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活動報告 (Action Report) 会の設立経緯と性格 2001年(平成12年度)夏静岡精華短期大学オープンカレッジで行った加藤代表幹事の公開講座「やいづ平和学」(T)に見崎吉男さんが参加したことから、参加者の一部から運動を開始したらという声があがり、翌年の「やいづ平和学」(U)の参加グループが中心になって市民運動の準備が始まりました。 2003年2月4日から『静岡新聞』の木村・坂本両記者による「第五福竜丸・心の航跡」が新聞に連載され、大きな反響があり、その影響を受けた市民が参加。二つの流れが合流して「ビキニ被災50周年を考える懇談会」が発足しました。そして4月から6月まで結成準備会が静岡福祉情報短期大学(現在は静岡福祉大学)・加藤研究室でもたれ、会の性格、参加資格、活動内容などを議論し、6月23日に正式に立ち上げました。 会の性格と活動は、1.特定のイデオロギーや反イデオロギーを背景にした政治活動と平和運動とは距離を置いた活動をする。2.主なる活動は、「ビキニ事件の事実関係の確認しその記録をとり」最終的には出版する。そのため手記、感想、詩、歌詞、等を公募する。3.啓蒙活動としてのイベントの計画、著名人の講演等を行う、4.ホームページの開設して他の団体とのリンクする、その他、です。 この間の活動総括報告(2003〜2007年) 詳しくは記録集の本に書かれていますが、簡単にこの間の主な活動を列挙しておきます。 2003年6月26日、焼津市文化センターで「ビキニ事件半世紀 第五福竜丸」として元漁労長の見崎吉男さんが講演しました。最初とあって盛況でした。見崎さんの講演は9月にも「ビキニ事件の原体験」として焼津市福祉会館(ウエルネス焼津)にも行いました。8月には初代事務局長の塚本三男さん(2006年12月死去)の講演「第五福竜丸事件を語る」がありました。放射能検査の体験とカザフスタンでの活動報告でした。この年の11月メンバー3人が長崎で開催された「第2回核兵器廃絶地球市民会議」に出席し、その結果が幹事会で報告されました。 2004年は、ビキニ事件50年の年。メディアの取材が沢山ありました。1月から3月まで「私とビキニ事件」として市民への感想文、回想記、写真、絵画などの募集を貸しし、関係者のインタビューを始めました。2月には焼津駅で「肝臓病・子育てよろず相談伊東クリニック」の伊東先生から「C型肝炎から肝臓がんに至る肝臓病」についてお話を聞きました。ビキニ事件で亡くなった多くの乗組員は輸血によるC型肝炎が直接の死因です。3.1はビキニ事件50年の集会、皆で個人参加しました。 メンバーの小畑幸治さんが仕掛けた「菜の花スマイル作戦」が春から始動し、4月の末に無事完成して、高草山に登ってスマイルマークを見ました。またこの年4月に焼津市の「港まつり」ではフリーマーケットを開催(いまはない4号売り場で)し、そこで、カザフスタン核被災写真展も開きました。6月には「年譜問題」で、焼津市長に修正要望書を手渡したりしました。 この年の6.30集会は、早朝の豪雨でお流れとなり8月2日に開かれ、それでも市民1300人が参加しました。 8月末に、これも今はない焼津旧港で、港でみる24時間限りのモダン・アート展「Bikini Means・いのちの黙示録」を開催、同時に文化センターでゴジラ映画祭(ゴジラ第1作目)を開きました。港では、魚市BASHなどで大いに盛り上がりました。 2005年は、3月26日にウエルシップ焼津で第1回の講演・シンポジュウム「焼津流 平和の作り方」を開催しました。講師は元長崎大学学長で「平和7人委員会」の土山秀夫さん。このシンポには見崎さん、秋山さん、塚本さんが参加。6月の第2回総会では静岡市井川小学校教諭(当時)の岩崎幸代さんが「マーシャル人の暮らし」についてスライドを使ってお話してくださいました。岩崎さんはマーシャル諸島で暮らした方です。7月には見崎吉男さんへのロング・インタビュー「生立ちから現在まで」を行いました。7月末には、旧港で、昨年同様「モダン・アート展」とゴジラ映画祭を夜通し行いました。 9月の祭り『オータムフェスト in やいづ」では「ゴジラ・ブース」(この足跡は何だ?)を出しました。11月にはアトレ焼津で宮崎康代さんへのインタビューを行いました。宮崎さんは会のメンバーで、ビキニ事件当時奔走した宮崎助役の奥様で、当時焼津に殺到したメディア関係者と対応した方です。12月からは旧港の取り壊しに反対し、保存して活用しようという「旧港保存活用運動」に協力することになりました。 2006年1月に旧港保存活用のための署名が1万人を超えました。同月、大井川町の大場悦郎さんのお話「ビキニ事件と平和運動の原点」を聞きました。ビキニ事件当時、焼津の中学教師として署名運動を始めた方です。8月末に、旧港で「モダン・アート展」とゴジラ映画祭を前年同様に開催しました。9月には焼津市の祭り「オータム・フェスト」で、この頃から騒がれ始めた岡本太郎壁画「明日の神話」を焼津に誘致しようという声が強まり、会の活動に一つに加えることにし、初めてマスコミに対応して、署名活動を行いました。 11月末から旧港8号売り場「やいづKama VOX」で旧港保存活用をめざすライブ活動が月1回の予定で始まりました。翌年の夏まで続きました。11月に焼津にある静岡福祉大学の「静福祭」で近藤和船研究所(近藤友一郎さん主宰、2008年2月死去)が製作した「第五福竜丸」(レプリカ)を展示しました。この日は、地域シンポジュームも開き、焼津市の町おこし運動と平和が連動する方向が出されてきました。岡本太郎「明日の神話」についての署名活動も行われました。11月末には、長崎の「地球市民集会」(第2回)に2人が参加しました。12月7日、前事務局長の塚本三男さんが亡くなりました。 2007年。1月末に焼津商工会議所女性会の主宰で代表の加藤が誘致の意味について語りました。以後、この問題が、大きな課題になりましたが、行政の協力は最後まで得られませんでした。この頃は、市会議員選挙などで大忙し。2月に焼津公民館で広島被爆者の方々と見崎さんを交えた交流会を持ちました。そして漫画家のごとう和さんと出会うことになりました。4月には長崎市長の伊藤一長さんが暴漢に襲われて殺害、会として弔電を打ちました。ショックな事件でした。6月には、太平洋を横断してきたハワイのポリネシア伝統帆船(カヌー)ホクレア号の焼津寄航のため各団体と歓迎の準備をしましたが、8日当日嵐で接岸できませんでした。その後、クルーの3人が焼津を訪問し、アヤナイで見崎吉男さんやメンバーと会談しました。 8月はじめ、会のメンバーは岡本太郎財団理事長を訪ねてお話を聞き、東京都の美術館で展示している「明日の神話」をみてきました。8月末には旧港で「モダン・アート展」を様々な催しと一緒に行いました。旧港の最期が近づいていて大いに盛り上がりました。9月に会の記録集『焼津流平和の作り方』がやっと出版されました。 11月11日の静岡福祉大学「静福祭」では、会が中心になってシンポジューム「いのち いま伝えたいこと」をテーマに開催しました(作家・映像プロジューサーの高須さん、漫画家のごとうさん、それに見崎さん参加)。同時に岡本太郎「明日の神話」を誘致する実行委員会を立ち上げました。しかし、その直後、この壁画は、東京(渋谷区)、大阪(吹田市)、広島市を候補とするという報道があり、作戦変更を余儀なくされました。その後、あちこちのメディアからの取材がありました。人口12万の焼津市では、ゲリラ活動しかできません。年末から旧港の取り壊しが始まりました。 |