのに、万蔵の名前はさっぱりと出てこなかった。 只一つ、明治二十三年に発行した蓬左風土誌の中に「尾三両国所有物丸鑑」にその名前が見られた。 それは地所・貸金・公債・借家―山林等を基準としたものであった。伊藤次郎左衛門を筆頭とした名古屋財界の番付け表であった。万蔵の席順はといえば二百四十二番目に載っていた。相撲でいえば序二段あたりであるだろうか。 これだけ寄進等をする著名な人であるのに、西区誌あたりにも、全く名前は載っていなかった。 次ぎに私がやった事は、出身地の調査であった。尾張・徳川の初期、清洲越えをし、堀川の開削と共に、物資の集積所となったこの付近には、大舟町・小舟町・船人町・塩町・裏塩町等があり、塩町は塩の問屋が集まっていたものと思う。現在も残る川伊藤家は、その中心をなしていたものである。 塩町は、一丁目から四丁目まであったようであるが、現在は巾下二丁目・那古野一丁目に当たる。 全国各地に万蔵の寄進したものは多いが、その場合の住所地は「名古屋市西区塩町」か、「名古屋市塩町」の二通りのものだけであった。 最初に西区に行き、塩町付近の神社や寺に寄って見たが、地元には万蔵の寄進したものは何も見当らなかった。 二・三人の人に聞いてみたが、川伊藤家は知っていたが、伊藤万蔵の事について知っている者はいなかった。 そんな折りの九月末、岐阜県可児市に住む、古くからの友達が訪ねてくれた。彼には以前から万蔵の事は話してあり、彼も又各地の寺巡りをしている事から、彼が目にした万蔵の写真四枚を持ってきてくれた。 その中に、旧中山道・太田宿の道標があった。明治二十五年六月のもので、私の知る範囲では、最も古い年号が入っており、しかもその石柱の住所には「名古屋市塩町四丁目」としてあり、初めて塩町四丁目が確認された。 図書館で四丁目の位置を詞べたところ、景雲僑と五条橋の間の、堀川の西側である事が判明した。 五条橋は、慶長七年(1602)、清洲の五条川に架かっていたものを、清洲越しと共に移されたもので、円頓寺商店街を東に抜けた、堀川に架かっている由緒のある橋である,五条橋の北、五十メートル程の所に、麻雀店「五条」がある。一軒置いた北側に、この店が借りている駐車場がある。広さは三百坪程か、この場所が万蔵の邸宅跡である。当時の名残りとして、現場に残されているものは、敷地の西南の隅にある土蔵だけである。それもトタン板で囲われ、往時の面影を残す物には見えない。 後日、伊藤方を訪ねた際、ここから現在地に転居した年を聞いたところ、昭和十年との事であった。 それから既に六十年、敷地がそのまま残っている方が不思議であった。 麻雀店で教えてもらった現在の住所は、昭和区南山町であった。一面識もない者が、突然に訪問する事には抵抗があり、失礼な事だとは思ったが、ここを訪ねない事には、本当の万蔵を知った事にはならないと思い、意を決して十月一日の午後、訪ねてみた。当主は知人の葬儀に出かけたとかで、不在であり奥様が留守を守っていた。 突然の訪問にもかかわらず、奥様は親切に応対してくれた。私は、失礼を詫びながらも、知りたい事について聞いてみた。現当主は、万蔵の孫に当たる方で、ここに越して来たのは昭和十年の事で、五十代で早世した父の代であったとの事であった。奥様はその後に嫁入りをして来たもので、生前の義父母からも、あまり万蔵の事について聞いた事が無かったので、詳しい事については知らないとの事であった。 主人が不在なので、万蔵の寄進をした物の目録や、寄進先の事についても解らないが、一度も見た事が無いので、多分、無いのではないかと話してくれた。又、万蔵自身が、寄進した事を自慢する様な性格では無かっただろうか等とも話してくれた。奥様は、万蔵とは面識もなく、写真のみで知っているとの事であった。 万歳は、昭和二年一月二十八日、九十五才で亡くなり、近くの誓願寺墓地に眠っているとの事であった。 戒名については 寿照院観空徳山居士 であるとの事であった。 私は、奥様からお話しを伺うまでは、万蔵がそんなに昔の人だとは思わず、調べ物をしていた事に気がついた。 昭和二年といえば、私の生まれた翌年の事、今年は宮沢賢治が生誕して百年といわれているが、その様に考え、万歳の年を逆算すると、天保三・四年の事になる。仮に天保四年生まれとすると、生誕一六四年という事になる。 私が図書館で調べた位いでは、とてもその全容を明かす事が出来ないのは、当たり前の事であった。 各地の社寺を回ってみても、寄進した物の大部分は、彫りも浅く、風雨にさらされ、文字の判読が出来ない物が多かった。そんな中で、万歳の寄進したものは、文字も大きく彫りも深いため、判り憎いものは殆ど無かった。 これが新しく見え、見る者の私に錯覚を与えたのではないかと思っている。 当時の年表をひもとくと、天保四年には、大飢きんがおこり、三十四万人が餓死している。 私達が歴史で学んだ事も多く、現在残されているものの中にも、天保二年には北斎の「富嶽三十六景」が完成、四年には、安藤広重の「東海道五十三次」が刊行されている。五年には、水野忠邦が老中となり、十二年には天保の改革が断行されている。八年には大塩平八郎の乱が起き、十三年には滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」が世に出て、現在でも多くの人達に読まれている。 皇室は第百二十代・仁孝天皇、幕府は第十一代・家斎の時代であった。それからの万蔵は、天保・弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応・明治・大正・昭和と十一代を生きた事になる。 可児市の友達の持って来てくれた、太田宿の道標を建てた時は六十才、明治四十二年八月、日泰寺・新四国八十八ケ所・一番札所を建てたのは七十七才の折りの事である。明治三十七年頃から、亡くなるまでは毎年のように、どこかの社寺に寄進をしている,その全体については、おそらく千基を下らないものではないかと思う。 大正末期の寄進物には、供花壷が多いことに気がついた。私が調べたものの中で、最もあたらしい物は、亡くなる前年の、大正十五年のもので、京都・嵯峨の清涼寺のものと、甚目寺観音のものがある。何れも花壷であった。甚目寺観音のものは、本堂の右手に広がる新四国・八十八ケ所巡りをする入口にあった。 寺の中でも一番目立つ所に置かれていた。壷にはクジャク菊等の秋の花がいっぱいに生けられ、地域の人達の温かみが感じられた。只、万蔵の寄進した花壷には、何れも住所・氏名を内側にしたものである。それがここに置かれているものは、左右共、外側になっていた。以前は本堂の前当たりに寄進をした物の中で、最も多かったのは、社寺の名前を刻した石柱であり、それも神社のものは少なく、寺院のものが圧倒的に多かった。続いて香炉台・供花壷・道標の順になっている。 珍らしい物の中には、日泰寺本堂前の常夜灯・石の五重塔、それに比翼塚が一基含まれていた。 東区矢田町にある、臨済宗・長母寺の開山堂の前に置かれた蓮の花びらの形をした香炉台、これには本来の香炉としてではなく、満々と水がたたえられていた。 私の訪ねた翌日の十月十日は、開山無住国師の開山忌が行われ、重要文化財の国師が一般に公開されるとの事であった。又、この寺の山門前の一番札所と、不動明王の前には、同じ形をした香炉が、上部だけを残して、埋められているのを見た、名前の書いてある所がわからなかったが、造りが開山堂前のものと同じで、側の花筒に万蔵の名前が刻まれていたので、聞違いなく万蔵のものだと思った 私の住む荒子町には、戦国の武将・前田別家の育った荒子城の跡がある。城内にまつられていたとされる、富士社天満宮 まつられている。ここの境内に一対の石灯篭があるが、これには万蔵の生まれた翌年、天保五年の年号が人っている。日照りが続き、農作物が不作の折り、天神様にお願いをして、雨を降らせてもらったお礼に奉納したものだと言われている。又、万蔵が生まれた頃、堀川には五条橋を始め、七つの橋が架かっていた。最も下流に架かる尾頭橋は、海にも近く、雨季ともなると氾濫した洪水と、逆流した海水により、度々橋が流され、農民はこの川に泣かされた,たまたま旅の僧が通りかかり、これは竜神様の怒りであるとして、自ら人柱になり、その怒りを鎮められたと伝えられている。後世の人がこれを哀れみ、僧の恩義に感じ、尾頭橋の側に「七はしくやう」の碑を建て、堀川に架かる橋全休の安全を願ったとの事である。 今この供養碑は、国道十九号線・新尾頭交差点の南東にある、畑中地蔵尊の境内に残され、近くの人達の熱い信仰に支えられている。 私もここニケ月の聞、万歳のことを調べるため、足繁く図書館に通い、五十ケ所を越す社寺を訪ねている。 改めて日本の歴史や、郷土誌を見直す結果になった。そして何よりも充実した日々を送る事になり、休の調子も良くなったような気がした。 思えば、大正十五年生まれの私は、昭和二年に亡くなった万蔵とも七ケ月程、同じ地球の空気を吸ったことになる。 百年の歳月は、私達にさまざまな物を見せてくれた。 石の語りべ万歳の残してくれた、石造物は、私が見たと同じ様に、後世の旅人達にも、人生の旅人の案内として、今後も末永く多くの人の口の端にのぼり、語り継がれていくことであろう。 無事に、石の語りべ「万蔵」の足跡を訪ねる旅を、満願にし得た今、改めて偉大な先人・万蔵に感謝をしたいと思っている。 |