一事が万事


約束を守るのは社会の基本ルールである。研究者の社会でも、これは例外ではない。共同で研究をするのであれば、約束は守ること、出来ない約束はしないことが肝心である。

2005年7月15日(金曜日)、モンゴルのウランバートルからセレンゲ県シャーマルへ向けて出発する当日は、ズラさんとの約束で「午後1時30分にジープでオトゴンさんのアパートまで迎えに来る」という段取りになっていた。それに先立つ午後0時には「お昼ご飯を一緒に食べに行く」という約束をしていた。その日は、ちょっと遅めの午前8時過ぎに起床したのだが、それでも約束の時間までは、暇すぎるほどに暇であった。オトゴンさんも彼女の息子も居ない中、洗濯をしたり、シャワーを浴びたり、リュックサックのパッキングをしたりして時間を潰し、午前11時50分には準備万端でズラさんが来るのを待っていた(1)。

そのときのメモである。----来ないねえ(12:22)----腹、減った(13:30)----もう2時だ(14:01)----

誰もいないアパートで、しかも異国の地で、これほど心細いことはなかった。朝ご飯を食べていなかったので、お腹が空いて堪らず、段々と気力も失われて来ていた。私には、これほどの遅れが出るという認識はなく、ズラさんからは携帯電話の番号を教えてもらっていなかった。そのため、オトゴンさんのアパートに備え付けの電話はあっても、私からズラさんに電話をかけることは、事実上、不可能であった。とにかく、彼女からの連絡を待つしかなかったのである(2)。

午後2時35分、待望の電話が鳴った。中川雅博さん(近畿大学)からであった。「たった今、漸く全員、ジープに乗り込んだ。無事を祈る」とのこと......(おいおい、昼食は???)。午後2時40分、漸くズラさんが来た。彼女に「昨日の約束は何だったの?」と尋ねてみても「早く行きましょう」と急かすだけで、全く埒(らち)が明かなかった。彼女の口からは、遅くなったことに対する謝罪の言葉は、ついぞ聞かれなかった。理由(わけ)の分からないまま、とにかく携行するリュックサックをジープに積み込み、目的地のシャーマルへ向けて出発することになった(3)。

午後2時57分、ウランバートルの郊外でジープが停まった。どうも、ここにあるゴアンズ(いわゆる大衆食堂)で、遅い昼食を採るようであった。ジープの運転手を除いた8人のメンバーでゴアンズに入り、漸く空きっ腹を満たすことが出来た。それが終わるとジープに乗り、午後3時44分に再出発となった。ところが、出発して3分間も経たないうちに、またジープが停まってしまった。私には何の説明もないまま、ズラさん、テルビシさん、ジープの運転手の3名が降りて、どこかの建物に消えて行った。その間、17分間。途中でフルッレとベルゴンがモンゴルのアイスバーを買って来て、ジェスチャーで私に食べろと勧めてくれたのが、せめてもの救いであった(アイスバーは酸味のある乳製品で、アルル味らしいのだが、私には馬乳酒の味がした)。戻って来たズラさんに尋ねてみると、どうも通行許可証を取るために役所に寄っていたようであった。英語は通じないし、このメンバーで日本語が話せるのはズラさんだけなんだから、それならそうと、一言、断わってくれれば良いんだが......。

モンゴルでは道路をジープで走っていると、県境なのか何なのか、とにかく道路の分岐点を通る度に遮断器が付いた検問所のようなものがあり、そこでは通行税(300Tg)を徴収していた。午後7時25分、それまでの熱風が嘘のように収まり、風が涼しくなって来た。これで、ジープがオーバーヒートを起こして、ラジエーターを冷やすために沿道に停まるようなこともなくなった。午後9時7分、ダルハンという大きい街に入り、今度は「Bead Center」という英語の看板を掲げるゴアンズで夕食を採った。比較的、遅い時間帯ということもあり、ホーショルという揚げ餃子しか残っていなかった。ちょっと腹に溜まる、私にはヘビーな食べ物であった。それが終わるとジープに乗り、午後9時46分に再出発となった。午後10時10分を回った頃から、辺りが薄暗くなって来た。この時間帯から、ジープがヘッドライトを点け始めた。

午前0時27分、セレンゲ県シャーマルのキャンプ地に到着した。辺りは漆黒の闇に包まれ、たくさんの虫の羽音だけが、ぶんぶんと響いていた。それから午前1時30分まで掛かってテント5基を建てたのだが、モンゴルの学生は、暗い中でテントを張るのが非常に上手い。どうも彼らは夜目が抜群に利くらしく、私が「真っ暗で何も見えない」と言って手をこまねいているうちに、さっさとテントを張り終えるのであった。彼らが、これまでになく頼もしく思えた瞬間であった。こうして長かった一日が終わり、午前1時50分には就寝することが出来た。さて、明日は予備調査。夜中、調査地に着いたときは、周りの状況が把握できないのが普通である。朝、起きて「ここが、どういった場所なのか?」を知るのを楽しみに、眠りに就くとしよう。午前2時を回った頃から雨が降り出し、虫の羽音に取って代わった。ここでは、もう夢、うつつ......。

ズラさんの場合、一事が万事、この調子と思って良い。彼女のように、約束したことを守れない人や、いい加減な人と一緒に仕事をしなければならないときは、相手に対する許容度をかなり高めに設定する必要があるのかもしれない。私は 他人には寛容なほうだから、こういった人たちとも、なんとか上手く付き合って行くことが出来る。しかし、自分のことを棚に上げて他人を非難する人、しかも自分勝手な思い込みで他人を非難する人とは、上手く付き合って行く自信がない。幸いなことにズラさんには、そういった傲慢さがないので、別の意味で助かっている。

[脚注]
(1) オトゴンさんのアパートは、3LDKの間取りである。その日はオトゴンさんが「通訳の仕事で午前3時半に出かける」ということで、前日には、10歳になる息子を親類に預けていた。私が起床したとき、もうアパートには誰もいない状態で、本当に暇で仕様が無かった。また、オトゴンさんからは予備の鍵を預かっていて、玄関のドアを施錠した後は、その鍵をズラさんに渡す手筈になっていた。ズラさんも、オトゴンさんがいないことは当然、知っているはずであった。
(2) 私なんかは「こちらから連絡する手段がないのだから、遅れるなら遅れるで、ズラさんのほうから連絡して来るのが筋ではないのか?」と思ってしまうのだが、どうも彼女とは根本的に思考回路が異なっているようであった。ある事情通に言わせると「これは彼女自身の問題で、日本人だからとか、モンゴル人だからとかいった問題ではないんだ」という話であった。
(3) ジープには、テルビシ(モンゴル国立大学。以下、敬称略)、ズラ、フルッレ、タイワン、ムーギー、オンノン(以上、モンゴル教育大学)、ベルゴン(ズラの息子)の7名が乗っていて、それに私を加えた8名のメンバーであった。ジープの運転手を入れると、総勢9名である。7月17日から参加するラウガ(モンゴル国立大学)を入れて、現地には10名がいたことになる。


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