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第39回 いわゆる”工房根付”の考えかた
平成18年12月31日



 根付を鑑賞するときには、その根付師、すなわち、“誰がこれを作ったのか”ということに興味が注がれます。その「根付師」をイメージする場合、ある一人の特定の人物を想像すると思いますが、実際の製作風景はどうだったのでしょうか。今回は、なかなかイメージをしにくい、いわゆる工房で製作された根付のことを考えてみたいと思います。




1.根付師には二つのタイプがある


 根付師の種々の記録を眺めると、製作工程の一から十までを全て独りでこなしてしまうタイプ(「単独型根付師」)と、弟子や仲間、下職たちを上手に使いながら、分業体制で根付を製作するタイプ(「工房型根付師」)の二つのタイプに根付師は分けられるようです。(※1)

 単独型の根付師は、江戸時代に大勢いたでしょうし、現代根付師でいえば、中村雅俊氏や齋藤美州氏らが該当します。幕末明治期の東京には、弟子を持たない根付師として加藤正之や立齋らが記録されています。もともと、根付は、絵師や仏師、蒔絵師、面師らが余技(副業)として作り始めたのが起源だと言われています。これらの者が根付を製作するときは、大々的な分業体制でではなく、独りでこぢんまりと製作していたことは容易に想像できます。

 一方、工房型の根付師は、江戸時代は友忠、岡友、吉長、舟月らが該当し、幕末明治期では、山口友親、法實、石川光明らが該当します。装身具としての煙草入れや印籠に付ける根付の需要が相当あったことを考えると、江戸時代には、工房においても根付が大量生産されていたと想像できます。大半の現代根付師がコツコツと単独型で製作している当世では、なかなかそのような工房の風景は想像できません。(※2)

 工房での弟子の数に関しては、明治12年(1879年)12月に出版された明治政府の「東京名工鑑」の記録が参考になります。これは、美術工芸分野が輸出産業として期待されるなか、輸出振興政策のための基礎データとして、名工の実態状況の把握を目的に実施されました。根付師に関しては、弊著「東京名工鑑」には計52名が掲載され、そのうち弟子を持つと記録された者は34名が該当します。つまり、全体の6割以上の根付師が弟子を抱えていたことになります。

 その34名の根付師は、平均すると3.5名の弟子をそれぞれ抱えていました。前述の山口友親、法實、石川光明は、平均より多くの弟子を抱えていました。最多の弟子数は、11名の音川安親(竹陽齋友親の弟子、主に人物丸彫、置物を製造)や10名の江柳齋(鵜澤春月、山田潮月の弟子、駒田春之氏の師)です。浅草派で有名な谷齋と蓮斎は、それぞれ2名の弟子がいました。また、「東京名工鑑」掲載の根付師のうち、自身の修行期間が記録されている者(11名)について、彼らが修行した平均期間は、約9年間であることが分かっています。江戸時代や明治時代の一般的な奉公の年期がおおよそ8〜10年間であることと一致しています。


中村雅俊【単独型根付師】 親子猪 4.8cm



2.「工房での分業制」で製作された根付がある


 工房に弟子がいるということは、親方(根付師)に奉公しながら、一人前として自分の作品を作らせてもらえるようになるまでは、弟子や門弟、年季奉公としての助工、職工、傭工といった関係で、雑務や補助的な仕事をしながら修業を積み、技を習得していました。

 具体的には、まず部屋の掃除に始まり、ヤスリや彫刻刀の手入れをさせていたことでしょう。最初は、象牙の皮を剥いで、材料の大まかなカッティングを任せ、中堅になると、細かい衣装模様の彫刻や動物の毛彫り、紐通し穴を開けることをさせていたかもしれません。とりたてて手先が器用な弟子ならば、自分の小品を作らせるかたわら、小さな象眼を目玉に入れるような細かい細工を専任させていたかもしれません。ちなみに、中村雅俊氏は、父・空哉から初めて与えられた仕事は、工具の手入れや材料の準備、父から指定されたサイズの材料の切り出しだったと回想しています。

 また、意外に思うかも知れませんが、根付の製作において、仕上げの磨きの作業は、時間と労力を要するもので、嫌われる単純作業です。特に象牙根付の場合は、表面を何度も丁寧に砥草(とくさ)で磨かないと染めムラになり、装身具として売り物になりません。中村雅俊氏は「一つの根付を作るのに12時間も耐えながら磨きをする。磨きは長いプロセスであり、忍耐が必要だ。」と述べています。

 明治時代に置物や名刺入れ等の作品を製作した櫻井法一は、明鶏齋法實に門弟として10年間修行したことが記録されています。また、象牙作品で有名な東玉齋友政は8年間、山口友親のもとで修行をしました。法一や友政のこの長い修行期間中は、師匠に代わって単純作業や作品の磨きのような作業を行っていたことが想像できます。

 以上のような、単純作業や根気と時間を要する作業は、親方が弟子を指導・監督しつつ、相当程度を任せていたと考えられます。つまり、工房において弟子を抱えているということは、程度の差こそあれ、親方たる根付師のもと、分業制で製作が行われていたことになります。(※3)



3.さらに外部の職人とも分業していた


 工房内での分業制のことを書きましたが、職人の世界では、独立した専門的な職人が各工程をそれぞれ請け負うことが多く、工房の外には、助工や下職(したしょく)という専門的な職人たちがいました。(※4)

 この「下職」とは、部分的な工程を専門的に請け負う職人のことを指します。材料の大まかな裁断や染色、仕上げの磨きなどの作業を外部の職人に請け負わせるもので、現在でも「下仕事」という言葉が使われています。例えば、建築の世界では、大工以外の塗装、左官、内装、配管、タタミ、電気工事といった職人のことを”下職”と現在でも呼称しているようです。

 年配の根付師の方に昔のお話を伺うと、材料を職人に供給する象牙商や根付を納める問屋、荒突きだけを専門にこなす職人、仕上げのみを専門的に引き受ける職人たちが以前には存在したことがわかります。また、例えば、『装劍奇賞』に掲載されている柳左(りゅうさ)は、江戸で「御挽物師」をしていたと記録されています。挽物(ひきもの)とは、ロクロの回転を使用して木材や象牙の固まりから、お皿やお盆、茶蓋などを加工することです。饅頭型の材料の中をくりぬいた細工は、“柳左根付”として有名ですが、柳左自身は、もともとはその饅頭の原型となる土台作りの職人だったわけです。



4.工房での師匠の役割は何か(工房経営の側面)


 それでは、以上のような工房での分業体制において、師匠たる根付師の領分は何だったのでしょうか。友忠、岡友、吉長、友親、法實、石川光明らは何をしていたのでしょうか。また、弟子や下職との分担は、どのように考えればよいのでしょうか。


 まずは工房の経営の面から考えてみます。

 面白いことに、天明改元年(1781年)に稲葉新右衛門によって出版された『装劍奇賞』には、”和泉屋(友忠)”、”田原屋(傳兵衛)”、”廣葉軒(吉長)”、”豊島屋(伊兵衛)”のように根付師の屋号が記録されています。屋号を持つということは、商人として看板やのれんを掲げることですから、分業制で大規模の根付の製作・販売の商売をしていたことを示しています。

 事実、友忠には、作品の特徴の関連性などから、岡友、岡隹、岡言、岡信、岡丈、友一らの仲間又は弟子がいたことが分かっています。また、田原屋傳兵衛の弟子として我楽利助がいたことが記録されており、京都の吉長は、京都スクールの三大開祖の一人として吉友、正守、正吉、吉正、吉政、吉光ら多数の弟子を抱えていたことが分かっています。友忠らが規模の大きな商売をしていたことは、このように、実際に弟子を多く抱えていたことからも裏付けられます。

 ちなみに、和泉屋を屋号に持つ友忠の本名は七有衛門でした。となると、和泉屋という工房で製作された「友忠」の根付は、「七有衛門」本人の手製としてというよりは、むしろ、工房による「友忠」ブランドとしてのもの、と捉えるのが適切です。友忠は、「装劍奇賞(そうけんきしょう)」において、同時に「印籠師」としても掲載されていますので、根付や印籠その他の提げもの類を製作・販売する商売を経営していたことが分かります。(※5)

 以上を踏まえると、まず、師匠の役割としては、当然のことながら、工房を経営する商人ということになります。具体的には、客や袋物屋などからの注文を受け付けること、良い材料を見分けて調達すること、図案を決めること、工房の経理をすること、同業組合とのお付き合いなどが考えられます。また、腹を空かせた弟子には、朝・昼・晩の三度の食事とお三時を与えなければなりませんし、弟子を指導して作品の品質を維持することも必要だったでしょう。

 明治時代の名工・鈴木東谷も、煙草具嚢物商を営みながら根付彫刻の勉強を始めました。また、明治の牙彫商兼貿易商の金田兼次郎は、自らも象牙彫刻を手がけていました。士農工商の身分制度において、職人(工)だけでなく、商人としての顔を併せ持つ根付師は、江戸時代に大勢いたと思われます。


山口友親【工房型根付師】 山伏(19世紀) 3.9cm




5.工房での師匠の役割は何か(根付製作の側面)


 次に、根付製作の工程に着目してみます。

 まず、根付製作の工程をいくつかのプロセスに分解してみます。中村雅俊氏が自身のプロセスとして説明しているのは次のとおりです。これは、宮澤良舟氏が「根付 たくみとしゃれ」で、齋藤美洲氏が「根付彫刻のすすめ」で説明している根付製作の工程とほぼ一致していますので、基本的には、根付の製作プロセスはこのとおりだと定義できます。


【根付の製作工程】
生地どり: 大きな材料から根付の大きさに切り出す。
荒突き(荒削り):  大まかな形を彫り出す。
削り:  彫り上がりまで。紐通し穴もここで彫る。紙ヤスリを全体にかけ、次の段階に備える。
模様彫り:  毛髪、動物の毛、着物の柄などを彫る。
磨き:  いぼた蝋を布に付けて磨く。時には指に蝋をつけてこすることもある。
色つけ



 ここで、一つの作品を大規模な分業体制において製作すると仮定した場合、弟子や外部の職人らが行うことができる工程は、次のようなものになると定義できます。


【弟子や外部職人が行うことができる工程】

準備作業の工程
道具を手入れすること。材料を調達すること。材料の皮を剥ぐこと。大きな材料から適当な大きさの固まりをノコギリで切り出すこと。饅頭根付や象牙製煙管筒の場合は、挽物師が基本的な形に成形すること。

単純作業の工程
時間をかけて忍耐強く磨くこと。染色工程での火の見張り番をすること。青海波文や格子文のように細かい彫刻をコツコツと施すこと(煙管筒の彫刻によく見られる)。その他の時間と労力を要する割には、単純な作業であるもの。創造的な作業ではないもの。

専門技能の工程
特殊な象眼を入れること、細かい彫刻模様を入れることなど器用な作業を行うこと。染色、象眼用の金属加工など。製作工程の一部分ではあるが高度な技能を要し、親方から伝習されたもの。手間賃を支払って下職に外注できるもの。


 工房において親方が自ら根付製作の全てを行うのは、経済的に非合理的で、まるで企業の社長が生産ラインに立って作業をしているようなものです。可能な限り弟子達に作業を委任して、師匠自ら行うのは、製作工程の一部であったと考えることが適当であると思われます。

 つまり、師匠たる「根付師」の領分は、根付製作の「製作工程(全体)」から「弟子や下職が行うことができる工程」を抜いた残りの工程ということになります。根付師が自ら関わらなければ、その作品が完成しないような、根付製作の創造的、かつ、本質的な工程になります。(※6)

 具体的には、まず、「荒突き」から「削り」までの工程が該当すると思われます。この工程は、技術的にも難しく、根付師が描いた下絵をもとに根付のデザイン(図案)を創造する過程です。弟子に任せても支障のない模様彫りや色つけ、磨きは師匠がしなくても済みますが、クリエイティブな作業は、やはり根付師が関与しなければならないと思われます。(※7)(※8)

 なお、根付師によっては、下絵は絵師が描いたり、顧客から持ち込まれたり、絵手本を参考に図案を起こしていた場合があります。もし、下絵があれば、この工程すら親方が関与しなくても済むかもしれません。(※9)

 また、削り(彫刻)の一部も根付師本人が行っていたと思われます。例えば、彫刻において人間の顔を彫るのは、最も難しく、彫刻家の個性が如術に表れる部分と言われます。動物根付は得意なのに、人物根付は難しくて彫刻できないという現代根付師さえいます。人物根付を製作する工房では、顔の部分は根付師自ら彫刻していたことが考えられます。


 以上をまとめると、工房の分業体制での根付師の役割は、商人や経営者としての『工房経営』、及び荒突きや顔の彫刻など根付製作の『創造的、かつ、本質的な工程の関与』ということになります。このように、工房を経営していた根付師は、我々が普段想像する根付師の姿とは異なり、ある意味では従事した作業は限定的であり、また、ある意味では幅の広い仕事をしていました。

 このような姿が描けると、色々なことが分かってきます。



6.根付師の本人性の追求について


 根付のコレクションに際して、工房で製作された根付に関して、根付師の完璧な「本人性」を夢中で追求するのは、あまり現実的ではない可能性があります。全て根付師本人が製作したケースもあったでしょうが、程度の多少はあるにしても、弟子の手が何らかの形で加わっていると考えられるのが普通です。

 例えば、根付をルーペでマジマジと観察しながら、彫刻の細工や毛彫りの細かさに感心する場合があります。私も実際このような楽しみ方をしていますし、このような楽しみ方が否定されるものではありません。しかし、その細工や仕上げは、根付師本人によるものではなく、実は弟子の作業であった可能性があります。

 となると、工房において根付師が発揮した能力は、『工房経営』及び『創造的、かつ、本質的な工程の関与』だとすれば、評価してあげるべき対象は、独創的な図案の考案や監督者としての根付製作、経営者として良い品質の根付を安定的に製作・販売し、多くの優れた弟子を育てた功績、ということになるかもしれません。(※10)

 また、本歌根付には、根付師本人が製作して自ら彫銘する場合のほか、根付師の監督下で弟子が製作して師匠の名前で彫銘させた場合も含まれます。また、弟子の独立開業後、のれん分けのように弟子にその屋号を名乗らせて、弟子が師匠銘の彫銘をしていた可能性もあります。コレクターやディーラーの一部には、彫銘の字体をみて本人性を確認しようとすることがありますが、弟子が彫銘を行った作品について、後世に贋作の烙印を誤って押してしまうおそれがあります。

 以上を踏まえると、工房による根付に関しては、ある屋号や根付師銘のもとでの一ブランドとして、作品をおおらかに捉えてあげる方が、現実的な見方であると思われます。友忠ブランド、岡友ブランド、吉長ブランド、舟月ブランド、友親ブランド、法實ブランドというくくり方ですね。いずれのブランドも、当世の根付コレクターの間では、素晴らしい評価を獲得しているものばかりです。また、彫銘以前に、なによりも作品そのものを評価してあげる姿勢が重要だと思われます。

 更に言えば、どれが本人の作品でどれが弟子の作品であるかについて、必死に分類しようとするのは、いかがなものでしょう。現在ではほとんど実証が不可能な師匠と弟子の仕分けは、空想世界です。結論にたどり着かない真贋論争をひきおこし、本歌をむやみに贋作と否定してしまう弊害があります。



7.多産された工房の根付


 工房での根付製作は、必然的に多産となります。分業で製作するのですから当然です。多くの弟子を抱える場合は、商売としてそれなりの売り上げを計上しなければなりませんし、屋号をもって看板を掲げる以上は、こじんまりとした職人集団の作業場だけでなく、手広い商いをすることとなります。

 多産ということは、確率論で考えても、後世において、数十や数百という単位で多数の作品が残されることを意味します。単独型の根付師と比較すると、より多くの作品が現存することになります。工房の根付において本歌根付がわずか数点しか現存しない、ということは、何か異常な事情がない限りありえないのではないでしょうか。(※11)

 現存する多数の友忠や岡友の根付の真贋について、一部から疑問が多々聞かれます。作風や技術からみて箸にも棒にもかからないような、贋作だと容易に判断できるものは別として、江戸時代当時の象牙の供給事情や彫銘の字体鑑別といったことをもって、十把一絡げに真贋を判定しようとするのはいかがなものでしょう。

 根付教室に通い実感しましたが、根付製作には、創造的な図案の考案、高度な彫刻技術、秘密の染色技術、投じる手間暇が総体として必要です。全く縁もゆかりもない、技術の伝承から断絶した後世の贋作者が無から全てを考案して、オリジナルに迫ることは困難です。たとえ真似をすることはできても、基準となる複数の本歌作品と実物を並べてみれば、違いは一目瞭然です。

 国内外のカタログに掲載されるようなクラスの友忠や岡友の作品のなかには、図案や形のプロポーション、技術の種類やレベル、仕上げの深さなどにおいて、十分に納得できる類似性があり、作品の品質が一定以上と見受けられる複数の「作品の群 (group)」があります。用いた技術や要した手間暇に関して、贋作者が一定の「閾値(しきいち)」を超える同じものを持ち合わせていなければ、そのようなレベルの贋作はとても困難のように思えます。とすれば、工房において製作された本歌根付が、今も相当数が現存している、と言えるのではないかと思います。(※12)

 単独型の根付師と工房型の根付師について、その製作の方法や製作数の違いなどについてさらに研究を進めれば、以上の点についてさらに深い検討ができるのではないかと思われます。



(おわり)





※1
 本コラムでは、親方の下で弟子が指導を受け、同じ作業場で製作に励む形態を「工房」と便宜的に表現しました。意味的には、流派や一門とほぼ同義です。

※2
 友親の弟子としては、友親(二代)、加藤友利、音川安親、鈴木信親、友之、友高らが、法實の弟子としては、桜井法一、大内実民、斎藤孝実、石岡翁斎らが、石川光明の弟子としては、森野光林、佐藤光寿、松本光貞、新島光保、朝日明堂、三浦光風、志浦光広、小堀光浦らが記録されています。また、明治時代の彫刻家で帝室技芸員だった竹内久一(1857〜1916)によると、山口友親には20名以上の門下生が居た、と証言しています。(竹内久一「錦巷雑綴」明治31年)

※3
 工房の分業体制を示す記録として、明治初期の1888年に発行されたHARPER’S MAGAZINE(1850年から米国で発行され現在でも発行されている。)が面白いです。その記事では、Dr. W. E. Griffisという人が当時の象牙細工をレポートして、挿絵に工房の様子が描かれています。そこでは5人の職人がおのおのの作業をしています。

 一番若いと思われる小僧(左下)は象牙から固まりのブロックをノコギリで切り出しています。別の小僧(下段中)は、布のようなものを手に持ち象牙を磨いています。中堅の職人(右下)は小さな彫刻の部品のようなものを作っていて、部屋の上座にいる年配者(2名)は眼鏡をかけながら、細工の工程を行っているようです。完成した製品は台の上(右上)に並べられています。花立て、鷲の置物などが見えます。
HARPER’S MAGAZINEより(1888年)

 さらに相馬邦之介著の『象牙彫刻法』(明治23年)には象牙彫刻工房の風景の挿絵が描かれています。象牙彫刻の製作工程として順番に、のこぎりを用いる材料を大まかに切り落とす工程、ノミを用いて粗彫りをする工程、小刀を使用する工程、磨く工程、仕上げの着色をする工程が説明されている。この絵のなかで、のこぎりを用いる工程、ノミを用いて粗彫りをする工程及び磨く工程は、若い者が担当。小刀を用いる工程と着色する工程は、年配の職人が担当していることが分かります。一番若い子供が磨きを担当しているのが興味深いです。
相馬邦之介著の『象牙彫刻法』(明治23年)より

※4 分業体制を示す資料等

    江戸時代の各種の職業を紹介した『人倫訓蒙図集』(元禄3年(1690年)刊行)においては、様々な職業の職人が、分業体制で仕事をしていたことが分かります。この中では、「角細工」として、大きな象牙材から固まりを切り出している職人が紹介されています。

本文では、根付、緒締め、挽き蓋、鉄砲の薬入れ等、角や象牙を用いるたぐいを製作する職人と紹介され、挿絵には、これから根付などに加工される材料の固まりや三味線のバチが描かれています。奥にはろくろ引きの回転装置が見えるので、饅頭根付や鏡蓋根付の台を挽物として加工することも引き受けていたのだと思います。

本資料により、17世紀に既に角細工の専門職人が存在し、象牙根付が製作されていたことが注目されます。角細工職人として本書に記録されるだけの、象牙材の相当な流通が当時からあったと考えられます。
『人倫訓蒙図集』(元禄3年(1690年)刊行)より


『嚢物の世界、江戸小物のデザイン 百楽庵コレクション』(求龍堂(1998年10月))によると、ひとつの袋物を製作するための分業図として、「袋物商」の下に、「仕立屋」、「木型屋」(袋物を仕立てるための木型を作る)、「編物屋」、「牙彫師」、「蒔絵師」、「下地屋」(木や紙で筒や根付の下地を作る)、「彫金家」、「煙管屋」、「錺屋(かざりや)」(金、銀、赤銅で裏座、鳩目、小豆鎖などを作る)、「組紐屋」、「刺繍屋」、「裂問屋」、「皮革問屋」といった職人が関与していて、袋物が多くの職人による分業の下での総合芸術であることを示しています。

高村光雲の自伝によると、仏師に付属した職業として、彫刻家に適当なサイズの材料を切って渡す木寄師(きよせし)、塗師、錺師といった分業者のことが記されています。

その他、様々な資料を確認すると、幕末から明治期・大正期にかけて、浅草、蔵前、浅草橋周辺には、様々な職種の袋物やアクセサリ関係の下職人が集積していたことが分かっています。

江戸時代の浮世絵の製作も典型的な分業制です。「絵師」が墨下絵を描画し、版木の「彫り師」が下絵をもとに版木を彫刻して、色別の版木を作ります。その後、「刷り師」が版木をもとにして刷りますが、色の指定は絵師が指導することがあります。作品は、最終的に「版元」を通じて販売されます。


※5
 「友忠」の根付は、このように名の知れ渡った有名なブランド名だったからこそ、”偽造の多き事、百をもってかぞふべし”と『装劍奇賞』に記録されたのではないかと思います。ルイヴィトンなどの有名ブランドがコピーされるのと同じですね。贋作(コピー)は有名だからこそ作られるのであって、有名でないマイナーな根付において贋作は希です。

※6
 創造的、かつ、本質的な工程への関与という意味では、浮世絵の製作でも同じことが言えます。浮世絵の製作において重要なのは、「版元」が売れるような版画をプロジェクト化して生産することと、絵師が独創的な図案を考案することです。例えば、広重の「東海道五十三次」や「江戸名所百景」といった版画シリーズは、版元が腰を据えて発行しなければ成立し得なかった名作ですし、独創的な図案を考案した広重がいなければなりません。一方、製作現場の周辺にいる彫り師や刷り師は、かならずしも特定の職人が必要であったわけではなく、下職として他の人への代替性があります。版画の隅に押されている印は、通常、「版元印」と「絵師落款」であったことが浮世絵を世の中に送り出す際の重要人物を物語っています。

※7
 これは単純化した議論ですので、例外はありえます。根付は仏像彫刻や漆芸と比較してそれほど多くの工程を要しないものですから、生地どりから色つけまで根付師本人が全てこなしてしまう場合も多くあったと思われます。また、大名からの特注品については親方自らが全て製作していた場合もあったでしょうし、弟子が親方に奉公するのは約10年間ですから、弟子の入れ替わりや工房の経営状況によっては、親方自らが全ての工程を行うことがありました。逆に、一門の弟子に仕事を任せ、自分は工房経営に専念していた場合もあったと思われます。弟子には、修行中とはいえ、単純作業だけでなく小品を製作させていたこともあったでしょう。

※8
 現代根付師の駒田柳之氏や齋藤美州氏によると、根付の工程の中では、独創的なデザインを考案し、材料から優れた図案の形を削り出す、この初期の「荒突き(荒削り)」から「削り」の作業が“非常に難しい”との指摘があります。実際、私の根付教室での体験で考えれば、根付は材料の固まりから形を削り出していく作業であり、ペタペタと部品を張ってやり直しのきく粘土細工ではないのですから、荒突きの難しさがよく分かります。

※9
 「根付の雫―日本根付研究会25周年記念出版」 p.110-114, p.126

※10
 根付師の中には、独創的な図案というよりも、高度な技術で評価されるべき根付師がいたことに留意する必要があります。大原光廣、景利、橋市、石川光明といった根付師は、デザイン自体は写実的なものが多いなか、写実性を追求する上で必要となる細密彫刻や仕上げの技術は、非常に優れています。

※11
 中村雅俊氏は「The Art of Netsuke Carving」に掲載している作品だけで356点。大原光廣の「宝袋」掲載の作品数は約300点であることを考えると、工房での根付制作は数百点〜数千点の数に及ぶものと考えられます。

※12
 類似性のある作品であっても、そのなかで出来不出来の差があることは言うまでもありません。特注品と標準品の違い、代下がりの弟子の作品、良質な材料の欠乏などの事情によって、工房型の作品であっても、優劣の差は当然のことながら生じます。現にサザビーズやクリスティーズの過去のオークション記録において、同じ友忠や岡友の根付であっても、珍しい図案であったり、出来がよいものの場合は価格が高い傾向が見て取れます。
 ただ、注意すべきは、「出来不出来の差」があるをもって、直ちに出来の悪いものが贋作である、ということにはなりません。出来不出来の差は微妙なものであり、本歌として技術等の一定の閾値を超えたものは、安易に贋作に決めつけるべきではありません。


【参考文献】

「象牙彫刻美術年鑑」、近代造美弘報社(昭和51年1月)
『人倫訓蒙図集』、平凡社(1990年6月)
「The Art of Netsuke Carving. ,Masatoshi as Told to Raymond Bushell」(Raymond Bushell New York: Weatherhill、(1992, 2002))
「装劍奇賞」(稲葉新右衛門、1781年)
「東京名工鑑」(有隣堂、明治12年(1879))
「象牙彫刻美術年鑑」(近代造美弘報社、昭和51年1月)
「高村光雲 木彫七十年」(日本図書センター、2000年10月)
「日本の象牙美術」(松濤美術館、1996年)
「根付 たくみとしゃれ」(淡交社、1995年)
「根付彫刻のすすめ」(齋藤美洲、1984年)

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