大鳥城趾と医王寺

                                    ▼福島市飯坂町平野字寺前45・飯坂町舘ノ山
                                    ▼福島駅から電車・バス医王寺前駅、下車7分

 明治初期まで板谷峠を通っていた米沢海道は、山形県令三島通庸(みちつね)の建設計画にもとづいて、栗子峠にトンネルを設け、1881(明治一四)年に完成しました。この年の明治天皇巡幸にちなんで、「万世大路(ばんせいたいろ)」と名付け、福島市も米沢市も市街への入り口は万世町の町名となっており、今日の国道13号の原型です。

 医王寺駅前から北東にのびる細道を約1kmほど進むと医王寺(真言宗)に至ります。瑠璃光山医王寺は、寺伝では826(天長三)年、空海の開基と伝えられ、信夫の庄司佐藤氏一族の菩提寺となっております。 

 山門を入ると一端に「笈(おい)も太刀もさつきにかざれ紙幟」の句碑があります。1689(元禄2)年芭蕉がおとづれ、源頼朝の奥州征伐に対戦した基治、義経に臣従し討死した基治の子継信・忠信兄弟のあとをしり、その武勇をたたえたものです。寺の宝物館には弁慶の笈(県重文・室町期)や下馬札、義経の太刀、佐藤兄弟の遺品と伝えられる宝物が数多く保存されています。

  境内の杉並木の歩道の奥には、佐藤基治が建立した薬師堂があり、その裏側に佐藤一族の墓所があります。基治・乙和夫妻の墓、屋島の合戦で義経にむけられた矢の盾となって没した継信、京都で義経の身代わりのなった忠信兄弟の墓、石造供養塔碑(県史跡)、家臣一八将の碑、継信・忠信の戦死を悲しんでつぼみのまま落下すると言う乙和ツバキなどをみることができます。中でも継信・忠信兄弟二基の大きな墓は、義経が平泉に下る途中手厚く供養したものと伝えられています。医王寺駅前北東約100mの台地の張り出し部に、佐藤氏の臣大越五郎兵衛の館跡が五郎兵衛館の地名とともに残っています。

 福島交通電車花水駅から西におおよそ1km歩き、飯坂トンネルをくぐり、そこから15分ほど上ると通称「館ノ山(たてのやま)」に到着しま す。そこは、平泉藤原氏の荘園であった信夫の庄の庄司であり郡司でもあった、佐藤基治の居城の大鳥城の本丸です。守護神として鶴を1羽埋めたことから大鳥城と呼ぶと伝えられます。築城時期は不明ですが、空堀・搦手掘・平場がよく残っています。『吾妻鏡』によると、1189(文治五)年7月8日一族とともに基治は石那坂の戦いに敗れ、その首は阿津加志山にさらされました(許されて大鳥城に戻ったとも伝えられています。)。

 また奥飯坂の天王寺には、寺の西山頂から発見された佐藤氏の施入とみられる承安元(1171)年銘の陶製経筒(国重文)が保管されています。これと同じ時期、同じ勧進者銘をもつ同じ経筒が桑折町平沢寺と須賀川市の米山寺(べさんじ) からも出土しており、佐藤氏の勢力が中通りにも及んでいたことが知られます。

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