●『影の王』 (スーザン・クーパー 偕成社)
一気に読みました。
スーザン・クーパーはとても筆力のある作家で、「光の六つのしるし」などのハイ・ファンタジーシリーズも、
妖怪ボガートを主人公にした2冊も、とにかく最後まで読ませます。でも読後、いろいろ気になる箇所が出てきます。ありあまる想像力を駆使してス、トーリー優先で話をすすめていくからかもしれません。
その点、この「影の王」は時代がしっかりと書き込まれ、密度の濃い作品となっています。訳者の井辻朱美さんも、スーザン・クーパーの物語の中で、一番感動が深い、とあとがきに書いています。同感です。シェイクスピアの戯曲や詩に精通している人なら、もっと楽しめるかも、と思いました。
(紙魚)
● 『からくりからくさ』(梨木香歩、新潮文庫)
「たこ唐草」の模様が好きだ。くわしく調べていないけれど、タイで出会い、中国の陶器でもよく見つけるから、アジアによくある模様なのかもしれない。唐草模様といえば風呂敷に代表されるように、けっしてモダンな柄として、私のうちにあったわけではない。けれど、展覧会でいろいろなパターンの唐草模様に出会うたびに、「あの唐草はいったいなんの草?」と長いこと気になっていた。
たこ唐草は、たこの足のようにくるくると丸くなった形に、唐草をデザインしたもようで、とてもチャーミングだ。姉から「それはたこ唐草という模様よ」と言われたとたん、私の耳の底には「たこ唐草」という言葉が住み着いてしまった。しかし、なにかを好きになると度をこす私は、なるべく入れ込まないように、さりげなく骨董品屋の店先をのぞく。中からおじさんが「たこ唐草、いいのがあるよ」なんて出てくると、「あ、ばれてる」と悪いことをした子のように首をすくめてしまうのだ。
そういう私だから、この『からくりからくさ』には、随所ではまってしまった感がある。
主人公の女性は、4人。蓉子は、亡くなった祖母の家に「りかさん」という人形と住み、そこに3人の女性が下宿する。4人はまだ勉強中だが、それぞれ手に仕事をもっている。蓉子は染色、紀久は織物、与希子はテキスタイルの図案の研究と実践、そしてマーガレットは鍼灸。
蓉子の祖母が亡くなって50日目から、この話ははじまる。同じ作者の『西の魔女が死んだ』のおばあさんのイメージが重なる。洋風と和風の違いはあるけれど、二人の祖母は生活への精神が共通しているように思える。蓉子の祖母の本性は、「今そこにある何かを『育もう』とすることにあり、草木でも、人形の中に眠る、「気」でも、伸びていこうとする芽の力を、知らずそこから紡ぎだそうとする人だった」と描写されている。
その温かで前向きなエネルギーが、祖母の家にまだ満ちているような気がして、蓉子は祖母を喪ったという気が実感として湧かないまま、暮らしているのだった。
しかし、祖母からもらった「りかさん」という人形は、祖母が亡くなってから蓉子の呼びかけにも答えなくなり、まるでぬけがらになってしまっている。「人形と会話をする」という蓉子の話に、下宿人の3人は少しとまどいながらも、蓉子とりかさんと同居をはじめるのだ。
同居をはじめた次の朝、鮮烈な匂いが家にたちこめる。蓉子が染色のためにつんできた蓬を煮出しているのだ。朝食の味噌汁の具もきざんだ蓬で、野原の味がする。4人の暮らしはこの朝に代表されるように、草木と切っても切りはなせない。
4人は、食費の節約もかねて、庭の野草を摘んで食べるようになる。タンポポ、ノゲシ、ヨメナ、カラスノエンドウ、スズメノエンドウ……。手仕事の材料としても4人は草木と親密なかかわりを持っている。
蓉子の場合は、草木とのかかわりは色を中心にしている。祖母の死を含めて、世の中の事象や自分の感情や人間の綾を、色で受け取り、表現している。たとえば、黒の色。柏の葉の緑にはどこか暗いところがあり、鉄媒染で黒褐色になるのをくりかえして黒にするのだが、いろんなものがざわざわ入っている黒色なので、正式の喪服はつくれない。「せいぜい死者を悼む色ってとこかしら」という柚木の言葉は、蓉子の中でぐるぐると回りだす。
黒といえば、大陸からの紬の最初の伝承地であるという久米島へ渡ったとき、黒の色をだすために、ピカチー染めとグールー染めを日に何度もくりかえし、さらに泥染めをして、14日間かかって出す、ということを聞き、私は感動した。黒は塗りつぶす色というイメージが強かったけれど、いろいろな色が重なりあって、黒は生み出されるのだ。したがって、黒色のむこうにはほかの色が無数にある。とても奥の深い色なのだ。
その黒と対照的に、紀久が恋愛問題で悩んだとき、重クロム酸カリという劇薬をつかって、壷の底のような完全な闇の色を染めてほしいと、蓉子はたのまれる。環境を破壊する劇薬を使って染物をすることは、蓉子の手も心も震わせるが、紀久の心痛を知る蓉子はことわれない。いっしょに胸を痛めつつ、闇のような黒色を染め抜く。その黒は蓉子にとって、恐れを感じ、気分が悪くなるほどの黒色なのだ。同じ黒でも、この違い。
そして、紀久はキンキンに糸をはりつめた織り機を、夕鶴のおゆうのように、力をこめてひたすら踏みつづける。その音は、ほかの3人をも苦しめる。
手仕事とはいったいどういうものだろうか。紀久は、織物についてこう書く。
「古今東西、機の織り手がほとんど女だというのには、それが適正であった以前に、女にはそういう営みが必要だったからなのではないでしょうか。誰にも言えない、口に出して言ったら、世界を破滅させてしまうような、マグマのような思いを、とんとんからり、となだめなだめ、静かな日常を紡いでいくような、そういう営みが。」
与希子は言う。
「存在するために、どうしても表現ということが必要な人たちだっているんだわ」
紀久は言葉を選んで返す。
「そういう人たちが自己表現をして生きていくことを、私は否定しない。ただ、平凡な、例えば植物の蔓の連続模様が、世界中でいろんなパターンに落ち着きながら無名の女性たちに営々と染められ続けてたりするのをみると、ときどき、個人を越えた普遍性とか、永遠のようなものを、彼女らは自分では気づかずに目指していたんじゃないかと思うのよ」
生きていくこと、なにかを創りだすこと、表現すること、手を動かすことが、微妙にからまりあって、彼女らの生き方への視線となっている。
手仕事については、私もおもしろい経験がある。私は手仕事、手を動かしていることが好きだ。それは、ものを創り出す作業が楽しいからなのだと思っていた。劇団では、小道具や大道具づくりが得意だった。あるとき、猿が主人公のミュージカル仕立ての芝居で、ジャングルをイメージした舞台をつくることになった。天井にはつるをイメージしたものがタランタランと全面に下がって見えるのがよいね、ということになった。でも、太い綱はとても高価だ。私はその晩、よれよれになったロープとあまり布をダンボールにいっぱいだして、稽古場で縄を編み始めた。よれよれロープに布を裂いては編みつけていき、途中に切れ端をたらしたり、布だけで編んで太さを変えたり、手をひたすら動かしつづけた。気がつくと表は白々として、私の前には十数メートルものつたが編めていた。「すごーい、これどうしたの?」稽古場に入ってきた人たちはおどろいた。なにかに憑かれたようにわれを忘れて、私はひたすら徹夜で蔦を編んでいたのだ。立ち上がろうとしたら、足も腰も痛くて立てなかった。いったいあのエネルギーはなんだったのだろう。手仕事には人をつき動かす不思議な力があるように思えてならない。
しかし、草ではじまった話は、だんだんに動物へと移っていく。
ギリシャのぶどう蔓とか、唐草とか、蔦などの柄は、確かに世界中にあり、それは、もともとは蛇をモチーフにしたのではないかと、神崎は言うのだ。この神崎はキーパーソンになっていく。マーガレットは、2人の仲は知らずに、紀久とつきあっていた神崎とつきあい子どもができるが、子どもを生むことは神崎とは関係がないと、蓉子に宣言する。
また、あるとき発見された庭のクモの巣を、4人はとらないように大事にしている。クモは織り子の象徴で、昔話の水蜘蛛の話もでてくるが、蜘蛛はほかの生物をとって食う動物的な存在だ。同じ作者の『裏庭』でも、水蜘蛛の話はでてきたのを思い出した。
さらに、りかさんをつくった澄月という人形師が、じつは赤光という能面づくりと同一人物で、その赤光を通じて、与希子と紀久の先祖がからんでくる。赤光は「竜女」の面の解釈で有名で、赤光のつくった面には妖気があり、それをかぶって恋敵を殺した女がいたという話に、3人の女たちはかかわりあっていくのだ。赤光は隠密だったので、両指を切りおとされ、その後に人形をつくった人形がりかさんともう1体いた。その1体と紀久は田舎で墓を掘りおこしたときに出会う。
「竜女」は、蛇になって鬼畜の世界に入った魂ぱくが、今一度人間の世界へ帰ってきた、その茫然とした姿を表した面だという。だから牙が残っているが、心情的には見るべきものは見つ、という悟りの境地でもあり、そこには何の害意も熱情も残っていない表情だそうだ。後に、赤光の子どもが「蔦」という名前だったことがわかる。
クルド民族をたずねて旅立った神崎から手紙がくる。そのなかで、ドラゴンのもようがでてくる。
「僕は驚いた。菱形の周りにぐるりとカギ型の突起が生えている。これがドラゴンだなんてとても思えない。どうして?」
そのドラゴンは、クルドの女性たちが織り続けている織物の模様なのだ。マーガレットがクルドの血をひいていることもからまり、民族が綿々と受け継いで、民族固有の文様を織り続けていること、その民族を超えて、唐草模様がチグリス、ユーフラテスを境にして明らかに変わっていながらも、存在することなどが、層を重ね、広げるように照らしだされていく。
紀久は、神崎にすすめられ、全国の織り職人の取材を入れた織りの本をまとめる。しかし、学会のお偉方が自分たちの研究会の名でその本を編纂しなおして出すことに話は傾いていく。精魂こめた原稿をとりあげられ、いいように切り刻まれることになり、精神的にレイプを受けたような状態で、紀久は、昔たずねた紬の里をたずねる。
年老いたおばあさんは、紀久にやんわりと、「百反織らないうちは、機を織ったなんていうもんじゃない」といさめる。紀久は、その言葉に激しく打たれる。
おばあさんは、つづける。
「あんたさんのこと、覚えてるよ。まだ小さなおかっぱのおじょうちゃんで、お父さんの後ろに隠れるようにしていたのに、私の機のところへくると自分で織りたがってどんなにお父さんにしかられても機に上がったまま降りようとしんさらんかった。それでしかたなくあたしが教えたんだ。あたしが教えたんだ」
紀久は、そのあと、蓉子にこんなふうに書いている。
「こんなことで泣くなんて変でしょう。おかしいでしょう。」
恐れも怒りももろもろの感情を内にためこんでいく性質の紀久にとって、恋愛のこと、本のことで激しく自分をゆりうごかされながらも、自分のどこが動かされているのか、自分でつかめない状態にいたのだ。それを、紀久は、物語の最後のほうで、「自分の裡の、今までその存在すら知らなかった深みを急激に降りたのも初めてなら、そこを何かが流れていると知覚したのも初めてだった。ましてやそれが他者に対して開かれていくと感じたのも」と表現している。そうして、その流れは「世界を破滅させるようなマグマのような思い」とは別の層にあり、「存在ということ全ての底で、深く淵をなしながら、滔々と流れ行く川」のイメージとなっていく。マグマと川とは、同じ自分の裡にあるが、けっして交じり合わない関係である。
この後、紀久は山繭を見にいき、さなぎから成虫への変態を目の当たりにする。そのようすを、「幼虫の姿ではもう生きていけなくなり、追い詰められて、切羽詰まって、もう後には変容することしか残されていない」状態だと、紀久は感じる。そうして、なんと、繭からでてきたのは、幼児のころからおそろしく嫌悪していた蛾だったのだ。見ただけで虫ずの走る蛾だったが、命がけの変態につきあった今、紀久は不思議に蛾への嫌悪は消え、懐かしい、昔なじみに再会したような気さえしたのだ。
「唐草の概念はただひとつ、連続することです。」と作者は竹田に言わせている。りかさんの着物の柄で、竹田の選んだ唐草模様には、葡萄づるが、あるところでは鳥を抱いたり、またあるところでは花を咲かせたりして自在に変化しているものだ。
「草や、木や、虫や蝶のレベルから、人と人、国と国のレベルまで、それから意識の深いところも浅いところも。連続している、唐草のように」と、再度、竹田に作者は言わせている。
3人は、りかさんを中心にした合作をつくりはじめる。容態の悪化する与希子の父のために手仕事に熱がこもる。そうして、できあがった作品は、たばこの引火で燃え上がり、家までも燃えてしまうのだ。あんなに精魂をこめてつくった作品だったが、3人は不思議に最後の仕上げをしたような気になる。燃え上がったときがいちばん美しかったと感じたのだ。そうして、りかさんも炎のなかで旅だっていった。与希子の父は、これが「竜女です」という言葉を残す。
マーガレットは「東の子でもない西の子でもない新しい子ども」を産み落とし、与希子の父はこの世を去る。
蓉子は、明け方、空を見上げる。
「夜はだんだん白み始めていた。東の空は、まるで焼けてしまった紀久の紬のように様々な色が沸き立っていた。一番底にはあの天蚕紬の真珠のような淡い緑が見え隠れしている。
誰かが、何かが、壮大な機を織り続けている。
蓉子は、祖母の長い長い喪が今ようやく明けようとしているのを感じていた。」
作品は、一見ファンタジーとは見えない日常を追いながら、最後に小さな魔法がでてくる。『西の魔女が死んだ』でも、亡くなった祖母のメッセージが窓に描かれた文字としてでてきたが、『からくりからくさ』では、りかさんの描いたテーブルの上の草木の絵である。
「ねえ、あの竜女は確かにすごい作品だったわ。でも、ほら、覚えてる? 最初の頃、与希子さんが白いテーブルクロスの上に、カラスノエンドウの蔓と、マーガレットの花を小さくしたようなハルジョオン、それからええと……」
露草とヘビイチゴを机の上に草花唐草という感じでならべたのは、本当にすばらしかった、という紀久の言葉に与希子は、自分はつくった覚えがないと答える。
そして、物語の最後、明けゆく東の空に、春の野を軽やかに転がる風のようなりかさんの笑い声が、一瞬響いて消えていくのだ。
2つの作品の魔法は、どちらもこの世に生きているものがつくりだしたものではない。その不思議へ向かって、物語全体が歩をすすめていたのではないかと思えるほど、この小さな魔法は鮮やかな印象でありながら、胸をほっと温かくする。小さな不思議が、生きていることへの感動に変わるのである。
不思議の本質とはこういうものだったのではないか? とさえ思えてくる。不思議は、日常の営みの積み重ねから生まれるのであり、まさに唐草のように不思議と日常とは連続しているのだということを、作者は描いている。また、からくりのように編まれた日常は、不思議をそのなかに隠している。
そして、今回の日常の営みの中心は手仕事であり、作者は、登場人物の感情を、色や織りや文様と重ね合わせて描写していくことで、一人の感情がじつは時の流れをひきついでいたり、同じ思いをもって生きていた人への発見につなげていったりする。感情はそこへとどまっているものではなく、流れ、からまりあっていくのだ。このことは、一人の生の営みがそこだけにとどまるものではないことを示唆している。作者は、目に見えるものの向こうに、目に見えないものをたくさんあぶりだしている。それが唐草の文様として、私たちの目に見えてくるのだ。
唐草模様は、連続している。ときにからまり、からくりのように見え、連続し、積み重ねられつつ、途切れ、途切れた先から、またつながる。作者は、創りつづけること、生きつづけること、手仕事をする営み、感情の流れ、その綾を、唐草模様を描きながら、微妙なバランス感覚で、とんとんからりと編んでいき、私たちの目の前に唐草模様として描きだした。迷路のような唐草模様は、花や鳥だけでなく、不思議を抱いている……。手仕事に携わってきた人間たちは、知らず知らずのうちにその不思議を創りだし、その不思議こそが、人間を動かし、営みを営々とつなげてきたとも言えないだろうか。
この世のからくりは編みつづけられている。
(堀切リエ)
●『崖の国の物語』 1,2,3巻 ポール・スチュワート著 ポプラ社
うーん。何といったらいいのでしょう。この物語は。
好き嫌いの分かれる物語ではないかと思います。とくに1巻は。
1巻目をクリアすると、2巻、3巻はそれなりのおもしろさ。
で、1巻目はなんともおぞましい世界を、主人公は、迷い、捕らえられ、逃げまどい、
主人公以外はやたらと死んでいく、という展開です。
おすすめ? とはいえないかな。おすすめなら、こちらです。
『夢見るピーターの七つの冒険』 イアン・マキューン著 中央公論新社
いかにもイギリスらしい、しゃれていて、ユーモアも深みもある短編集。
わたしは、ネコが好き。こんなお話が書けたらしあわせです。
(紙魚)
●読み聞かせでウケる本 4
あしたブタの日、ぶたじかん(矢玉四郎 岩崎書店)
いろいろあるはれぶたシリーズの中でも、 読み聞かせするならこれ! というのがこの本です。
主人公の畠山則安、通称10円安君が書くウソ新聞が、次々に本当のことに…なんていうと、はじめの「はれときどきぶた」とかわんないじゃんって気がするんです
が、最後の「ぶたのひ」の場面は、おもしろさ爆発!
今日は、軽い気持ちで読み聞かせしたいなって日に、うってつけ。なぜか、授業時間の45分、ほぼぴったりで読み終えることができます。
ただし、その後、いい気になって「ウソ新聞」なんて書かせると、とんでもないことになります。
●私とファンタジーその5『龍の子太郎』(松谷みよ子、講談社) 堀切リエ
龍の子太郎・・・松谷みよ子を語る
幼児のころ描いたスケッチブックを開くと、今でも笑ってしまう絵があります。それは、龍の子太郎と赤鬼の絵です。左のページには、大きな赤鬼が太鼓をおなかにさげてデンと立っていて、おへそのあたりに龍の子太郎がへばりついています。右ぺージには、「たいこのすきなあかおにだ とんとかとかとか すっとんとん」と、大小いりみだれた字でずらずらと書いてあります。私は左ききだったので、文字はみごとな鏡文字です。多分、4歳ころに描いたものでしょう。
母は、この絵を見て仰天したそうです。ぐちゃぐちゃの画面ですし、主役は鬼ですから……。けれど仰天したあと、母はおかしくもなったのか、会う人ごとにこの絵の話をしたようです。
なぜ、赤鬼を描いたのか。幼児であった私は、赤鬼に心ひかれていたようです。
タイコのすきな 赤鬼だ
トントカ トカトカ スットントン
めしよりすきな タイコだよ
トントカ トカトカ スットントン
なんといっても、ごはんよりタイコの好きな赤鬼です。いやがる動物を集めてタイコを聞かせる場面は、笑ってしまいます(『ドラえもん』にでてくるジャイアンは、私にとって今もこの赤鬼のイメージです)。龍の子太郎に負けたとき、「どうせなげるなら天までなげてくれ。おら、そうしたら、かみなりさまの弟子になって、タイコをすきなだけたたく。」といって、天までとばしてもらった赤鬼。赤鬼のたたくタイコの音を聞いたことはないはずなのに、「トントカ トカトカ スットントン」と口ずさむと、まるで耳元にタイコの音が聞こえてくるようではありませんか。
タイコの音が聞こえてくるのは、この物語を松谷さんが祖先との合作だと言ったことと無関係ではないと思われます。また、この物語は「創作民話」とも呼ばれてきましたが、「創作民話」とはいったいどういう作品なのでしょうか。そうして、「創作民話」はファンタジーとはちがうのでしょうか。それなら、ファンタジーを創作することと、この地で生きていることとはどうつながっていくのでしょうか。『龍の子太郎』を読みかえしながら、そんなおぼろげなる疑問をさぐってみたいと思います。
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●『私のパリ、ふだん着のパリ』 (戸塚真弓著 中公文庫)
戸塚真弓はエッセイの名手だと思う。
ずい分昔、週一回、新聞にエッセイを連載していて、とてもおもしろく、
それが「暮らしのアート」という題で出版され、以来、元気のないときに読む特効薬の一冊。
あまり多作な人ではないので、この「私のパリ、ふだん着のパリ」 を見つけたときは、嬉しかった。
ところが買って読んでみると、この本は旧著 「パリからの手紙」 を改題したもので、ちょっとがっかり。
それでもまた読み直し、やっぱりよかった。
人生、楽しまなくっちゃ、という彼女の心意気が伝わってくるからだと思う。
●ヤングアダルト的本棚 No.4
『フィンガーボウルの話のつづき』 (吉田篤弘 新潮社)
『だれかのいとしいひと』 (角田光代 白泉社)
『8つの物語』 (フィリッパ・ピアス 片岡しのぶ訳 あすなろ書房)
子供の学校関係の知り合いと本の話をするのは、どうもにがてだ。この前も「現国の点がよくなるには、どんな本をよめばいいの」って真顔できかれて返答に窮してしまった。(本当にいるんです!こういう人) かと思えば、「ハリー・ポッターの次には、何を読めばいいの?」ってすごく真剣なまなざしで質問され、本を読むのに順番があったっけ?と、考えこんでしまったこともあった。きっと気軽に聞いてきたのだから、一般的な本や読みやすい本名をあげておけばいいと思うのだが、わたしも本好きのせいか、つい、「何かのための読書ってナンセンスじゃない?」なんて、つっかかりたくなってしまう。とはいえ、角が立つとめんどうなのでそんなことは思ってるだけでできず、その場はなごやかにうけながし、心の中にたまったもやもやをこうやってホームページでぶちまけてしまうというわけ。
こんなふうに、本の話をする時は、どこか人を選んでしまう。ぴったりわかりあえる人とであえると、宝物をみつけたようにうれしくなったりする。
なので、今月は、「現国の点数のために本を読む」なんて考えない本好きの人にそっとおしえたい、肌ざわりのいい、小粋な短篇集をみっつ。
『フィンガーボウルの話のつづき』は、ちょっと変わった短編がつまっている。最初、「世界の果てにある、小さな食堂」を舞台にしたお話を書こうとして、書きあぐねている作家の話かと思ったのだが、読みすすめていくうちに、どうやら、「世界の果てにある、小さな食堂」に集まる人々の話を集めたものらしいことがわかる。白鯨の幻影のとらわれた詩人、ジョンレノンを待たせた男、レインコート博物館に閑人カフェ。どの作品にも、絶対ありえないけど、もしかしたらどこかにあるんじゃないか、あればいいなって思わせる、不思議な雰囲気を漂よわせている。この作者の言葉をかりていえば「頭の奥にある、どこか狭くてうす暗い、秘密の露地裏のようなところまでしみ込んでくる」話なのだ。キーワードとして全編をつないでいるのは、ビートルズのホワイトアルバム。このアルバムの名前を聞いて、胸の奥がキュンとなつかしくなった人には、とくにおすすめだ。
『だれかのいとしいひと』は、MOEに三ヵ月おきぐらいに掲載していた短篇を中心に八つの作品を集めて単行本化にしたもの。帯には、新しい恋愛小説集とあるが、それが的確な表現かどうかは疑問。ハッピーエンドの恋愛はひとつもなくて、どちらかというと、ほろ苦いすれちがいや、人とのかかわりから生まれる心の揺れを描いた作品が多いからだ。角田光代といえば、わたしのとても好きな作家で、なんでもない光景や普通のできごとを、奥行きのある小説にしてしまう所がすごいと常々思っていた。この短篇集も例外ではない。決められた枠の中にうまくおさまっていられない、不器用で正直な主人公たちのとまどいやつぶやきが、するりとこっちの心にはいってきて気持ちをとらえてしまう。所々にはいっている酒井駒子の挿画も味わいがあり、話の雰囲気をひきあげている。
最後は、名手フィリッパ・ピアスの短篇集『8つの物語』 ――思い出の子どもたち―― という副題のとおり、遠い子どもの日を思いだすような、やわらかで、繊細で、ここちいい話しばかりが集められている。文体は、抑制がきいていて、過剰な修飾語などないのだが、それでも、子どもの目からみた、子どもだからこそ感じる微妙な心の動きがありありと描かれている。自尊心が高くて、傷つきやすく、でも、起こったことをありのままに受け取る能力をもっている子どもという存在を、見下ろす視点ではなく、尊重するように書いてあり、とても好感がもてた。
この頃、ヒット作を連発しているあすなろ書房だが、またひとつ、ステキな本をだしてくれたなっと、うれしくなった。
今回紹介した短編集は、ベストセラーになるタイプの本ではないかもしれない。でも、心のすみに眠っている懐かしい思い出を呼び起こして、やさしい気分にさせてくれる。手に汗にぎる冒険小説や殺人が繰り返されるミステリーはちょっと読みたくないって、そんな気分の時、手にとってみてほしい。
●私とファンタジーその4 『ノンちゃん雲に乗る』 石井桃子 堀切リエ
ノンちゃん雲にのる・・・石井桃子を語る
私とファンタジー4 『ノンちゃん雲に乗る』(石井桃子、光文社)堀切リエ
その本は、裏の古本屋で父が買ってきて、いつのまにか私の本棚にありました。赤い表紙で手ごろな大きさの本でした。
小学校中学年のころでした。早く起きてしまう私は、日曜日の朝の読書が定番になり、寝坊している人たちを起こさずに、布団のなかで電気をつけたり、懐中電灯をもちこんで、ひっそりと読書を楽しんでいました。
くりかえし読んだ本の名は、『ノンちゃん雲に乗る』。それも、くりかえし、くりかえし15回以上読んだのではないかと思います。同じ作者の『山のトムさん』も、セット本のように10回くらいは読みかえしたかと思います。
子どもが、同じ本を何度も読みかえすという話はよく聞きますが、でも、どうして、2度や3度ではなく10回以上も読み返したのでしょうか。そして、どうして『ノンちゃん雲に乗る』だったのでしょうか……。
それともうひとつ、日本のファンタジー作品の系譜が語られるとき、『ノンちゃん雲に乗る』がとりあげられることがあまりないのは、どうしてなんでしょうか? この作品はファンタジーには分類できないのでしょうか?
この二つの疑問を軸に、『ノンちゃん雲に乗る』を読み返してみたいと思います。
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『じっぽ』(たつみや章 著、あかね書房)
迷子の河童の子と「ぼく」の交流を描いた名作です。
1年生〜4年生くらいまでの幅広い層で読み聞かせ出来る本です。
ただし、低学年に読み聞かせる時は、難しめの言葉を易しく翻訳する技術が必要です。
じっぽの声は、恥を捨ててう〜んと可愛く読みましょう。
以前2年生の教室で読んだ時は、「じっぽブーム」が巻き起こり、教室中が、河童
の巣みたいになってしまいました。
(赤羽じゅんこ)
●私とファンタジーその3 「一つのねがい」 浜田広介 堀切リエ
一つのねがい・・・浜田広介を語る
幼児のときの読書体験はどんなものでしたか? 幼児の時ですから、自分で本を開いて読んでいたのか、耳から聞いた話にそって自分で話を組み立てながら本をめくっていったのか、その境ははっきりとしません。けれど、私は幼児のときに『はまだひろすけ全集』を読んだという記憶がのこっています。そして、そのお話のひとつひとつを思いだすことができます。
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●『母のいる場所 シルバーヴィラ向山物語』(久田恵、文芸春秋)
久田恵は、時代の風俗を鮮やかに伝えてくれる作家で、読んで失望させられたことがない。
まず、人間や物事を過不足なく伝える文章がすばらしい。
客観性を失わず、それでいてあいてを思いやる暖かさがあり、それがユーモアとなる。
高齢化社会を迎えようとしている今、この一冊は、一読の価値あり。お薦めです。
●読み聞かせでウケる本
『マンホールからこんにちは』(いとうひろし、 徳間書店)
学校で子ども達に読むと、必ず大ウケするのがこの本です。
マンホールから出てくる思いがけない登場人物と、リズミカルでユーモア溢れる言葉の繰り返しが、その秘けつかな?
いとうひろしの本は、どれもとぼけた文体と絵が魅力的で、「おさるのまいにち」のシリーズも「ごきげんなすてご」のシリーズも、子ども達に大人気です。
いとうひろしの本を読み聞かせする時は、ひたすら淡々と読むこと!こちらもとぼけた気分で読むのがポイントです。
●ヤングアダルト的本棚 No1
『インストール』(綿矢りさ、河出書房新社)
『ルート225』(藤野千夜、理論社)
二月半ば、ももたろうホームページの掲示板に、ある質問がなげこまれた。「どうして子どもの本を書くのですか?(抜粋)」だ。書き手であるももたろうは大慌て。みんながそれぞれ心の奥をぎゅっとつかまれてような、ゆさぶられたようなおかしな気持ちになったみたい。わたしもそのひとり。
そこで盛り上がった掲示板を中二の娘に見せた。「どう、思う?」って気楽な感じに。そしたら娘の一言。
「お母さん、こんなマジに切り返して、たくさん書いて恥ずかしくないの?」どうやら、わたしの答え方が気に入らない様子。
「恥ずかしいけど、これ、本当のことだもの。うまく書けてるとは思わないけど、うそじゃないし……」
たじたじするわたしに、娘は、あきれたねって顔をしてさらに言ってのけた。
「こういう本当のことは、普通、口にださないんだよ。もっと、適当にかわせばよかったじゃない。掲示板なんかでアツクなっちゃって変なんじゃないの」
その口調に、一瞬目が点になるわたし。
でも、気をとりなおして、(そうだ、わたしは母親!)
「だけどさ。そうやってあんたたち、本当のこととかまじめなこととか避けてるから、うすっぺらな関係しかたもてないんじゃないの」と言ってみると、
「うすっぺらで結構。傷つくよりいい」と言い返された。
(今の子だね─)わたしは、妙に関心してしまい、言葉を忘れ、この話題はおしまいになった。
そこで、こんな風な「今」がたくさんつまっている作品、ふたつ。
『インストール』は、若干17歳の高校3年生が書いた作品。なにものにもなれないかもしれない自分を不安がり、会話の中の沈黙を嫌い、むきだしで不器用なまじめさを疎んじる主人公が、チャット嬢になり、ネットの中の架空の人となって遊ぶ。17才の女の子がこんなエッチ会話を平気で書くのかとわたしの母親の部分はついていけなかったが、作品としては、巧みに今の若者の不安感をうつしだし、斬新でかつおもしろい。もしかしたら家の子もこんなことしてるんじゃないのっと思わせるリアルさがあり、ネットというものの便利さや不気味さも語られている。
もうひとつの『ルート225』は不思議な作品。
わたしと弟のダイゴは、ある日、似ているのにちょっと違う世界に迷いこんでしまう。母親がいないし、亡くなったはずのクマノイさんが生きているその奇妙な世界で、とまどう姉弟の描き方が実にリアルで今っぽい。
姉である中二のわたしは、強がったり弟をからかったり冗談を言ったりして、どこか違う場所にいるという不安感をまぎらわそうとするのに対し、思春期前の弟は、まっすぐ生真面目に不思議を考える。そんな弟の態度を何度もからかい、わかんないとはぐらかし、姉は不安をごまかし、必死で平静さをよそおう。でも、ふたりとも心の底では、自分の過去の行為のせいでこんなことになってしまったんじゃないかと怯えていたりする。
予想をうらぎってくれたラストは、好き嫌いがわかれる所だろうけど、わたしは、さりげない幕切れに作者のうまさを感じた。
どちらの作品にも、傷つきやすく、それでいてしたたかな「今」がくっきりと描かれている。明るく軽いタッチの描写や会話の裏にすけてみえる、切なさと不安感が心に残った。
●私とファンタジーその2・『月夜と眼鏡』(小川未明、冨山房百科文庫) 堀切リエ
月夜と眼鏡・・・小川未明を語る
今回は「空想世界を育む」という視点で、私にとって大切な作品をひもときたいと思います。「ファンタジー世界を育む」でもよいと思ったのですが、やはりファンタジーという言葉の意味があいまいになってしまう恐れがあるので、空想としました。
第2回で小川未明とは、第1回『指輪物語』とまるでかみあわないではないか、と思われた方も最後まで読んでいただければ、どこがつながっているかわかっていただけると思います。
*書名のあとに入っている( )付の数字は、文末の参考図書を示しています。
*作品の題名は引用した本に沿っているので、全体として統一されていません。
*古い文献から引用した場合、旧漢字を新漢字に変えています。
注/上記は初版の文庫版で、今年出版された新版では、『旅の仲間』(1〜4)、『二つの塔』(5〜7)、 『王の帰還』(8〜9)という9冊本になりました。初版は単行本をそのまま縮小して作られたと思うのですが、 字も小さくてつくりもけっして上等ではありませんでした。新版は字も大きくなり読みやすくなっています。 また、初版の訳にもかかわったという田中明子氏がわかりにくい言葉や言葉の統一などを含めて全体に手を 入れています。ぱらぱらとめくってずいぶん変わってしまったなという印象を受けました。 ここで引用した文はすべて初版(瀬田貞二訳)からです。人名なども大きなところでは「サルーマン」 →「サルマン」と変わりました。以上について、くわしく知りたい方は、高橋誠さん がつくられた「赤龍館(指輪物語単語対照表)」をごらんになってください。