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Q&A-1

「ビキニ事件」を理解するために

「ビキニ事件」(1954年)

 戦後の冷戦期にアメリカ合衆国、旧ソ連、イギリス、など核兵器の開発を進めるため競争していた時期に起こった事件。核競争には後になってフランスと中国が加わった。

 アメリカは1954年(昭和29年)3月1日、太平洋のマーシャル諸島(現在はマーシャル諸島共和国)のビキニ環礁で史上最大の水爆実験を行った。この爆弾はこの時は秘密にされていたが、「ブラボー」という名の水素爆弾で、広島に投下された原爆の1000倍の強力な破壊力をもつものであることが後で分かった。その結果、公海上にいた第五福竜丸やマーシャル諸島の住民たち、アメリカの観測兵らが被曝した。国はこの年の年末までに放射能に汚染された魚を廃棄した日本漁船の被災船数は856隻と発表したが、これらの船の乗組員の汚染状態については不明のままになっている。
 大量の放射能によって太平洋の広い海域が汚染され、日本や太平洋諸国の漁業は大きな打撃を受け大きな損害を被った。しかし、アメリカは実その後も実験を続け、海洋汚染の範囲は拡大した。
 第五福竜丸の乗組員23名全員は、被曝して急性放射能症にかかったが、2週間後の3月14日に母港焼津に帰港。乗組員が持ち帰った爆発の灰(「死の灰」と呼ばれた)を科学者が分析した結果、新型の水爆と分かり、アメリカの秘密兵器と核兵器開発の構造を暴露する結果となった。乗組員全員は東京で入院して治療に当たったが、9月23日に最年長だった無線長の久保山愛吉さんが死去して国中に衝撃を与えた。その後、2003年の現在まで乗組員12名が死亡している。
 当初は第五福竜丸事件といわれたが、この船だけが中心となった事件だけでなく、日本ばかりか全世界に波紋を広げ、後に「ビキニ事件」と呼ばれるようになった。
この事件は、漁船の被曝や漁業関係者の甚大な損害をもたらしたが、一方で、この事件をきっかけに反核・平和運動が全国に、そして全世界へと拡大し、「原水爆禁止世界大会」開催のきっかけとなった。事件は反核・平和運動の原点の位置にある。
 ビキニ事件は2004年3月1日で50周年を迎える。


第五福竜丸

1947年4月、和歌山県古座町、古座造船所でカツオ漁船「第七事代丸」として建造され進水。1951年静岡県清水市の金指造船所でマグロ漁船に改造され、1953年焼津市の西川角市氏(故人)に売却されて、船名も「第五福竜丸」となる。1951年1月22日4回目(5回目との説もある)の遠洋出漁で焼津港を出港。3月1日ビキニ環礁で被災。3月14日焼津帰港。国中が大騒ぎする中で5月17日文部省が買い上げ、8月23日東京湾に曳航される。10月3日東京水産大学に繋留。1956年三重県で改造され東京水産大学練習船「はやぶさ丸」となる(その結果、骨格を残すだけになった)。その後、1967年廃船、東京都のゴミ捨て場「夢の島」に捨てられる。エンジンは解体業者から払い下げられて第三千代川丸のエンジンとなったが、69年7月台風のため和歌山県御浜沖で座礁、船はバラバラになりエンジンは水中に没した。1968年以降、東京都で保存運動が起こり、1970年船名を「第五福竜丸」に戻す。1976年6月「夢の島」に東京都立第五福竜丸展示館が設立され、館内で保存される。
 エンジンは、その後1999年、海中から引き上げられ、東京に移送され、現在展示館の外に展示されている。

(船体データ)

 船形:重構造木造帆船・遠洋漁船
 総トン数:140.86トン
 全長:約28.56メートル
 幅:約5.91メートル
 主機関:6シリンダーディーゼルエンジン、250馬力
 速力:7ノット


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