寛容と不寛容


断片的な書き方は、誤解を生むようである。

私は、基本的に他人には優しく、また相当に寛容でもある。どんな理不尽なことをされても、どんな嫌がらせを受けても、黙って耐え忍ぶタイプである。「そうしなければ、これまで生きて来られなかった」という事情もある。そのことを「羽角さんは優しいから......」と変に勘違いして、私の許容範囲、つまり寛容の閾値を超えてしまう輩がいる。他人との距離の取り方(他人との距離感)が、分からないのだと思う。

その人と知り合ってから、丸6年になる。誤解なきよう述べておくが、その人と友だち付き合いをしたことは一度もない。彼は現在(2004年の時点で)、新潟大学大学院自然科学研究科博士後期課程の工学系大学院生で、社会人枠入試での大学院進学である。また、彼は黙して語らないが、私より年齢が上であることは確実である。彼が新潟に来るまで、どこでどうやって暮らして来たのか知らないが、40代半ばと言えば、普通なら「分別のある年齢」でもある。だが、彼には「見えない障害」があるようで、だからこそ、他人とのトラブルが絶えないのだろう。彼は「思ったことをすぐ口に出すタイプ」と自己分析しているが、私の見立てでは「相手の気持ちを思い遣ることの出来ない、この障害の典型的な症状」と思われる。

その彼が「指導教官が論文(の投稿原稿)を直してくれないから、専門誌に投稿できないでいる。博士号を取得するのも遅れてしまう」と泣き言を言うから、私も可哀想に思って、ずっと面倒をみてあげていたのだが、どうもねえ......(1)。

普通は、博士後期課程の大学院生ともなれば、分からないことがあったら、自力で調べて解決するのが当たり前である。図書館で文献に当たってもいいし、現在だったらインターネットでも、ある程度は調べられるだろう。ところが彼は、そういった努力をせず、その問題に詳しいと思われる専門家をいきなり訪ねて行き、質問を繰り返すのである(彼は「努力をしている」と主張するかもしれないが......)。専門家に質問をすることが大学院生の特権で、質問をすれば何でも答えてもらえるとでも思い込んでいるかのようである(2)。

その彼が、私に質問をするときは「時と場所を選ばない」という難点こそあれ、私の了解を得るために「ちょっと、いいですか?」と、一応は断わっている。ところが、彼の質問は「ちょっと」で終わった「ためし」がなく、ひどいときは2時間にも3時間にも及んでしまう。その回数が2〜3週間に1回程度だったら、まだ私も許せたと思う。しかし彼は、こっちの都合などお構い無しに、ここ1〜2年は週に3〜4回、ひどいときは毎日のように、私のところに押し掛けていたのである(彼に関わった、その他大勢の人々は、せいぜい[全部の回数を合わせても]2〜3回程度の質問を受けていたに過ぎないだろう)。いつぞやは、私が元いた部屋で帰り支度をしているところに訪ねて来て、私が「今、帰ろうとしてたんだけど......」と言っているにもかかわらず、それから30分近く居座ったこともある(3)。

これが、私の許容範囲、寛容の閾値を超える第一の伏線であった。その次の伏線は、用もないのに幾度となく部屋を訪ねて来て、質問とは関係のない無駄話ばかり繰り返し、私の仕事の邪魔をしていたことである。同じような例として、必要があって何ヶ月ぶりかで行った大学生協の購買部で、いつも暇つぶしに来ている彼から声をかけられたとき、うかつにも中古の「iBook(G3)」を購入したことを彼に教え、さっそくの訪問を受けてしまったことがある。「この、くそ忙しいときに......」と思って、彼に「わざわざ見に来なくても、いいんじゃないの?」と、やんわりと帰るように促したのだが、いつものことながら彼には通じず、それから1時間以上も仕事の邪魔をされてしまったのである。

他にも、本線に至る伏線は多々あるが、第三の伏線としては、例のコーヒー事件を位置付けることも可能であろう。これらの伏線と次に示す第四の伏線は、私の中では、まだ寛容から不寛容へと移行するものではなかった。だが、それに続く本線が、私の琴線に触れるものであった(4)。

私は普通、夏と冬は日曜日にしか自動車を動かさない(最近は、土曜日にも自動車を動かすことにしている)。そのことに対して、私が「自分の場合、現在は余り自動車、必要ないみたいだねえ」と自虐気味に言うのなら、まだ話も分かる。でも、何の脈絡もなく、いきなり彼から「羽角さんは自動車、必要ないでしょ!!」と言われれば、内心むかつくものである。そのときは、平然とした風を装って「確かに、現在は余り使ってないけど、春と秋は白馬へ調査に行くし、手持ちのデータが吐けたら、また調査で全国を飛び回るだろうから、そのときのために自動車は必要だよね」と、大人の対応をしたことを覚えている。こういった心ない言葉が、彼には多い(5)。

私に対してだけ、そういった言動を採るのなら、私が彼の異常さを追求することはなかっただろう。ところが、私が現在いる部屋の、元の住人である生物学科の教授が、私のことを心配して部屋に訪ねて来てくれたのに対して、たまたま部屋にいた彼が「この部屋、本当に汚いですね。一体どういう使い方をすれば、こうなるんですか?」と言い放ったのである。これには、心底、参ってしまった(その教授の顔色が一瞬、変わったのを私は見逃さなかった)。確かに、私も「汚い」と思っていたし、だからこそ、部屋の拭き掃除を丹念に繰り返していたのだが、まさか面と向かって、そのことを口に出すとは思わなかった。その教授が帰った後、彼に「本人も汚いことは充分に承知しているんだから、そういうことは口に出すもんじゃないよ」と注意したのだが、どうも彼には「自分の言動が相手を傷付けている」という認識が、全くないようである。

これが、彼の言動に対する私の心情を、寛容から不寛容へと転換させる分岐点となった、決定的な出来事であった。

[脚注]
(1) 新潟大学の場合、工学系の研究室が、欧米の国際誌に英語の論文を載せることは滅多にない。従って「論文原稿の書き方や投稿の仕方、レフェリーへの対処の仕方も分からない」というのが現状である。彼の指導教官は、本質的な貢献は何もしていなくても、指導教官というだけで論文の共著者に名を連ねている。その一方で、彼の論文の投稿原稿を実質的に直し、国際誌に論文が受理されるためのノウハウを教えている私には、何の補償も、対価もない(ことを彼は当たり前だと思っているようである)。また、彼は工学系の大学院生とはいえ、専攻は歯科医療工学なので、動物の歯に造詣の深い私は、原稿の中身を改善する際にも、多大なる貢献が出来ているはずである。私は「他人の論文に、自分の名前を付けてもらいたい(いわゆる、ギフトオーサー)」とは思わないが「せめて、謝辞くらいは述べて欲しい」と思っている。でも、彼は、私への謝辞すらしていない。これは、どういうことだ?まさか「論文の原稿を、全部、自分ひとりで書いている」とでも、指導教官に思い込ませているんじゃないだろうなあ......(その後の経緯を見ると、やはり私の勘は当たっていたようである)。
(2) 小学校や中学校の授業中、教師に質問を繰り返して授業の進行を妨げる生徒が、クラスに一人や二人はいたはずである。その生徒の中には「自分が分からないこと、理解できないことは、いつ、どこで質問しても構わない」という意識があるので、授業中に何度も質問をするのは、その生徒にとっては「いいこと」である。その生徒には「他人の迷惑を顧みることなく、自分の都合だけで動くのは、よくない行為である」という認識が全くない。ところが、そういった人たちは「普通の人のような顔」をして、一般社会に紛れ込んでしまっている。それが「見えない障害」と言われる、所以(ゆえん)でもある。
(3) 彼には「ほどほど」というものがない。例えば、下宿の大家は、彼が用事で訪ねると「お茶でも......」と言って、以前は家に上げていたのだが、ここ何ヶ月かは玄関先で済ませるそうである。理由は「だって、◯◯さんを家に上げると、30分くらいで帰ってくれればいいのに、2時間も3時間もいるんだもの」だそうで、彼女も私と同じような被害に会っていたようである。こういった人間に、甘い顔を見せてはいけない。ちょっとでも気を許せば、すぐに付け込まれ、彼の居座りを許すことになる。彼からの被害に会わないための対策は「最初から彼を受け入れないこと(優しい言葉をかけないこと)」である。そう決めてから、彼が部屋を訪ねて来る度に「忙しいからダメだ」と言って断わっていたのだが、あるとき、いつもの「ちょっと、いいですか?」ではなく「一言だけ。本当に一言だけ」と言って、彼が部屋に入って来たのである。「今度は、そう来たか!!」と、おかしさをこらえながら「あなたの場合は、その『一言だけ』が、いけないんだよ」と言って、部屋から彼を追い出すことに成功した。この状況を理解したのかどうか知らないが、それ以来、彼が部屋に訪ねて来ることはなく、現在は平穏な日々が続いている。
(4) つい最近も、彼らしい、面白いエピソードがあったばかりである。彼が朝方、下宿の風呂に入ろうとしたら、下のほうが冷たかったので、入るのを諦めてシャワーを浴びたそうである。そのことで下宿の大家が文句を付けられ「冷たかったら、下のほうの水を抜いて、お湯を足せばいいのにね!!」と、私に愚痴をこぼしたことで、明らかになったエピソードである。大家の名誉のために補足すると、彼女は毎夕6時頃、風呂にお湯を張っている。スイッチひとつでお湯が沸き、蛇口をひねればお湯が出る仕組みである。但し、保温や追い焚きは出来ないので、下宿の住人が前の晩、誰も風呂に入らなければ、時間が経ったらお湯が冷めて、風呂の下のほうが冷たくなるのは当たり前である。そのことで、大家が文句を言われる筋合いはない。冷たかったら、大家が言うように、お湯を足せばいいだけの話である。そんな単純なことも分からないのか......。
(5) 余りにもレベルが低いので「これだけは私の胸の内に仕舞っておいて、誰にも言うまい」と思っていたことがあるのだが、ついでだから言ってしまおう。以下は、彼と私との会話である。

◯◯「今日、かいづやいち記念館に行って来たんですよ」
羽角「かいづやいち?なんだ、そりゃ」
◯◯「(小馬鹿にした口調で)えっ、かいづやいち、知りませんか?有名ですよ。羽角さんでも知らないことって、あるんですねえ」
羽角「いや、かいづやいちは知らないけど、会津八一(あいづやいち)なら知ってるよ」
◯◯「......」

どうも彼は「会津磐梯山」も「会津白虎隊」も知らないと見える。私の場合、相手が知らなくても、馬鹿にするような態度は決して取らないのだが、彼は、私とは全くの正反対である。それで自分のほうが間違っていたんじゃ、洒落(しゃれ)にもならないのにねえ......。


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