But that, Socrates, he said, is impossible; and therefore if this is, as you imply, the necessary consequence of any of my previous admissions, I will withdraw them, rather than admit that a man can be temperate or wise who does not know himself; and I am not ashamed to confess that I was in error. For self-knowledge would certainly be maintained by me to be the very essence of knowledge, and in this I agree with him who dedicated the inscription, 'Know thyself!' at Delphi. That word, if I am not mistaken, is put there as a sort of salutation which the god addresses to those who enter the temple; as much as to say that the ordinary salutation of 'Hail!' is not right, and that the exhortation 'Be temperate!' would be a far better way of saluting one another. The notion of him who dedicated the inscription was, as I believe, that the god speaks to those who enter his temple, not as men speak; but, when a worshipper enters, the first word which he hears is 'Be temperate!'
But that, Socrates, he said, is impossible; and therefore if this is, as you imply, the necessary consequence of any of my previous admissions, I will withdraw them, rather than admit that a man can be temperate or wise who does not know himself; and I am not ashamed to confess that I was in error.
Socrates は呼びかけ。he said も除外して考えると分かりやすい。
But that is impossible; とすれば簡単。
and therefore 以後も、as you imply を除外して考えると構文が分かりやすい。
admissions までが、if に導かれる条件節。その後の主節は、“A rather than B”で、「BよりもむしろA」。これは第35回でも出てきた。
Bの部分が〔他動詞〕+〔目的語の節〕となっている。さらに〔関係代名詞の節〕まであるので、やや厄介。この〔関係代名詞節〕は、本来 a man の直後に挿入されるべきだが、〔述部〕が終わった wise の後に来ている。この who does not know himself を、ちゃんと a man に欠けて意味を取ることができれば解釈できる。
“be ashamed to do”で、「……するのが恥ずかしい」「恥ずかしくて……できない」。この文では否定で使っている。
「でも、ソクラテス、それは不可能だ。そしてそれゆえに、あなたが暗に言ったように、もしこれが私の先に述べたことのいずれかのもたらす当然の結果ならば、私は自分自身を知らない人間が、節度があるとか賢明となり得ると認めるよりは、むしろ先ほどの意見を引っ込めます。そして、私は、私が間違っていたと認めることを恥じたりしません。
For self-knowledge would certainly be maintained by me to be the
very essence of knowledge, and in this I agree with him who dedicated the inscription, 'Know thyself!' at Delphi.
この would は何だろう。〔推量〕〔丁寧〕〔過去の習性〕〔過去の能力〕。certainly があるから、〔推量〕だろうか。
“maintain O to be C”で、「OはCであると主張する」「OをCだと断言する」。
能動態を考えると、I would certainly maintain self-knowledge to be the very essence of knowledge.
in this の this の内容は、その前に述べた内容であろう。in は「〜に関して」「〜について」と考えた。
“agree with O”は、「Oに同意する」「Oに賛成する」。
「汝自身を知れ」というのは、デルポイ(デルフォイ;デルフィ)のアポロン神殿の銘文で、ソクラテスはこの言葉を胸に、賢者・智者と呼ばれる者たちと魂の問答を始めるのである。「汝自身を知れ」のギリシャ語の文字はこちらのページ。少しスクロールが必要。
「というのは、自己認識は、まさに知の本質だと私によって確かに主張されているからです。そして、このことにおいて、私は『汝自身を知れ』という銘文をデルポイ(神殿)に献呈した彼に同意しているのです」
That word, if I am not mistaken, is put there as a sort of salutation which the god addresses to those who enter the temple; as much as to say that the ordinary salutation of 'Hail!' is not right, and that the exhortation 'Be temperate!' would be a far better way of saluting one another.
挿入部を文頭に持ってくると、
If I am not mistaken, that word is put there as a sort of salutation which the god adderesses to those who enter the temple;
as a sort of salutation は、「一種の挨拶として」。
which the god addresses to those who enter the temple は、〔関係代名詞節〕で、〔先行詞〕は (a sort of) salutation。
address は〔動詞〕で、“address O to 人”と使っているようだ。Oは、ここでは関係代名詞which(= a sort of salutation)。「Oを人に向かって言う」。
those who の those は、以前にも出てきた。「人々」=people を表す。
who enter the temple は、当然 those を修飾。「神殿に入る人々」。
“as much as to say...”は、「……というのと同じくらい多量に」ということなので、「……と言わんばかりに」という連語。
Hail は、「万歳」「ようこそ」「やあ」。
「もし私が間違っていなければ、その言葉は神殿に入る人々に、神が話しかける一種の挨拶として、掲げられているのです。「ようこそ!」という普通の挨拶は正しくなくて、「節度を持て!」という忠告が、お互いに挨拶しあうはるかに良いと言っているかのようにね」
The notion of him who dedicated the inscription was, as I believe, that the god speaks to those who enter his temple, not as men speak; but, when a worshipper enters, the first word which he hears is 'Be temperate!'
as I believe は挿入なので、
The notion of him who dedicated the inscription was that the god speaks to those who enter his temple, not as men speak;
とつながる。was の前までが〔主部〕。〔主語〕は、notion。これは、「銘文を考えた人の、考えや意見」という意味なのか、「『汝自身を知れ』という銘文そのもの」のことなのか。前者と考えたが、一時後者に心が移った。そして、最後にまた前者に戻った。
〔補語〕は、that節。もう一つ、(was) not as men speaks も〔主語〕〔be動詞〕を同じくしているのではないか。最初は、この not とセミコロンの後ろの but で、not 〜 but... の構文だと考えたが、not と but はセミコロンで区切られている。コンマよりも区切りが強い。ということは、not は、直前のコンマの前と関係が深いことになる。そして、コンマの前には、the god speaks とあり、men speak と対を成す。だから、「人間たちが話すのではなく、神が語るのだ」という考えがふさわしいと判断した。この as は、アメリカ英語でよく使われる that の代わりではないか。そうするとつじつまも合う。
「私の信じる通りに話せば、その銘文を献呈した彼の意見は、人間が話すようではなく、神が神殿に入る人々に話しかけることですが、参詣者が神殿内に入るとき、参詣者が最初に聞く言葉は『節度を持て!』です。
クリティアス: でも、ソクラテス。そんなことはありえない。それゆえ、仮にあなたが言ったように、私の述べたことが、当然のこととしてそういう結果になるのならば、私は先ほどの意見を撤回します。自分自身を分かっていない人物が節度があって賢明であるとは、認められませんから。たとえそういう状況になって、私は自分が間違っていたことを認めても、決して恥だとは思いません。というのは、自己認識こそが知の本質なのだと、私は自信を持って主張してきたからです。そして、この点で、デルポイ神殿に「汝自身を知れ!」という銘文を献呈した人物に賛成していますから。もし私が間違っていなければ、その言葉は、神殿を訪れる人々への神からの挨拶の一種として、そこに掲示されているのです。お互いに挨拶を交わすときにも、「やあ!」という普通の挨拶は正しいものではなく、「節度を持て!」という言葉の方がはるかに良いと言っているようではありませんか。私は信じているのですが、神殿に銘文をささげた彼の意見は、神殿に入る人々に神が語りかけるのであって、人間が語るものではありません。しかし、参詣者が神殿に入ったときに、最初に聞く言葉は「節度を持て!」なのです。
解釈の未熟の故か、どうも釈然としない。
かなり間が開いたので、クリティアスが、ここで言う「私の述べたこと」とは何だったか、忘れてしまった。でも、誤りを認める態度は良し。
有名な「汝自身を知れ!」が出てきた。クリティアスの長い話は、次回も続く。
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