このページは同人おすすめの本を中心に紹介します。本だけに情報をかぎるのではなく、 それをとりまく映画、アニメなどに話が発展することもあります。また、その時々に気 に入った本を紹介する人、 自分で決めたテーマにそって紹介する人、長い紹介をする人、 短く紹介する人、紹介の仕方も さまざまです。本好きのみなさん、気に入ったところ をお読みいただき、しばしおつきあいください。
2003/2・ 本と本の周辺
●『文壇アイドル論』 斎藤美奈子 岩波書店
またまた斎藤美奈子です。この人の本質を見抜く目には、ほとほと感心させられます。まるで名外科医が、切れ味の鋭いメスで、すばすばと腑分けしてみせる人体解剖のような本でした。俎上にのっているのは、村上春樹、俵万智、吉本ばなな、林真理子、上野千鶴子、立花隆、村上龍、田中康夫というきらびやかな面々。どの人のもどの人のも、おもしろかった。とくに印象に残ったのが俵万智。まず最初に『サラダ記念日』は、軽い媚をふくんだ歌、と指摘していて、それは私がもやもやと感じていたことをずばり言い当てていました。斎藤美奈子はいいます。『サラダ記念日』は、同世代の女性にもうけたかもしれないが、中高年の男性をこそノックダウンしたのだ。それはなぜか? この歌集の評価は「古い革袋(短歌という形式)に新しい酒(新しい感受性)」だった。けれど、私(斎藤美奈子)の評価はまるで逆で、「新しい革袋(短歌という形式)に古い酒(古い感受性)」だ。それは『サラダ記念日』を連作短編として読めばすぐわかる。ここにあるのはきわめて古典的な「マッチョな男と待つ女」の関係である。新しい(ように見えた)のは、女性の率直な(ように見えた)おしゃべり口調だけだったのかもしれない。それゆえにこそ中高年男性に愛されたのだ。ここまで読んで、私は深くうなずきました。ちなみに、俵万智は今、新宿ゴールデン街の「クラクラ」というバーでアルバイトをしているという(そう、俵万智自身が書いている)。
なるほどなあ。(紙魚)
●ヤングアダルト的本棚
『海にでる道』 山下明生 あかね書房
『雪の森のリサベット』 アストリッド・リンドグレーン
石井登志子訳 徳間書店
勉強は嫌いだけど塾には行きたくないという娘のために、わたしは、家庭教師という手をつかった。これはうまくいった。とてもいい子で、娘はおねえさんのようになついて、彼女が来るのを楽しみにした。(なぜか、主人も楽しみにしていた)
その家庭教師の子は新潟出身の津田塾大生。雪国の出身である。
その彼女、東京の冬は、乾燥してカラカラでイヤだとよくなげいていた。「でも、新潟は雪がたくさん降って大変じゃないの」って、東京びいきのわたしが問い返すと、「雪は、大変でも、しっとりしていて気持ちが落ち着くんです」って自身たっぷりに答えていた。彼女の中には、いつも新潟の雪景色がひろがっていると思うと、なんだかちょっぴりうらやましかった。
そうなのだ。彼女に言われるまでもなく、東京って街は『しっとり』はしていない。いろんな所が、パサパサに乾燥しちゃって静電気までおきている。この前も、自動販売機をけっとばしている高校生をみかけたし、電車の中で肩があたっただけでも、殺人がおきたりする。困った現実。
で、今回は、せめて心の中はパサパサにしたくないって人にぴったりの「雪の日の本」を紹介。
『海にでる道』は、ベテラン山下明生のタイムファンタジー。雪の日、友だちとはぐれてひとりで帰ることになったわたしは、大切なペンギンの腕時計が動かないことに気がついた。困ったと思って周りを見ると、一面、雪景色。いつもと違う風景に気をとられて、おもわずすべってしりもちをついたわたしは、「時間屋」という看板を発見する。こわれた腕時計をなおしてもらおうと、わたしは「時間屋」をたずね、二匹の白くまに出会う。
冒頭の「気がついたら雪でした」というフレーズからラストの一行まで、とぎすまされたテンポのよい文章が流れていき、むりなくファンタジーの世界にまよいこめる。時間屋の白くまたちの会話はテンポがずれてておかしいし、高学年の女の子の揺れる気持ちもたくみにすくいあげられている。カラーではいったはらだたけひでの淡いタッチ幻想的な挿し絵が物語世界をいっそう盛り上げている。読み終わると、ゆったりした気分になれるはず。疲れた方、おすすめの一冊だ。
『雪の森のリサベット』は、子供の本の女王、リンドグレーンの幼年童話。オールカラーのきれいな挿し絵がはいっていて、A5判なのだか、絵本みたいな本。
雪がどっさりふった日、リサベットは、お手伝いさんとおもちゃ屋のある街にでかける。お手伝いさんの買物をまっている間、たいくつしたリサベットは、しらない人のそりにのってしまい、森の中におきざりにされてしまう。
不安とたたかいながら、家をめざしてがんばるリサベットが、けなげでいじらしく、心から彼女を応援したくなり、最後は、リサベッドとともにほっとでき思わず笑顔になってしまう。幼年童話なので、とくに目をひく表現もこった描写もないのだが、平易な文章から、リンドグレーンの人柄がにじみでていて味わいのある温かい作品となっている。
今回紹介の作品は、どちらも短い作品なので、すぐに読める。眠る前に、読むのなんていいかも。心の芯からあったかくなって、よく眠れると思うよ。(赤羽)
●このごろ流行りのファンタジー
『レイチェルと滅びの呪文』(クリフ・マクニッシュ、金原瑞人訳、理論社)
『レイチェルと魔法の匂い』( 〃 )
『レイチェルと魔道師の誓い』( 〃 金原瑞人・松山美保訳)
「ハリーポッター」効果ともいうべき現象なのか、各社ファンタジーと銘打った作品の出版が続いているのは、周知の通り。全部を読みくらべてみたいものだと思いながら、なかなか網羅できずに、とりあえず興味のある作品から読みすすめています。
今回は理論社から出ている「レイチェル」三部作を読みました。
読み終わってすぐに感じた印象は、このシリーズは現代という時代を強く感じさせる、現代感覚から生まれた作品だということです。ファンタジーは神話から題材をとったものや、前時代を舞台にした作品が多いと言われますが、この作品は魔女や魔導師がでてきながら、非常に現代的な課題をもりこんでいます。「ああ、時代が変わるって感覚も変わっていくことなんだなあ」と強く実感しました。
3作の特徴をかいつまんで紹介します。まず、1作目は地球を遠くはなれたイスレアという星が舞台です。ここに追放され、星を支配している魔女の姿はグロテスクで、口が4つあり、その口に蜘蛛を飼い、鼻の穴は匂いに敏感になるように百合の花のように裂け、肌は血の色をしています。
地球から、強い魔法の力を秘めているレイチェルと弟のエリックが連れてこられ、魔女に魔法の力を鍛えられます。魔女はレイチェルを自分の跡取りの魔女にして、ゆくゆくは地球に攻めこもうと考えています。魔女の使う魔法はちょっと変わっていて、空を飛ぶときにほうきに乗るのではなく、飛行の呪文を呼びだして使います。魔女はたくさんの呪文を体のなかに蓄えているのです。飛行の呪文は目を真っ青に染めあげます。さらに高度な魔法は、瞬間移動です。
おなじみの変身の魔法もでてきますが、レイチェルが魔女から逃れるために変身したのは、ほこりの一粒でした。意識を消し、恐怖と戦い、想像力を最大限に駆使しないと、呪文は使いこなせません。瞬間移動や粒子の世界など、魔法や呪文という一見非科学的なことを、非常に科学的な感覚で描きだしています。描写もリアルです。
IT産業に勤めるお父さんが、娘のレイチェルのために語ったのがきっかけで生まれた作品と知ると、なるほどと思いました。時代の最先端を走りながら、ITと魔法との共通点を見つけて書く作者の感覚は、新鮮に感じられます。惜しむべくは、ストーリィに一気にひきこまれると息をつく間がないことです。途中で休んでお茶を楽しむ、というようなゆとりはありません。これも毎日仕事に飛び回り、忙しい現代を生きる感覚なのでしょうか。
もうひとつ特徴的なのは、魔法で人の記憶の中にはいりこむ、ということです。レイチェルは誘いこまれて魔女の記憶に入り、魔女がどんな過酷な生き方をしてきたのかを追体験させられます。バーチャルな世界に近いのですが、感性豊かなレイチェルは、魔女と同じ感覚まで再現してしまいます。魔女は、この憎しみをはらすために協力してほしいとレイチェルに訴えます。レイチェルは魔女に同意しそうな自分を、ほかの人とのつながりや自分の体にあるさまざまな体験や情報を駆使して抑えこみます。
このあたりから、精神的な闘いの世界がぐんぐんと描かれます。圧巻は、知らないうちにレイチェルの中に魔女が入りこみ、内側から魔女へと変えられていくことです。頬骨のあたりが硬くなり、魔女の4つの口が自分の内につくられつつあることを感じつつ、残された人間的な部分を呼びおこして、レイチェルは闘います。「みんなを守ろうと思っているうちは、私は人間、レイチェルなんだ」と言い聞かせながら。味方さえも、魔女かと思われるレイチェルの外見に一瞬ぎょっとし、それでもレイチェルはレイチェルだと信じ、励ます勇気も描かれます。自分の内側から醜い魔女に変えられていく過程で、外見がいくら変わっても自分は自分なんだ、いや、すべてが魔女に変えられてしまう前にやれることをやらなくては、と追いつめられたレイチェルは強い精神力を発揮します。
魔法や呪文は現実から逸脱した力であり、それは現代のITのようでもありますし、精神的な闘いは、精密機械に圧倒されそうな人間の精神力を心理学的な側面から描いているようにもとれます。
さて2作目の舞台は地球です。魔女によって魔法の力を見出された子どもたちが、北極で訓練を受け、レイチェルにむかってきます。つまり、子ども同士で闘わなければならないのです。自分のうちにある魔法の力に気づいた子どもたちは、様々な反応をします。大人をもやっつけられる強い力を子どもが持ったとしたら……。親に捨てられた子は、自分は無力ではない、そして価値のある人間なんだということを示すために、憎しみをバネにして魔女になりたいと願います。子どもたちは隊列を組んで、レイチェルを襲います。
子どもを恐怖で支配し、動かす魔女の教育さえ、非常に現実感があります。子どもたちは、本当は人を傷つけたくないと思いながらも、人をやっつけなければ自分がやっつけられるということをよく知っています。ですから魔女に逆らえません。失敗をおかした子は、自分で首つり台を組み立て、首をつらされるのです。それを見せしめとして、子どもたちを恐怖でしばっていくのです。
この容赦ない過酷さをたんに残酷と呼べるでしょうか? 現代の子どもたちがおかれている状況を考えると、妙にリアルな印象でさえあることがこわく感じました。いじめられている子は魔法でいじめかえし、さらに新たな恐怖をたくわえ、魔法から逃れられなくなっていくのです。なかには、どうしても力のないものをやっつけられない子どももいます。2作目に登場する子どもたちは、現代っ子としてとてもリアルで、その心情もよく描かれています。勇気とはなにかと極限状態で問われますが、けっして子どもたちへの押しつけになっていません。子どもの描き方からは、作者の子どもへの愛情が感じられます。
2作目には、地球でいちばん強大な魔法の力を持つ、アフリカのイエミという赤ちゃんが登場します。いちばん強い魔法の力を持つのが、赤ん坊だという設定も上手です。本人はもちろん、まわりもその力がどれほどのものか未知なのですから。イエミは、子どもの魔法をすべてときはなち、地球に新時代がやってきます。
3作目では、魔女が魔導師との戦いのために、戦う兵器として育てたグリダたちが登場します。魔女はグリダを地下道に閉じこめ、魔導師との戦いに備えていましたが、グリダが解き放たれたことから、反対に魔女がやられて閉じこめられてしまいます。戦うためだけに育てられ、戦うことが生きがいであるグリダ。魔女への憎しみも戦う糧として蓄え、魔導師たちを絶滅させ、地球を征服することを目指します。地球の子どもたちはきたるべき戦いに備え、無力な大人と地球を守って戦うのは自分たちだという自覚を持ち、組織的に動くようになります。そんなとき、危険を好むむこうみずな子どもたちは、スリルシーカーとして力を発揮し、独自の役割を得ます。このあたりも子どもの生命力を魔法とうまくからめて描いている作者の視点を感じます。また、地球を網羅する子どもたちの連携と活躍は、インターネットという情報網でつながれた現代を感じさせます。学校はもぬけのからになり、地理は教科書がいらなくなり、先生は子どもにつきそわれて、地球を飛びながら授業をするのです。
魔法は子どもにしかもてない力であり、無力な大人たちが子どもに守られるという発想もおもしろいですし、魔法という面では無力な大人たちの存在価値もしっかり描かれています。それがなにかと思った方は、本作を読んで発見してください。作者の子どもと大人への信頼を感じられます。
魔法的な世界になると、魔法の呪文を壊すことのできるレイチェルの弟エリックの存在が大きくなってきます。エリックは便利な魔法は使えませんが、魔法の呪文を見抜き、それを壊すことができるのです。グリダはエリックをだまして、魔法で隠されていた魔導師のふるさとの星をつきとめ、根こそぎやっつけてやろうと軍隊を動かします。けれど、エリックは「とじこめられているグリダたちを助けるため」というグリダの言葉を信じ、星まで行き着いたら、グリダの軍も星にいるグリダもまとめて消滅させる計画をたてます。誰にも秘密で、自分の命をかけて。
さあ、最後の展開は秘密にしておきましょう。戦いを避け、破滅を避けるためにどんなことがなされたか。どんな言葉が発せられたか。戦いではなく、平和をねがい、のぞむ人たちの力をどう描いたか。兵器として育てられたグリダたちの心の傷をどう癒すのか……。
レイチェルは、決して使わないと体の奥にしまった死の呪文が、体のなかで「使ってくれ」と暴れだすのを抑え、愛する者を守るために「死の呪文」を使うという誘惑をのりこえます。エリックは大切なプラプシーを傷つけられて挑発にのりますが、すんでのところで破滅の呪文をおさえます。そして、自分の力におののくのです。
エリックの破滅の力は、今までの歴史には現れなかった力であり、新しい時代を切りひらく力だというのです。それは、すべてを破滅に導く力を自分のうちに持つという可能性を、だれもが秘めた時代への幕開けを示唆しているのでしょうか? 自分の力が恐ろしいとおののくエリックの苦悩は、私たちの身に迫ってきます。
現代には、ボタンひとつで一瞬にして土地と人間を消滅させる核兵器はもちろんのこと、使いようによっては精神を蝕まれる高度な機械もたくさん存在します。私たちは、自分の中に制御装置を持ち、それを強く意識しなければならない時代に生きているのではないでしょうか? エリックの存在は、そんなことを考えさせます。
魔導師は言います。「私たちは生きのこったとき、どんなことがおころうと、君たちにも魔女たちにも、誠実にいることを誓った」と。
「魔導師の星はとても美しい」とレイチェルがいうと、魔導師は「地球はもっと美しい。心打たれるものであふれている」と答えます。
エリックとともに魅力的な存在は、戦うためだけに育てられたグリダの長ガルトラサッカです。憎しみをバネにし、戦いを生きがいにするガルトラサッカの人生には不思議に胸を打たれます。そんな育ちをした彼女が、戦いにひきつれてきた軍のメンバーが少しずつ気持ちを変えていくときの動揺。そして、戦えないのなら死を選ぶという決断。しかしガルトラサッカは死ねずに傷つき、魔導師につきそわれて魔導師の星へとひきとられていきます。このあたりのガルトラサッカと魔導師ラープスケンジャの描き方は秀逸です。彼女はその後どう生きたのでしょうか?
現代的な問題を抱えながら、作者が超能力ではなく魔法、侵略者ではなく魔女を登場させて描いたということにも、現代とファンタジー作品を関連させて見直すヒントが含まれているのではないでしょうか? 一見、現実と遠く離れているように見えながら、現実の見えない真実をあぶりだす力がこの作品には強くあります。
そして、作者が注ぐ子どもと大人への信頼と愛情、地球をまるごととらえるスケールの大きなまなざしが、過酷な現実をやさしく強くささえています。つきあげる力とおしかえす力、そのバランス。世界をささえ、つくっている、目に見えない力を描きだした力量のある作品。おすすめです。(堀切リエ)
2003/1・ 本と本の周辺
●ヤングアダルト的本棚
『ビビ・ボッケンのふしぎ図書館』 ヨースタイン・ゴルデル NHK出版
クラウス・ハーゲルップ
猪苗代英徳・訳
『プラムガール』 トレイシー・ポ−ター 岡本浜江・訳 ポプラ社
『記憶の国の王女』 ロデリック・タウンリー 布施由紀子・訳 徳間書店
なにげなく本屋を歩いていて、見かけた本がどうしようもなく欲しくなってしまう時がある。我が家の本棚がいっぱいで、はいりきらない本が部屋のいたる所に山積みになっていて、もう本は買わずに図書館で借りようと何回も心にちかってるはずなのに、それでも欲しくなるのだ。こんなな時私は、「本に呼ばれてしまった」って思う。本が、読んで、読んでって、声をかけてくるんだ。その声を耳にしてしまうと、催眠術にかかったように、おさいふを開いてしまう。まったく、やっかいな声だ。
ようするに声の正体は、おもしろそうっていう直感以外のなにものでもない。でも、この直感が、案外大切なんだと思う。で、大人になるつれて、この直感は、にぶったりもする。しらずしらず、知識や情報から本を選んでいたりするからだ。「この本、書評でとりあげられてた」とか、「この作者は有名だから」とか、はたまた、「この本、売れているみたいだから」とか。だけど、子供のころは、まさに直感だけで本を選んでいたわけで、子供を見ているとそれがよくわかる。漫画などを選ばせると、子供の直感は、なかなかシビアで、おもしろさに厳しい。だからこそ、子供の本は、そういった子供の直感によびかけなきゃいけないんだと思う。
ということで、今月は、昨年の暮れに私が本に呼ばれて『思わず買ってしまった本』を紹介。
『ビビ・ボッケンのふしぎ図書館』は、ノルウェーの本で、作者のひとりヨースタイン・ゴルデルは、『ソフィーの世界』で日本でも有名な人。でも、わたしは作者の名前ではなく、帯に書かれた「そこには、まだ書かれていない本があるらしい」という、謎めいた言葉につかまった。
ストーリーは、いとこ同士のふたりがレターブックを交換しあう形ですすめられていく。ヨースタイン・ゴルデルが女の子の視点、クラウス・ハーゲルップが、男の子の視点を受けもち、一章ごと視点がいれかわって、物語はすすんでいく。わかりにくくなりそうなのだか、この趣向が、成功して効果をあげている。二人の作家が、お互いのよさをひきたてあっているからだ。
大きな謎もあり、ユーモアーもあり、くいくいとひきずられるように読める。でも、所々に読書に関するさまざまな提言がでてきて、あれっと思うこともあった。なにかしらの意図を感じる。後書きを読むと、ノルウェーの「図書年」に六年生全員にくばる本として書かれたのだとわかる。だから、読書のおもしろさをわざわざ強調して書いてあるのだ。まあ、そういう種明かしはあっても、ミステリータッチの読み物として十分に楽しめる。
『プラムガール』は、バレエが大好きなディリアの物語で、ふくらみのあるやわらかな文章が、とても読みやすい。
十才のディリアは、バレエスクールで、エリートコースとされる、くるみ割り人形の星の役に抜擢される。今までよりもきびしい練習と節制をもとめられるが、舞台で踊る自分を夢みて、ディリアは、先生に気に入られるために必死で練習し、食事を制限する。でも、新しく入った子に役を奪われると、その子のケガをのぞんでしまい、「バレエはあたしをいじわるにする」と感じ、戸惑う。
妻の死の悲しみをいまだにひきずっている父親、反抗から黒魔術にのめりこむ姉、家族の間でも、繊細なディリアの気持ちは、揺れる動く。そして、バレエの先生に厳しく注意されると、ディリアは……。
作者のトレイシー・ポーターは、バレエスクール卒業の経歴をもっているだけあり、バレエの描写は、リアルで美しい。バレエの華やかさの裏側に、きびしい練習と徹底した自己管理、激しい競争があることも伝わってくる。でも、この話は、スポコンのようにがんばり抜いてバレリーナになるストーリーではない。ディリアが挫折感の中から,なにを見つけるのか、読んでみてほしい。
『記憶の国の王女』は、表紙の絵の色合のきれいさに思わず手にとって買ってしまった本。
ストーリーは、奇抜というか、奇想天外というか、まず、最初の一ページから驚かされた。本の中のお姫さまが、この物語の主人公で、本の中から私たち、人間を見つめているというのだ。
あまり読まれることのないおとぎ話のヒロイン、シルビィは、出番の少ない決まりきった日常にたいくつしている。ある日、女の子の読者が本を読みながら眠ってしまったのをいいことに、その子の夢の中にはいりこむことに成功する。夢の中でいろんな冒険をするシルビィ。でも、おとぎ話は、いつか忘れられてしまう運命をもち、そうなると,シルビィは、朽ち果てなければならない。なんとか忘れられないようにと、シルビィは、ある考えを実行する。
本の中から、夢の中、読者の記憶の中と移動する抽象的なストーリーは、少しわかりにくく、人によっては好き嫌いが分かれる所かもしれない。ただ、作者の本によせる深い愛情がストーリーをささせており、思いもよらないラストは、胸に暖かく心地よい。くりかえし読んだ大好きな本があり、その本の登場人物が自分の心の中で息づいていると感じられる人なら、きっと楽しめると思う。
これらの三冊の本は、どれも装丁が美しく、帯のセリフも決まっていて、編集者の意欲がうかがえた。大人向けの棚においても、少しも遜色ない。どうやら、ハリーポッターのメガヒットで、海外翻訳児童書は、熱がはいっているみたい。日本の作家も、そろそろがんばらないと……、ね。 (赤羽じゅんこ)
●『子どもと子どもの本に捧げた生涯』―講演録 瀬田貞二先生について― 斎藤惇夫 キッズメイト瀬田貞二。数々の名作の翻訳者であることは知っていましたが、こんなにも素晴らしい人だったのかと、おどろき感動しながら読み終えました。戦中戦後をへて、自分のすべてを、j次代を担う子どもたちに捧げよう、と決意し、それを貫いた生涯だったようです。大好きな「ホビットの冒険」の名訳は、豊かな教養と真摯で暖かな人柄から生まれたのだと納得しました。寝ころんで読んでいましたが、はっと座りなおし、わが身を振り返って忸怩たるものがありました。その文章を引用できないのが残念です。 (紙魚)●『文章読本さん江』 斎藤美奈子 筑摩書房
●『あらしのよるに』 (木村裕一作 講談社)
先日県の学校図書館研究大会に行ったら、このシリーズの読み聞かせをしている人が結構たくさんいたので驚いた。
このお話自体は、国語の教科書についているので(といってもうちの学校で使ってる教科書にはついてないけど)子供たちには、おなじみの話だ。
第一話を読むと、たいていどの子も続きが書きたくなってしまうから不思議だ。
で、続きを書いてから、第2話「あるはれたひに」へと進むと、おもしろさが倍増する。
この絵本は、絵本でありながら文体が「〜だ。」という言い方で終わる。
「〜なのです。」になれている子供たちには、はじめはややとっつきにくい印象を与えるらしい。
思い切って、大人に読むように落ち着いた声で、ゆっくりと読んでみるといいようだ。
ストーリーテラーになりきって「ガブとメイのせかい」を創り上げていくのが良さそうだ。
「くものきれまに」「きりのなかで」「どしゃぶりのひに」「ふぶきのあした」と、シリーズは6巻まで続く。一冊に要する時間は15分ほど。
絵本の読み聞かせとしてはやや長い。ただ不思議なほど子供はついてくる。
読み聞かせの後、自分でもう一度読み直している子も多い。 (yamamoto)
●ヤングアダルト的本棚
『黄色い目の魚』 佐藤多佳子 新潮社
この頃、近所の道を歩いていて、「わあっ、ヤバイ」って思うことに出くわす。向こうから、娘の同級生の中学生カップルが、手をつないで歩いてくるのだ。どちらも幼い頃からよく知った顔だと、すれちがうのが妙に気恥ずかしい。カップルの方は、いたって平気で、気軽にあいさつするのだから、ヤバイと思うこともないのだけど、せまい舗道だとこれが微妙にすれちがいにくい。
とくに、女の子のほうが、学芸会でセリフが言えず泣きだした子だったとか、男の子のほうが、授業参観の時、「はい、はい、はい」といすの上に立ちあがって手をあげて、先生に怒られた子だったとかよく知ってるとなおさら。思わずにやけてしまうと同時に、ずいぶん大きくなったなぁって、感じ入ってしまったりする。でも、彼らが大きくなったってことは、自分はそれだけ年をとったってことで、彼らのように手をつないで歩く年頃から、だいぶ遠ざかっちゃたことを意味する。これって、ちょっとさびしい。
で、今月は、「手をつないで歩く年頃」にタイムスリップできちゃうさわやかな本を紹介。
『黄色い目の魚』は、おもしろい構成になっている。二人の主人公が、章ごとにいれかわって、それぞれの視点で話をすすめていくのだ。だから、最初読み始めた時は、短篇が集められているのかとかんちがいしたが、読んでいくうちに、よくできた長編だということがわかる。
ストーリーは、あまり波乱がない。絵の才能をもちながらそれに気づいていないサッカー部の木島悟と、絵は描けないけれど絵の才能がわかる村田みのりの出会いから恋までの道のり。でも、通ちゃんとか似鳥ちゃんとか個性あふれる脇役がうまくからみあい、サッカーの試合など挿話の緊張感もあり、厚みある深い展開となっている。
佐藤多佳子のうまさをあげればきりがないか、まず、卓越した描写力に感心した。説明的な文もわざとらしい会話もまったくないのに、村田みのりのキリリとしたまっすぐさも、木島悟の、あと一歩が踏みだせない、マジになれないいらだちも、実によく伝わってくる。まっすぐな初恋物語なのに、甘くなりすぎてないのは、ふたりの自分さがしの葛藤がしっかり描き切れているからか…。
文章には透明感があり、読後感はさわやか。自分で書いていて、ほめすぎで気持ち悪いけど、悔しいくらい欠点が見つからない。作品中で、木島悟が、イラストレーターの木幡通の個展をみたあと、「ボコボコになぐられたみたいによかったよ」と言うフレーズがあるのだけど、わたしもそういう気持ち。でも、打ちのめされたのではなく、熱くつき動かされてもいる。どうやら、いい物語というのは、人をゆり動かし、はげます作用があるようだ。これからも、佐藤多佳子の作品には、注目していきたい。 (赤羽)
●読み聞かせでウケる本5
『もしかしたら名探偵』 (杉山亮、偕成社)
無名の探偵、ミルキー杉山が、珍問難問を解決していきます。
クイズ形式になっているので、途中で読むのをやめて、子供たちに推理させます。大体この部分で「分かった!」とか「犯人はねえ。」と大騒ぎになります。
推理その物は、はっきり言ってたいしたことはありません。でも、こどもにはちょうどいい易しさです。
1年〜3年むきと言ったところかな。
ただ、低学年向きの割には、ミルキー杉山は、別居中だったり(別居中の奥さんも時々登場するし)、探偵業だけではたべていけないからアルバイトしてたりとか、なぜかシビアな現実が見えてたりして。ま、現実は、もっとシビアだからいいのかしらと、そのあたりはさらっと流して読んでますが。(ああ、そう言えば、コナンにでてくるランのとこも別居中だったっけ?)
この「名探偵シリーズ」は6巻まで出ています。
絵が推理のポイントにもなっているので、読み聞かせの際は、かならず絵を見せつつ読みましょう。 (yamamoto)
●ヤングアダルト的本棚
「謎のギャラリー・愛の部屋」 (北村薫 編 新潮文庫)
「謎のギャラリー・謎の部屋」
「謎のギャラリー・こわいの部屋」
吉祥寺にトムズ・ボックスという本屋がある。かなり変わった本屋だ。四人も入るといっぱいのせまい店内にならべられているのはほとんどが絵本で、そのどれもが、トムズ・ボックスのオーナー土井さんの好みで選ばれている。好みは、かなりはっきりわかる。長新太、荒井良二、井上洋介、片山健など、個性的な絵を描かれる面々がお好みで、他の作者のものはあまりおいていない。
この好みが偏ってる所がお店の売りで、わたしはその偏りかげんにひかれて、時々、ぶらりとたちよる。ちまたの本屋が、どれも似たりよったりの品揃えで代わり映えしない中、「自分の好き」を大切にしているトムズボックスは、ひと味ちがう魅力が光っているからだ。いつもは、わたし自身の「好き」から本を選別するのだが、違う人の「好き」を通して本を見ると、新鮮な発見があったりする。それは、だれかの家に招待されて、その家の本棚をのぞけたようなうれしさだ。「この人がこんな本を読むの?」とか、「へえ、この本、おもしろそう」とか、思いもよらない本との出会える。
ということで、今回は「だれかの本棚をのぞいた気分になれる」本を紹介。本棚の持ち主は、人気ミステリー作家の北村薫。このまれな読書家の作家が編集した「謎のギャラリー」シリーズだ。愛の部屋、謎の部屋、こわい部屋と、名作博本館という名作の紹介のものもあるが、今回は、先の三っつの部屋をとりあげる。
このギャラリーに共通してただよっているのが、起こりえないような「不思議さ」だ。雰囲気としては某民放の特番でよくやる「世にも奇妙な物語」というドラマを思い浮べられるといいかもしれない。ただ、「世にも奇妙な物語」はドラマのゆえか、ストーリーが極端でわざとらしさが鼻についたりするが、ここに集められてるのは、どれも、自然体で、文章のうまさがきわだった佳作ばかりだ。アンソロジーのためか短篇が多いが、その切り口はとてもあざやか。無駄な言葉ひとつなく話がすすめられ、ちょうどよく余韻がのこる所で、しっかりと幕がおりてる。近ごろの語りすぎの小説に慣れたわたしは、最初、ものたりなさを覚えたが、読み進むにつれて、あえて語らずに終わることのうまさを、つくづく思いしることになる。語られなかったゆえに、後々、くりかえし場面を思い描き、心の中で味わいが発酵するのだ。
で、まずは、13の作品が載っている「愛の部屋」から。名前から男女の恋愛模様を描いた作品が多いのかと思えばそうではなく、様々な「愛」が、いろんな角度から描かれている。中でも印象にのこったのは、車にひかれて死んでいったネコが、だんだんに小さくなり、一枚の皮になるまでを語っている『猫の話』(梅崎春生)、リストラされたお父さんが、魚になってしまう『親指魚』(山下明生)など。あと、『狐になった夫人』(ディヴィッド・ガーネット)もとんでもない話だ。妻がある日、突然、きつねになってしまうのである。夫は、まじめな人で、きつねになってしまった妻を、ずっと愛し続ける。その愛のため、地域と拒絶し、変人と言われるが、それでも愛することもやめられない夫の姿が、ひどくせつなくもの悲しい。どの「愛」も、少なからず不幸と背中あわせなのは、編者の好みか……。
「謎の部屋」には、16の簡単には説明できない、妙な謎が隠されている。とくに、豚しかいない無人島にながされた四人の運命を書いた『豚の島の女王』(ジェラルド・カーシュ)家に帰ったら、妻に「どなた?」と言われた夫を描く『どなた?』(クルト・クーゼンベルグ)貸しておいた一年分の時間を、年を経てから少しずつ返してもらう『返済されなかった一日』(ジョヴァンニ・パピーニ)などが、設定の奇抜さから印象に残った。これ以外も、とにかく、まず、読んでみてと言いたい。殺人ミステリーの謎解きとは、ひと味もふた味も違った世界が味わえる。
最後に「こわい部屋」。17のこわさが集まっているが、そのどれひとつとして同じこわさではない所が、編者の北村薫のすごい所。『七階』『待っていたのは』(ディーノ・ブッツァーティ)とか、『ねずみ狩り』(ヘンリィ・カットナー)など、本を閉じてしまおうかと思うほどゾッとする。でも、そんな作品の中にあって、『死者のポケットの中には』(ジャック・フィニィ)が、人生をも考えさせるやさしい深さをもっていて、後味がよく、ほっとできた。あと、『やさしいお願い』(樹下太郎)も、たった、4ページでこれだけのこわさを書けることに驚かされた。その「こわい部屋」の最後をしめくくるのは、若干17才の乙一のデビュー作、死体の一人称という斬新な手法で書かれた『夏と花火とわたしの死体』。本当にこわいのは、妖怪でも幽霊でもなく、人の心ということにいきつく。
ここにあげたどの作品も、自分では進んで選んで読まなかっただろうと思えるものばかり。こういった、アンソロジーのおかげで読めて、作者の名前とも出会うことができた。読書の幅が広がったような気もしている。秋の夜長、こういう読書もおもしろいかと思う。 (赤羽)
●『影の王』 (スーザン・クーパー 偕成社)
一気に読みました。
スーザン・クーパーはとても筆力のある作家で、「光の六つのしるし」などのハイ・ファンタジーシリーズも、
妖怪ボガートを主人公にした2冊も、とにかく最後まで読ませます。でも読後、いろいろ気になる箇所が出てきます。ありあまる想像力を駆使してス、トーリー優先で話をすすめていくからかもしれません。
その点、この「影の王」は時代がしっかりと書き込まれ、密度の濃い作品となっています。訳者の井辻朱美さんも、スーザン・クーパーの物語の中で、一番感動が深い、とあとがきに書いています。同感です。シェイクスピアの戯曲や詩に精通している人なら、もっと楽しめるかも、と思いました。
(紙魚)
● 『からくりからくさ』(梨木香歩、新潮文庫)
「たこ唐草」の模様が好きだ。くわしく調べていないけれど、タイで出会い、中国の陶器でもよく見つけるから、アジアによくある模様なのかもしれない。唐草模様といえば風呂敷に代表されるように、けっしてモダンな柄として、私のうちにあったわけではない。けれど、展覧会でいろいろなパターンの唐草模様に出会うたびに、「あの唐草はいったいなんの草?」と長いこと気になっていた。
たこ唐草は、たこの足のようにくるくると丸くなった形に、唐草をデザインしたもようで、とてもチャーミングだ。姉から「それはたこ唐草という模様よ」と言われたとたん、私の耳の底には「たこ唐草」という言葉が住み着いてしまった。しかし、なにかを好きになると度をこす私は、なるべく入れ込まないように、さりげなく骨董品屋の店先をのぞく。中からおじさんが「たこ唐草、いいのがあるよ」なんて出てくると、「あ、ばれてる」と悪いことをした子のように首をすくめてしまうのだ。
そういう私だから、この『からくりからくさ』には、随所ではまってしまった感がある。
主人公の女性は、4人。蓉子は、亡くなった祖母の家に「りかさん」という人形と住み、そこに3人の女性が下宿する。4人はまだ勉強中だが、それぞれ手に仕事をもっている。蓉子は染色、紀久は織物、与希子はテキスタイルの図案の研究と実践、そしてマーガレットは鍼灸。
蓉子の祖母が亡くなって50日目から、この話ははじまる。同じ作者の『西の魔女が死んだ』のおばあさんのイメージが重なる。洋風と和風の違いはあるけれど、二人の祖母は生活への精神が共通しているように思える。蓉子の祖母の本性は、「今そこにある何かを『育もう』とすることにあり、草木でも、人形の中に眠る、「気」でも、伸びていこうとする芽の力を、知らずそこから紡ぎだそうとする人だった」と描写されている。
その温かで前向きなエネルギーが、祖母の家にまだ満ちているような気がして、蓉子は祖母を喪ったという気が実感として湧かないまま、暮らしているのだった。
しかし、祖母からもらった「りかさん」という人形は、祖母が亡くなってから蓉子の呼びかけにも答えなくなり、まるでぬけがらになってしまっている。「人形と会話をする」という蓉子の話に、下宿人の3人は少しとまどいながらも、蓉子とりかさんと同居をはじめるのだ。
同居をはじめた次の朝、鮮烈な匂いが家にたちこめる。蓉子が染色のためにつんできた蓬を煮出しているのだ。朝食の味噌汁の具もきざんだ蓬で、野原の味がする。4人の暮らしはこの朝に代表されるように、草木と切っても切りはなせない。
4人は、食費の節約もかねて、庭の野草を摘んで食べるようになる。タンポポ、ノゲシ、ヨメナ、カラスノエンドウ、スズメノエンドウ……。手仕事の材料としても4人は草木と親密なかかわりを持っている。
蓉子の場合は、草木とのかかわりは色を中心にしている。祖母の死を含めて、世の中の事象や自分の感情や人間の綾を、色で受け取り、表現している。たとえば、黒の色。柏の葉の緑にはどこか暗いところがあり、鉄媒染で黒褐色になるのをくりかえして黒にするのだが、いろんなものがざわざわ入っている黒色なので、正式の喪服はつくれない。「せいぜい死者を悼む色ってとこかしら」という柚木の言葉は、蓉子の中でぐるぐると回りだす。
黒といえば、大陸からの紬の最初の伝承地であるという久米島へ渡ったとき、黒の色をだすために、ピカチー染めとグールー染めを日に何度もくりかえし、さらに泥染めをして、14日間かかって出す、ということを聞き、私は感動した。黒は塗りつぶす色というイメージが強かったけれど、いろいろな色が重なりあって、黒は生み出されるのだ。したがって、黒色のむこうにはほかの色が無数にある。とても奥の深い色なのだ。
その黒と対照的に、紀久が恋愛問題で悩んだとき、重クロム酸カリという劇薬をつかって、壷の底のような完全な闇の色を染めてほしいと、蓉子はたのまれる。環境を破壊する劇薬を使って染物をすることは、蓉子の手も心も震わせるが、紀久の心痛を知る蓉子はことわれない。いっしょに胸を痛めつつ、闇のような黒色を染め抜く。その黒は蓉子にとって、恐れを感じ、気分が悪くなるほどの黒色なのだ。同じ黒でも、この違い。
そして、紀久はキンキンに糸をはりつめた織り機を、夕鶴のおゆうのように、力をこめてひたすら踏みつづける。その音は、ほかの3人をも苦しめる。
手仕事とはいったいどういうものだろうか。紀久は、織物についてこう書く。
「古今東西、機の織り手がほとんど女だというのには、それが適正であった以前に、女にはそういう営みが必要だったからなのではないでしょうか。誰にも言えない、口に出して言ったら、世界を破滅させてしまうような、マグマのような思いを、とんとんからり、となだめなだめ、静かな日常を紡いでいくような、そういう営みが。」
与希子は言う。
「存在するために、どうしても表現ということが必要な人たちだっているんだわ」
紀久は言葉を選んで返す。
「そういう人たちが自己表現をして生きていくことを、私は否定しない。ただ、平凡な、例えば植物の蔓の連続模様が、世界中でいろんなパターンに落ち着きながら無名の女性たちに営々と染められ続けてたりするのをみると、ときどき、個人を越えた普遍性とか、永遠のようなものを、彼女らは自分では気づかずに目指していたんじゃないかと思うのよ」
生きていくこと、なにかを創りだすこと、表現すること、手を動かすことが、微妙にからまりあって、彼女らの生き方への視線となっている。
手仕事については、私もおもしろい経験がある。私は手仕事、手を動かしていることが好きだ。それは、ものを創り出す作業が楽しいからなのだと思っていた。劇団では、小道具や大道具づくりが得意だった。あるとき、猿が主人公のミュージカル仕立ての芝居で、ジャングルをイメージした舞台をつくることになった。天井にはつるをイメージしたものがタランタランと全面に下がって見えるのがよいね、ということになった。でも、太い綱はとても高価だ。私はその晩、よれよれになったロープとあまり布をダンボールにいっぱいだして、稽古場で縄を編み始めた。よれよれロープに布を裂いては編みつけていき、途中に切れ端をたらしたり、布だけで編んで太さを変えたり、手をひたすら動かしつづけた。気がつくと表は白々として、私の前には十数メートルものつたが編めていた。「すごーい、これどうしたの?」稽古場に入ってきた人たちはおどろいた。なにかに憑かれたようにわれを忘れて、私はひたすら徹夜で蔦を編んでいたのだ。立ち上がろうとしたら、足も腰も痛くて立てなかった。いったいあのエネルギーはなんだったのだろう。手仕事には人をつき動かす不思議な力があるように思えてならない。
しかし、草ではじまった話は、だんだんに動物へと移っていく。
ギリシャのぶどう蔓とか、唐草とか、蔦などの柄は、確かに世界中にあり、それは、もともとは蛇をモチーフにしたのではないかと、神崎は言うのだ。この神崎はキーパーソンになっていく。マーガレットは、2人の仲は知らずに、紀久とつきあっていた神崎とつきあい子どもができるが、子どもを生むことは神崎とは関係がないと、蓉子に宣言する。
また、あるとき発見された庭のクモの巣を、4人はとらないように大事にしている。クモは織り子の象徴で、昔話の水蜘蛛の話もでてくるが、蜘蛛はほかの生物をとって食う動物的な存在だ。同じ作者の『裏庭』でも、水蜘蛛の話はでてきたのを思い出した。
さらに、りかさんをつくった澄月という人形師が、じつは赤光という能面づくりと同一人物で、その赤光を通じて、与希子と紀久の先祖がからんでくる。赤光は「竜女」の面の解釈で有名で、赤光のつくった面には妖気があり、それをかぶって恋敵を殺した女がいたという話に、3人の女たちはかかわりあっていくのだ。赤光は隠密だったので、両指を切りおとされ、その後に人形をつくった人形がりかさんともう1体いた。その1体と紀久は田舎で墓を掘りおこしたときに出会う。
「竜女」は、蛇になって鬼畜の世界に入った魂ぱくが、今一度人間の世界へ帰ってきた、その茫然とした姿を表した面だという。だから牙が残っているが、心情的には見るべきものは見つ、という悟りの境地でもあり、そこには何の害意も熱情も残っていない表情だそうだ。後に、赤光の子どもが「蔦」という名前だったことがわかる。
クルド民族をたずねて旅立った神崎から手紙がくる。そのなかで、ドラゴンのもようがでてくる。
「僕は驚いた。菱形の周りにぐるりとカギ型の突起が生えている。これがドラゴンだなんてとても思えない。どうして?」
そのドラゴンは、クルドの女性たちが織り続けている織物の模様なのだ。マーガレットがクルドの血をひいていることもからまり、民族が綿々と受け継いで、民族固有の文様を織り続けていること、その民族を超えて、唐草模様がチグリス、ユーフラテスを境にして明らかに変わっていながらも、存在することなどが、層を重ね、広げるように照らしだされていく。
紀久は、神崎にすすめられ、全国の織り職人の取材を入れた織りの本をまとめる。しかし、学会のお偉方が自分たちの研究会の名でその本を編纂しなおして出すことに話は傾いていく。精魂こめた原稿をとりあげられ、いいように切り刻まれることになり、精神的にレイプを受けたような状態で、紀久は、昔たずねた紬の里をたずねる。
年老いたおばあさんは、紀久にやんわりと、「百反織らないうちは、機を織ったなんていうもんじゃない」といさめる。紀久は、その言葉に激しく打たれる。
おばあさんは、つづける。
「あんたさんのこと、覚えてるよ。まだ小さなおかっぱのおじょうちゃんで、お父さんの後ろに隠れるようにしていたのに、私の機のところへくると自分で織りたがってどんなにお父さんにしかられても機に上がったまま降りようとしんさらんかった。それでしかたなくあたしが教えたんだ。あたしが教えたんだ」
紀久は、そのあと、蓉子にこんなふうに書いている。
「こんなことで泣くなんて変でしょう。おかしいでしょう。」
恐れも怒りももろもろの感情を内にためこんでいく性質の紀久にとって、恋愛のこと、本のことで激しく自分をゆりうごかされながらも、自分のどこが動かされているのか、自分でつかめない状態にいたのだ。それを、紀久は、物語の最後のほうで、「自分の裡の、今までその存在すら知らなかった深みを急激に降りたのも初めてなら、そこを何かが流れていると知覚したのも初めてだった。ましてやそれが他者に対して開かれていくと感じたのも」と表現している。そうして、その流れは「世界を破滅させるようなマグマのような思い」とは別の層にあり、「存在ということ全ての底で、深く淵をなしながら、滔々と流れ行く川」のイメージとなっていく。マグマと川とは、同じ自分の裡にあるが、けっして交じり合わない関係である。
この後、紀久は山繭を見にいき、さなぎから成虫への変態を目の当たりにする。そのようすを、「幼虫の姿ではもう生きていけなくなり、追い詰められて、切羽詰まって、もう後には変容することしか残されていない」状態だと、紀久は感じる。そうして、なんと、繭からでてきたのは、幼児のころからおそろしく嫌悪していた蛾だったのだ。見ただけで虫ずの走る蛾だったが、命がけの変態につきあった今、紀久は不思議に蛾への嫌悪は消え、懐かしい、昔なじみに再会したような気さえしたのだ。
「唐草の概念はただひとつ、連続することです。」と作者は竹田に言わせている。りかさんの着物の柄で、竹田の選んだ唐草模様には、葡萄づるが、あるところでは鳥を抱いたり、またあるところでは花を咲かせたりして自在に変化しているものだ。
「草や、木や、虫や蝶のレベルから、人と人、国と国のレベルまで、それから意識の深いところも浅いところも。連続している、唐草のように」と、再度、竹田に作者は言わせている。
3人は、りかさんを中心にした合作をつくりはじめる。容態の悪化する与希子の父のために手仕事に熱がこもる。そうして、できあがった作品は、たばこの引火で燃え上がり、家までも燃えてしまうのだ。あんなに精魂をこめてつくった作品だったが、3人は不思議に最後の仕上げをしたような気になる。燃え上がったときがいちばん美しかったと感じたのだ。そうして、りかさんも炎のなかで旅だっていった。与希子の父は、これが「竜女です」という言葉を残す。
マーガレットは「東の子でもない西の子でもない新しい子ども」を産み落とし、与希子の父はこの世を去る。
蓉子は、明け方、空を見上げる。
「夜はだんだん白み始めていた。東の空は、まるで焼けてしまった紀久の紬のように様々な色が沸き立っていた。一番底にはあの天蚕紬の真珠のような淡い緑が見え隠れしている。
誰かが、何かが、壮大な機を織り続けている。
蓉子は、祖母の長い長い喪が今ようやく明けようとしているのを感じていた。」
作品は、一見ファンタジーとは見えない日常を追いながら、最後に小さな魔法がでてくる。『西の魔女が死んだ』でも、亡くなった祖母のメッセージが窓に描かれた文字としてでてきたが、『からくりからくさ』では、りかさんの描いたテーブルの上の草木の絵である。
「ねえ、あの竜女は確かにすごい作品だったわ。でも、ほら、覚えてる? 最初の頃、与希子さんが白いテーブルクロスの上に、カラスノエンドウの蔓と、マーガレットの花を小さくしたようなハルジョオン、それからええと……」
露草とヘビイチゴを机の上に草花唐草という感じでならべたのは、本当にすばらしかった、という紀久の言葉に与希子は、自分はつくった覚えがないと答える。
そして、物語の最後、明けゆく東の空に、春の野を軽やかに転がる風のようなりかさんの笑い声が、一瞬響いて消えていくのだ。
2つの作品の魔法は、どちらもこの世に生きているものがつくりだしたものではない。その不思議へ向かって、物語全体が歩をすすめていたのではないかと思えるほど、この小さな魔法は鮮やかな印象でありながら、胸をほっと温かくする。小さな不思議が、生きていることへの感動に変わるのである。
不思議の本質とはこういうものだったのではないか? とさえ思えてくる。不思議は、日常の営みの積み重ねから生まれるのであり、まさに唐草のように不思議と日常とは連続しているのだということを、作者は描いている。また、からくりのように編まれた日常は、不思議をそのなかに隠している。
そして、今回の日常の営みの中心は手仕事であり、作者は、登場人物の感情を、色や織りや文様と重ね合わせて描写していくことで、一人の感情がじつは時の流れをひきついでいたり、同じ思いをもって生きていた人への発見につなげていったりする。感情はそこへとどまっているものではなく、流れ、からまりあっていくのだ。このことは、一人の生の営みがそこだけにとどまるものではないことを示唆している。作者は、目に見えるものの向こうに、目に見えないものをたくさんあぶりだしている。それが唐草の文様として、私たちの目に見えてくるのだ。
唐草模様は、連続している。ときにからまり、からくりのように見え、連続し、積み重ねられつつ、途切れ、途切れた先から、またつながる。作者は、創りつづけること、生きつづけること、手仕事をする営み、感情の流れ、その綾を、唐草模様を描きながら、微妙なバランス感覚で、とんとんからりと編んでいき、私たちの目の前に唐草模様として描きだした。迷路のような唐草模様は、花や鳥だけでなく、不思議を抱いている……。手仕事に携わってきた人間たちは、知らず知らずのうちにその不思議を創りだし、その不思議こそが、人間を動かし、営みを営々とつなげてきたとも言えないだろうか。
この世のからくりは編みつづけられている。
(堀切リエ)
●『崖の国の物語』 1,2,3巻 ポール・スチュワート著 ポプラ社
うーん。何といったらいいのでしょう。この物語は。
好き嫌いの分かれる物語ではないかと思います。とくに1巻は。
1巻目をクリアすると、2巻、3巻はそれなりのおもしろさ。
で、1巻目はなんともおぞましい世界を、主人公は、迷い、捕らえられ、逃げまどい、
主人公以外はやたらと死んでいく、という展開です。
おすすめ? とはいえないかな。おすすめなら、こちらです。
『夢見るピーターの七つの冒険』 イアン・マキューン著 中央公論新社
いかにもイギリスらしい、しゃれていて、ユーモアも深みもある短編集。
わたしは、ネコが好き。こんなお話が書けたらしあわせです。
(紙魚)
●読み聞かせでウケる本 4
あしたブタの日、ぶたじかん(矢玉四郎 岩崎書店)
いろいろあるはれぶたシリーズの中でも、 読み聞かせするならこれ! というのがこの本です。
主人公の畠山則安、通称10円安君が書くウソ新聞が、次々に本当のことに…なんていうと、はじめの「はれときどきぶた」とかわんないじゃんって気がするんです
が、最後の「ぶたのひ」の場面は、おもしろさ爆発!
今日は、軽い気持ちで読み聞かせしたいなって日に、うってつけ。なぜか、授業時間の45分、ほぼぴったりで読み終えることができます。
ただし、その後、いい気になって「ウソ新聞」なんて書かせると、とんでもないことになります。
●私とファンタジーその5『龍の子太郎』(松谷みよ子、講談社) 堀切リエ
龍の子太郎・・・松谷みよ子を語る
幼児のころ描いたスケッチブックを開くと、今でも笑ってしまう絵があります。それは、龍の子太郎と赤鬼の絵です。左のページには、大きな赤鬼が太鼓をおなかにさげてデンと立っていて、おへそのあたりに龍の子太郎がへばりついています。右ぺージには、「たいこのすきなあかおにだ とんとかとかとか すっとんとん」と、大小いりみだれた字でずらずらと書いてあります。私は左ききだったので、文字はみごとな鏡文字です。多分、4歳ころに描いたものでしょう。
母は、この絵を見て仰天したそうです。ぐちゃぐちゃの画面ですし、主役は鬼ですから……。けれど仰天したあと、母はおかしくもなったのか、会う人ごとにこの絵の話をしたようです。
なぜ、赤鬼を描いたのか。幼児であった私は、赤鬼に心ひかれていたようです。
タイコのすきな 赤鬼だ
トントカ トカトカ スットントン
めしよりすきな タイコだよ
トントカ トカトカ スットントン
なんといっても、ごはんよりタイコの好きな赤鬼です。いやがる動物を集めてタイコを聞かせる場面は、笑ってしまいます(『ドラえもん』にでてくるジャイアンは、私にとって今もこの赤鬼のイメージです)。龍の子太郎に負けたとき、「どうせなげるなら天までなげてくれ。おら、そうしたら、かみなりさまの弟子になって、タイコをすきなだけたたく。」といって、天までとばしてもらった赤鬼。赤鬼のたたくタイコの音を聞いたことはないはずなのに、「トントカ トカトカ スットントン」と口ずさむと、まるで耳元にタイコの音が聞こえてくるようではありませんか。
タイコの音が聞こえてくるのは、この物語を松谷さんが祖先との合作だと言ったことと無関係ではないと思われます。また、この物語は「創作民話」とも呼ばれてきましたが、「創作民話」とはいったいどういう作品なのでしょうか。そうして、「創作民話」はファンタジーとはちがうのでしょうか。それなら、ファンタジーを創作することと、この地で生きていることとはどうつながっていくのでしょうか。『龍の子太郎』を読みかえしながら、そんなおぼろげなる疑問をさぐってみたいと思います。
--続きはこちら・・・
●『私のパリ、ふだん着のパリ』 (戸塚真弓著 中公文庫)
戸塚真弓はエッセイの名手だと思う。
ずい分昔、週一回、新聞にエッセイを連載していて、とてもおもしろく、
それが「暮らしのアート」という題で出版され、以来、元気のないときに読む特効薬の一冊。
あまり多作な人ではないので、この「私のパリ、ふだん着のパリ」 を見つけたときは、嬉しかった。
ところが買って読んでみると、この本は旧著 「パリからの手紙」 を改題したもので、ちょっとがっかり。
それでもまた読み直し、やっぱりよかった。
人生、楽しまなくっちゃ、という彼女の心意気が伝わってくるからだと思う。
●ヤングアダルト的本棚 No.4
『フィンガーボウルの話のつづき』 (吉田篤弘 新潮社)
『だれかのいとしいひと』 (角田光代 白泉社)
『8つの物語』 (フィリッパ・ピアス 片岡しのぶ訳 あすなろ書房)
子供の学校関係の知り合いと本の話をするのは、どうもにがてだ。この前も「現国の点がよくなるには、どんな本をよめばいいの」って真顔できかれて返答に窮してしまった。(本当にいるんです!こういう人) かと思えば、「ハリー・ポッターの次には、何を読めばいいの?」ってすごく真剣なまなざしで質問され、本を読むのに順番があったっけ?と、考えこんでしまったこともあった。きっと気軽に聞いてきたのだから、一般的な本や読みやすい本名をあげておけばいいと思うのだが、わたしも本好きのせいか、つい、「何かのための読書ってナンセンスじゃない?」なんて、つっかかりたくなってしまう。とはいえ、角が立つとめんどうなのでそんなことは思ってるだけでできず、その場はなごやかにうけながし、心の中にたまったもやもやをこうやってホームページでぶちまけてしまうというわけ。
こんなふうに、本の話をする時は、どこか人を選んでしまう。ぴったりわかりあえる人とであえると、宝物をみつけたようにうれしくなったりする。
なので、今月は、「現国の点数のために本を読む」なんて考えない本好きの人にそっとおしえたい、肌ざわりのいい、小粋な短篇集をみっつ。
『フィンガーボウルの話のつづき』は、ちょっと変わった短編がつまっている。最初、「世界の果てにある、小さな食堂」を舞台にしたお話を書こうとして、書きあぐねている作家の話かと思ったのだが、読みすすめていくうちに、どうやら、「世界の果てにある、小さな食堂」に集まる人々の話を集めたものらしいことがわかる。白鯨の幻影のとらわれた詩人、ジョンレノンを待たせた男、レインコート博物館に閑人カフェ。どの作品にも、絶対ありえないけど、もしかしたらどこかにあるんじゃないか、あればいいなって思わせる、不思議な雰囲気を漂よわせている。この作者の言葉をかりていえば「頭の奥にある、どこか狭くてうす暗い、秘密の露地裏のようなところまでしみ込んでくる」話なのだ。キーワードとして全編をつないでいるのは、ビートルズのホワイトアルバム。このアルバムの名前を聞いて、胸の奥がキュンとなつかしくなった人には、とくにおすすめだ。
『だれかのいとしいひと』は、MOEに三ヵ月おきぐらいに掲載していた短篇を中心に八つの作品を集めて単行本化にしたもの。帯には、新しい恋愛小説集とあるが、それが的確な表現かどうかは疑問。ハッピーエンドの恋愛はひとつもなくて、どちらかというと、ほろ苦いすれちがいや、人とのかかわりから生まれる心の揺れを描いた作品が多いからだ。角田光代といえば、わたしのとても好きな作家で、なんでもない光景や普通のできごとを、奥行きのある小説にしてしまう所がすごいと常々思っていた。この短篇集も例外ではない。決められた枠の中にうまくおさまっていられない、不器用で正直な主人公たちのとまどいやつぶやきが、するりとこっちの心にはいってきて気持ちをとらえてしまう。所々にはいっている酒井駒子の挿画も味わいがあり、話の雰囲気をひきあげている。
最後は、名手フィリッパ・ピアスの短篇集『8つの物語』 ――思い出の子どもたち―― という副題のとおり、遠い子どもの日を思いだすような、やわらかで、繊細で、ここちいい話しばかりが集められている。文体は、抑制がきいていて、過剰な修飾語などないのだが、それでも、子どもの目からみた、子どもだからこそ感じる微妙な心の動きがありありと描かれている。自尊心が高くて、傷つきやすく、でも、起こったことをありのままに受け取る能力をもっている子どもという存在を、見下ろす視点ではなく、尊重するように書いてあり、とても好感がもてた。
この頃、ヒット作を連発しているあすなろ書房だが、またひとつ、ステキな本をだしてくれたなっと、うれしくなった。
今回紹介した短編集は、ベストセラーになるタイプの本ではないかもしれない。でも、心のすみに眠っている懐かしい思い出を呼び起こして、やさしい気分にさせてくれる。手に汗にぎる冒険小説や殺人が繰り返されるミステリーはちょっと読みたくないって、そんな気分の時、手にとってみてほしい。
●私とファンタジーその4 『ノンちゃん雲に乗る』 石井桃子 堀切リエ
ノンちゃん雲にのる・・・石井桃子を語る
私とファンタジー4 『ノンちゃん雲に乗る』(石井桃子、光文社)堀切リエ
その本は、裏の古本屋で父が買ってきて、いつのまにか私の本棚にありました。赤い表紙で手ごろな大きさの本でした。
小学校中学年のころでした。早く起きてしまう私は、日曜日の朝の読書が定番になり、寝坊している人たちを起こさずに、布団のなかで電気をつけたり、懐中電灯をもちこんで、ひっそりと読書を楽しんでいました。
くりかえし読んだ本の名は、『ノンちゃん雲に乗る』。それも、くりかえし、くりかえし15回以上読んだのではないかと思います。同じ作者の『山のトムさん』も、セット本のように10回くらいは読みかえしたかと思います。
子どもが、同じ本を何度も読みかえすという話はよく聞きますが、でも、どうして、2度や3度ではなく10回以上も読み返したのでしょうか。そして、どうして『ノンちゃん雲に乗る』だったのでしょうか……。
それともうひとつ、日本のファンタジー作品の系譜が語られるとき、『ノンちゃん雲に乗る』がとりあげられることがあまりないのは、どうしてなんでしょうか? この作品はファンタジーには分類できないのでしょうか?
この二つの疑問を軸に、『ノンちゃん雲に乗る』を読み返してみたいと思います。
--続きはこちら・・・
『じっぽ』(たつみや章 著、あかね書房)
迷子の河童の子と「ぼく」の交流を描いた名作です。
1年生〜4年生くらいまでの幅広い層で読み聞かせ出来る本です。
ただし、低学年に読み聞かせる時は、難しめの言葉を易しく翻訳する技術が必要です。
じっぽの声は、恥を捨ててう〜んと可愛く読みましょう。
以前2年生の教室で読んだ時は、「じっぽブーム」が巻き起こり、教室中が、河童
の巣みたいになってしまいました。
(赤羽じゅんこ)
●私とファンタジーその3 「一つのねがい」 浜田広介 堀切リエ
一つのねがい・・・浜田広介を語る
幼児のときの読書体験はどんなものでしたか? 幼児の時ですから、自分で本を開いて読んでいたのか、耳から聞いた話にそって自分で話を組み立てながら本をめくっていったのか、その境ははっきりとしません。けれど、私は幼児のときに『はまだひろすけ全集』を読んだという記憶がのこっています。そして、そのお話のひとつひとつを思いだすことができます。
--続きはこちら・・・
●『母のいる場所 シルバーヴィラ向山物語』(久田恵、文芸春秋)
久田恵は、時代の風俗を鮮やかに伝えてくれる作家で、読んで失望させられたことがない。
まず、人間や物事を過不足なく伝える文章がすばらしい。
客観性を失わず、それでいてあいてを思いやる暖かさがあり、それがユーモアとなる。
高齢化社会を迎えようとしている今、この一冊は、一読の価値あり。お薦めです。
●読み聞かせでウケる本
『マンホールからこんにちは』(いとうひろし、 徳間書店)
学校で子ども達に読むと、必ず大ウケするのがこの本です。
マンホールから出てくる思いがけない登場人物と、リズミカルでユーモア溢れる言葉の繰り返しが、その秘けつかな?
いとうひろしの本は、どれもとぼけた文体と絵が魅力的で、「おさるのまいにち」のシリーズも「ごきげんなすてご」のシリーズも、子ども達に大人気です。
いとうひろしの本を読み聞かせする時は、ひたすら淡々と読むこと!こちらもとぼけた気分で読むのがポイントです。
●ヤングアダルト的本棚 No1
『インストール』(綿矢りさ、河出書房新社)
『ルート225』(藤野千夜、理論社)
二月半ば、ももたろうホームページの掲示板に、ある質問がなげこまれた。「どうして子どもの本を書くのですか?(抜粋)」だ。書き手であるももたろうは大慌て。みんながそれぞれ心の奥をぎゅっとつかまれてような、ゆさぶられたようなおかしな気持ちになったみたい。わたしもそのひとり。
そこで盛り上がった掲示板を中二の娘に見せた。「どう、思う?」って気楽な感じに。そしたら娘の一言。
「お母さん、こんなマジに切り返して、たくさん書いて恥ずかしくないの?」どうやら、わたしの答え方が気に入らない様子。
「恥ずかしいけど、これ、本当のことだもの。うまく書けてるとは思わないけど、うそじゃないし……」
たじたじするわたしに、娘は、あきれたねって顔をしてさらに言ってのけた。
「こういう本当のことは、普通、口にださないんだよ。もっと、適当にかわせばよかったじゃない。掲示板なんかでアツクなっちゃって変なんじゃないの」
その口調に、一瞬目が点になるわたし。
でも、気をとりなおして、(そうだ、わたしは母親!)
「だけどさ。そうやってあんたたち、本当のこととかまじめなこととか避けてるから、うすっぺらな関係しかたもてないんじゃないの」と言ってみると、
「うすっぺらで結構。傷つくよりいい」と言い返された。
(今の子だね─)わたしは、妙に関心してしまい、言葉を忘れ、この話題はおしまいになった。
そこで、こんな風な「今」がたくさんつまっている作品、ふたつ。
『インストール』は、若干17歳の高校3年生が書いた作品。なにものにもなれないかもしれない自分を不安がり、会話の中の沈黙を嫌い、むきだしで不器用なまじめさを疎んじる主人公が、チャット嬢になり、ネットの中の架空の人となって遊ぶ。17才の女の子がこんなエッチ会話を平気で書くのかとわたしの母親の部分はついていけなかったが、作品としては、巧みに今の若者の不安感をうつしだし、斬新でかつおもしろい。もしかしたら家の子もこんなことしてるんじゃないのっと思わせるリアルさがあり、ネットというものの便利さや不気味さも語られている。
もうひとつの『ルート225』は不思議な作品。
わたしと弟のダイゴは、ある日、似ているのにちょっと違う世界に迷いこんでしまう。母親がいないし、亡くなったはずのクマノイさんが生きているその奇妙な世界で、とまどう姉弟の描き方が実にリアルで今っぽい。
姉である中二のわたしは、強がったり弟をからかったり冗談を言ったりして、どこか違う場所にいるという不安感をまぎらわそうとするのに対し、思春期前の弟は、まっすぐ生真面目に不思議を考える。そんな弟の態度を何度もからかい、わかんないとはぐらかし、姉は不安をごまかし、必死で平静さをよそおう。でも、ふたりとも心の底では、自分の過去の行為のせいでこんなことになってしまったんじゃないかと怯えていたりする。
予想をうらぎってくれたラストは、好き嫌いがわかれる所だろうけど、わたしは、さりげない幕切れに作者のうまさを感じた。
どちらの作品にも、傷つきやすく、それでいてしたたかな「今」がくっきりと描かれている。明るく軽いタッチの描写や会話の裏にすけてみえる、切なさと不安感が心に残った。
●私とファンタジーその2・『月夜と眼鏡』(小川未明、冨山房百科文庫) 堀切リエ
月夜と眼鏡・・・小川未明を語る
今回は「空想世界を育む」という視点で、私にとって大切な作品をひもときたいと思います。「ファンタジー世界を育む」でもよいと思ったのですが、やはりファンタジーという言葉の意味があいまいになってしまう恐れがあるので、空想としました。
第2回で小川未明とは、第1回『指輪物語』とまるでかみあわないではないか、と思われた方も最後まで読んでいただければ、どこがつながっているかわかっていただけると思います。
*書名のあとに入っている( )付の数字は、文末の参考図書を示しています。
*作品の題名は引用した本に沿っているので、全体として統一されていません。
*古い文献から引用した場合、旧漢字を新漢字に変えています。
注/上記は初版の文庫版で、今年出版された新版では、『旅の仲間』(1〜4)、『二つの塔』(5〜7)、 『王の帰還』(8〜9)という9冊本になりました。初版は単行本をそのまま縮小して作られたと思うのですが、 字も小さくてつくりもけっして上等ではありませんでした。新版は字も大きくなり読みやすくなっています。 また、初版の訳にもかかわったという田中明子氏がわかりにくい言葉や言葉の統一などを含めて全体に手を 入れています。ぱらぱらとめくってずいぶん変わってしまったなという印象を受けました。 ここで引用した文はすべて初版(瀬田貞二訳)からです。人名なども大きなところでは「サルーマン」 →「サルマン」と変わりました。以上について、くわしく知りたい方は、高橋誠さん がつくられた「赤龍館(指輪物語単語対照表)」をごらんになってください。