東京帝国大学在職25年祝賀会に於ける祝辞             
加越能時報 第208号掲載記事 明治41年3月15日発行
櫻井教授と化学上の進歩 理科大学教授理学博士 松井直吉
  櫻井教授並びに御家族その他諸君、私は櫻井教授就職25年の祝典に当り記念の為め化学研究奨励資金を募集したる発起人を代表してここに一言を演ぶるを得ますのを大いに光栄とするのでございます。
  櫻井君は明治4・5年頃、同君が大学南校へ入学せられたる時より私の朋友として交際したる御方であります。同君は明治9年英国へ留学を命ぜられ同地にてロンドンのユニバシティ カレッジに入学せられ、かの有名なる化学者ウイリアムソンの薫陶を受け化学を研究せられましたが同氏指導の下に多価の水炭化化合物を含む所の金属化合物を発見せられました。即ちOH2 Hg I 2 及び CH2(HgI)2の如き式を有するものであります。その後帰朝せられてからこの研究を続けられて CH2CH 及びCH(HgI)2 の如きものを得られました。
 これらは当時のロンドンの化学会誌に出版になりました。

 この外櫻井君の学術上の研究の主なるものを申しますれば物質の溶液沸騰点よりその分子量を測定する法の改良であります。 この法については、最初ベックマンが一つの装置を案出しましたがこれには大きな欠点がありました。この法に於きましては通常液体の沸騰点を測定するのとは違いまして沸騰溶液の温度を精密に測定せねばなりません。      
 然るに液体は兎に角沸騰点以上に熱せらるる傾きがあります。これを避けるためにベックマンは白金の小片を沸騰瓶の底に熔かしつけこれによって熱を伝道せしめ規則正しく沸騰をなさしめて居ります。然しこれを熱するとき余程注意しても兎に角瓶の破れる傾向があります 櫻井君はこの欠点を補わんが為に別に溶剤の蒸気を発生して沸騰瓶を通過せしめ容易に規則正しく沸騰せしむることが得られました。その後ランズベルガーやラムスデンの改良がありましたが皆、これらには櫻井君の創意に係わる蒸気潜熱を利用しております。
 この如き次第なれば櫻井君の創意は最初ベックマンが案出したる方法と現今化学者間に一般に行われて居るものとの間に鎖の重要なる一環をなして居ると云うべきであります。

 次にはグリコールの構造式に関する論説であります。 櫻井君は従来の学説の誤謬<ゴビョウ=誤り=漢語林>を指摘してこの化合物の構造は全く環状をなし居ることを証明せられました。

 次にアミドスルフォン酸の電動力を研究は甚だ強くしてグリコールの如き有機物のみが環状の構造を有することを証明せられたのであります。 櫻井君の研究はまだこの外にもありますがこの位にしておきまして次に同君の教育上の功労に移ります。

 櫻井君は最初より理論化学の方に傾けて居られました。これについては物理学の素養が大いに助けとなったのであります。 明治15・6年の頃より東京大学に於いて熱化学の講義を開かれトムゼンやベルトローの研究を論ぜられました。その後も物理化学の大家ファントホフ、オストワルド、アレニウス、ネルンスト等の研究によりてこの学文が段々発達するに随い暫時同君の物理化学の講義も発展し又これを基礎として化学教育を施されましたれば同君の薫陶を受けて理科大学を卒業する者は充分、これ等の人々は卒業の後、多くは中学校、高等学校、高等師範学校等の教員となりますれば比較的他国に於いてよりも我国の学校に於いては進歩したる知識を授けて居ることと思います。

 現に先年文部省に於いて中学校の教科細目を編成したるとき櫻井君はその編成委員の一人となり
化学の部を担当せられまして物理化学の主なる思想をその基礎とせられましたその当時はこれには異論者もあった様でありましたけれどもその後の成功は疑いもなきことでございます。

 又高等教育機関の法に眼を転じて見ますれば櫻井君の薫陶を受けた方々が要所々々に位置を占めて居られます。一・二の例を挙げれば東京の理科大学には池田教授あり、京都の理工科大学には大幸教授あり、その他多数の方々が種々なる研究をなされて化学界に貢献せられておいでになります。

 この如くでありますから櫻井君の教育上の功労は実に偉大なるものと思います。 この功労を思って櫻井君の朋友、化学界にあるもの、又同君の薫陶を受けたるもの等相謀り同君教授就任25年を機会として常に同君の主張せられて居る化学の研究を奨励せんが為めその資金を募集したる所、これに賛同せられたる方はその数255名にして出金を約せられたる高は約2,700円の多きに達しました。 この資金は東京化学会に託して永くその利子を以って化学奨励の用に供せんとする訳であります。これを諸君に報告するに当りかくの如く多数の諸君がこの学問を賛成せられたるは発起人一同の大いに満足し且つ謝する所でございますがこれは又櫻井君の徳の然らしむる所と存じます。 
祝辞1
祝辞3 祝辞4 祝辞5 祝辞6 櫻井錠二
答辞
記念写真