根付ギャラリー 江戸時代(吉長派)編 
   (Netsuke Gallery)

これまでに研究した根付の一部を展示してみました。
特に記述のない場合は、材質は象牙又は黄楊となります。
サイズは長辺の長さを示しています。
時代分類の考え方は こちら

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京都・吉長派(18世紀〜)
廣葉軒吉長(こうようけん よしなが) 鉄拐仙人 4.8cm 18世紀 京都
装劍奇賞」掲載根付師


吉長は『装剣奇賞』(稲葉通龍、天明元年(1781年))掲載の根付師。
友忠や岡友と並ぶ京都スクール(京都派)の三大開祖の一人。
吉友、正守、吉清、吉正、吉政、吉光らの師匠となる。

吉長は、友忠や岡友と異なり、動物よりも人物、特に仙人や鍾馗を多く彫った。
吉長が多く用いた題材は、猿廻しや鍾馗、蝦蟇仙人である。
吉長派は、深く濃い墨入れと独特な着物模様、魅力のある豊かな表情が最大の特徴。

本名は李鉄拐(り・てっかい)。老子の弟子ともいうべき道教の八仙人のひとり。
あるとき魂になって老子に会いに行くが、弟子がその肉体を誤って焼いてしまい、
やむなく飢餓で死んだ片足が不自由な乞食の身体を借りて蘇ったという。
この吉長の鉄拐は、ちょうど口から魂(分身)を吹き出した一瞬を捉えた場面。
瓢箪は鉄拐を表す持ち物として有名。両眼には象眼が施されている。


廣葉軒吉長 鉄拐仙人 5.6cm 18世紀 京都

こちらの鉄拐仙人は、自分の分身を口から吐き出した後の様子を現している。
仙人の特徴である木の葉の腰巻きを着用し、片肘をつきながら横たわっている。
鉄拐仙人を示す大きな瓢箪が横に添えられている。吐き出した分身は、よく見ると
杖をついており、片足が不自由な乞食の身体を借りて蘇った伝説を物語っている。

Sydney L. Moss Ltd. "More Things in Heaven and Earth", 2006 掲載(No.9)
国際根付ソサエティ ジャーナル(Vol.25 No.1, Spring 2005)掲載
藝術出版社 『美庵(Bien)』 38号、2006年5/6月 掲載

廣葉軒吉長 猿廻し 5.0cm 18世紀 京都

吉長は様々な姿の猿回し根付を数多く残したことでも知られる。
同じ猿廻しでもデザインが創造的に少しずつ異なっており、同じ意匠を繰り返して彫刻していない
ところから、吉長は京都派の根付師の開祖の一人(Principal Master)であると称えられている。
これは、芸の道具の傘を手に持つ猿が一服中の猿回しに寄り添う図となっている。

猿廻しは、江戸時代に庶民芸能の一つとして栄えたが、猿曳き、猿使い、猿飼いとも呼ばれる。
かつて徳川家康の馬が病気になったとき、猿廻しを呼んで祈祷させたところ回復したため
褒美が出たというエピソードがある。それ以来、当時の武家にとって馬は戦役・物資輸送として
大切にされていたことから、 正月・5月・9月に江戸城の厩に馬の守護として祈祷に行き、更に
諸大名の厩にも呼ばれて出向いていたという。これは、日光東照宮の神厩舎外壁に
「見ざる・言わざる・聞かざる」の有名な三猿の彫刻があることからもわかる。
一説には、猿は「去る」に通じることから、「魔(凶事)を去る(追い払う)」とも信じられていたという。

また、天保年間(1830〜1843年)に喜田川守貞が記した『守貞漫稿』によると、
江戸時代の猿廻しは身分の低い者が吉事・凶事に出向いて芸をしたと記録している。
姿は、古手巾(手ぬぐい)をかぶり、弊依を着し、二尺ほどの竹棒を携えていたという。
また、大名などに召されたときは羽織袴を着たとされる。

横浜ズーラシア動物園園長の増井光子氏によると、猿には厄除け・招福の意味から
住居の一部、欄間や鴨居などの高所に彫り物として取り付けたりしたという。
氏によると、中世武家社会において貴重な動物であった馬の守護として
厩に猿を住まわせていたこともあったという。

旧Floyd Segelコレクション(Sotheby's, Chicago, July 7, 1999)
藝術出版社 『美庵(Bien)』 38号、2006年5/6月 掲載


廣葉軒吉長 猿廻し 7.7cm 18世紀 京都

非常に大振りの根付である。一服する猿廻しの頭の後ろに猿が寄り添っている。
寝姿の猿廻し図は吉長が得意とした意匠である。吉長特有の菊づくしの文様が猿廻しの羽織に
彫刻されており、猿廻しの持つ「厄よけ招福」と菊づくしの「吉祥文様」の意味が合わさっている。
美しい象牙の仕上げ、大小のなめらかな紐通し及び彫銘の形は、吉長根付の定石通りである。
この作品は大振りであり、吉長の初期の作品であると思われる。
類似の作品がSydney L. Moss社の"Zodiac Beasts and Distant Cousins: Japanese
Netsuke for Connoisseurs"のカタログに掲載されている。

同じ題材であってもそれぞれの作品を異なる姿で彫刻するのが、吉長派の特徴である。
同じ吉長による寝姿の猿廻しと相方の猿の根付であるが、同じデザインにはなっていない。
江戸末期から明治時代にかけては、同じデザインの繰り返し使用により根付が大量生産された。
一方、顧客の注文に応じて一点一点、独創性のある姿を丁寧に彫刻した根付師達も存在した。
このように、作品にオリジナリティがあり、外国人からも高く評価されている根付師について、
18世紀の京都の根付師を挙げるとすると、吉長と動物根付で有名な正直の2名が該当する。


ちなみに、吉長の寝姿の根付には特徴がある。寝姿をしている猿回しの一服図や鉄拐仙人は、
必ず、右手を枕にして右側に寝ている。これまで約10個の吉長の寝姿根付を見たが
ひとつの例外(Virginia Atchley氏旧蔵の鉄拐仙人)を除き残りは全て右手枕である。

これは、吉長が仏の涅槃図を意識して製作していたのではないかと想像している。
名前(吉長(Long Fortune))と意匠(猿回し、仙人といった吉祥図)は、吉兆の意味を
込めているが、同時にこのようなところにも気を配っていたのではないだろうか。


国際根付ソサエティ ジャーナル(Vol.24 No.2, Summer 2004)掲載作品


廣葉軒吉長 猿廻し 7.0cm 18世紀 京都

藝術出版社 『美庵(Bien)』 38号、2006年5/6月 掲載
左足薬指に小欠けあり。



廣葉軒吉長 鍾馗 6.5cm 18世紀 京都

唐の玄宗皇帝が熱病に伏していたとき、枕もとに鬼があらわれ、楊貴妃の香袋と玉笛を
盗もうとする夢を見た。すると突然、破れた帽子を被り、革の半長靴を履き、藍袍(藍色の
束帯の上着)を着用したひげ面の大男(鍾馗)が出現し、鬼の目をつぶし、鬼を退治した。
夢から覚めた玄宗皇帝はいつのまにか病気が全快したという。
この伝説から、鍾馗は中国や日本で厄払いの神として祀られるようになった。

鍾馗は吉長が得意とした意匠であるが、面白いことに弟子の吉友や吉正らは鍾馗の作品を
ひとつも残していない。巨眼・多髯で凄みがあり、凛々しい鍾馗を彫刻するのは難しかった
のだろうか。それとも師匠に遠慮して作らなかったのだろうか。

ちなみに、京都は江戸時代からの風習で屋根に鍾馗像を置いているので有名。
現在でも古い町屋で鍾馗像を見ることができる。屋根の鬼瓦と向かい合わせに
鍾馗像を置くと災い封じになるという。
(くわしくは こちらの「洛中洛外の鍾馗」 のページを参照のこと。)
このように京都の根付師ならではの根付といえる。

Lazarnick"Netsuke & Inro Artists and How to Read Their Signatures"掲載
Sotheby's, London, July 10, 1974, Lot.77
藝術出版社 『美庵(Bien)』 38号、2006年5/6月 掲載


廣葉軒吉長 張果老仙人 6.5cm 18世紀 京都

吉長一派による立ち根付としての張果老仙人は、ニューヨークのメトロポリタン美術館
に吉友の根付が収蔵されている。(別冊太陽「根付と印籠」、「NETSUKE Masterpieces from
the Metropolitan Museum of Art」参照)

メトロポリタン美術館の吉友による張果老仙人よりも、こちらの吉長作品の方が
馬の彫刻などのディテールが優れており、仙人と馬の表情も豊かなものとなっている。
両眼には象眼が入っている。

英国のヘンリー王子(Prince Henry, Duke of Gloucester(1900-1974))の旧蔵品

Christies, London, July 12, 2006, Lot. 691, "Japanese Art and Design
Including Netsuke from the Estate of His Royal Highness The Prince Henry,
Duke of Gloucester, KG,KT,KP"



廣葉軒吉長 荘子 5.4cm 18世紀 京都

中国の有名な思想家で道教の始祖とされている荘子(そうし)の図である。

傍らに書物が積まれ本を開きながら寝入っている。夢の中で現れた蝶が
荘子のまわりを飛んでおり、荘子の代表的な思想を表す「胡蝶の夢」
を表現していることが分かる。鉄塊仙人が吐き出した分身の
表現も同様であるが、吉長はこのような表現が非常に上手である。

昔者、荘周夢に胡蝶と為る。
栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみ志に適へるかな。
周なるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。
此れを之れ物化と謂ふ。

吉長及びその一派は、仙人や鍾馗といった中国道教に基づく題材を
得意としている。これは江戸時代の当時、幸福と長寿を願う民間信仰としての
道教が流行しており、根付の題材として多く求められたことに基づいている。
その道教の始祖である荘子を表現した吉長の根付としては非常に珍しく、
おそらくは中国道教に造詣の深い当時の知識層が所有していたものであろう。


Karl M. Schwarz, Netsuke Subjects Addendum (ADEVA, 2001)の表紙に掲載
Kunsthandel Klefisch, Junuary 26, 2008, lot. 59
Sotheby's, New York, Septmber 25, 1997, lot.281


廣葉軒吉長 袋から顔を出す布袋 6.0cm 18世紀 京都

七福神のひとりである布袋。もともとは中国の実在の僧がモデルと言われる。
その僧は常に袋を持ち歩いていたことから”布袋”と呼ばれるようになったという。
江戸時代に盛んになった七福神信仰にちなんで作られた作品であろう。


廣葉軒吉長 袋を担ぐ人物 6.0cm 18世紀 京都




吉友(よしとも) 布袋と唐子 5.5cm 18世紀 京都

吉友は京都・吉長の弟子。
『根附の研究』には「牙刻をなす、中期始めの人なり。」と記載。

名前の一字は、同時期の同じ京都派の祖の一人である友忠に由来していると言われる。

吉長の一番弟子と思われる吉友の作品の表情には、独特の愛嬌がある。
顔は比較的大ぶりであり、作品全体としては吉長と比較して
大味となる傾向が見られる。

作品の色艶から分かるとおり、良質な象牙材を使用しており
小さな固まりの材料を使用して、複雑な構図をコンパクトにまとめている。

布袋と唐子の視線は向き合っており、巧みな表情の作り方や作品全体の
バランスや構図から判断して、吉友の作品として傑作の部類に入る。
布袋はおおらかな性格で子供といつも戯れていたという。


同じ布袋と唐子の図であっても、明治期の友親の作品
このオールド京都の作品とでは、表現の仕方に段違いの差がある。
どちらがより外向きの表現力があり、どちらが内向的な秘めた表現力
があるかは、作品を横に並べれば一目瞭然であり、それぞれに魅力がある。



吉友 猿廻し 6.3cm 18世紀 京都

吉長派の根付師らしく、寝そべった猿回し図の根付を吉友は残している。
複雑な猿回しをコンパクトにまとめており、引っかかりがない。
18世紀の根付師らしく、紐通し穴は比較的大きく開けられており
印籠というよりも他の提げもののために使用されたことがうかがえる。


吉友 籠を持つ仙人 7.6cm 18世紀 京都

吉長派のなかでも比較的大きな立ち根付。あまり肉厚ではない
象牙材を有効活用しており、後ろ姿は吉長派らしく無駄のない
コンパクトな構図となっている。裏面や底面に特にコンパクトな構図を
配置して、初めて裏返したときに唸らせるのが吉長派の特徴。

吉友 蜃気楼(奉真彫の蛤) 4.6cm 18世紀 京都

吉友 張果老仙人 6.3cm 18世紀 京都

張果老(ちょうかろう)は唐の時代の実在の人物で、八仙の一人に数えられている。
法術に通じ、白い馬に乗って一日に数万里を旅し、休む時にはこの馬を小さな瓢箪に納めたという。




吉正(よしまさ) 東方朔仙人 4.9cm 18世紀後期〜19世紀初頭 京都

吉正は京都・吉長の弟子。
『根附の研究』には「牙刻を以て人物を作る、寛政以降文政の人なり」と
記載されているが、余りよく分かっていない。両眼には象眼が入っている。
東方朔仙人は、仙桃を食べて不死身となったと言われる。




正守(まさもり) 蝦蟇仙人 4.0cm 18世紀後期〜19世紀初頭 京都

正守は京都・吉長の弟子。『根附の研究』には「牙刻をなす、中期の人なり。」と記載。
蝦蟇仙人は、中国の列仙伝中の一仙人で、魔法の力を持つとされる霊獣の
三足蝦蟇(がま)を肩に乗せている。
中国では、三本足の蝦蟇蛙や蝦蟇仙人は縁起物として信仰されている。

正守 猿廻し 5.3cm 18世紀後期〜19世紀初頭 京都



吉直 太鼓を持つ唐子 5.5cm 18世紀後期〜19世紀初頭 京都

作者の吉直については作品数が極端に少なく、よく分かっていない。
吉長の同時代に京都・正直が活躍していたが、「直」の字を用いるこの作者の研究が
進めば吉長と正直の関係性を証明することができるかもしれない。
(欠け・補修跡あり)



吉一(よしかず) 寒山 5.1cm 18世紀後期〜19世紀初頭 京都

吉一はどの根付師人名録にも掲載されていない根付師であるが、
作風や時代から判断して吉長スクールの一人であると思われる。

寒山(かんざん)と拾得(じっとく)は、唐代の脱俗的人物で、天台山近くに隠棲した。
寒山は巻物、拾得は箒(ほうき)を手にしていて、詩を詠み、画を書いたという。
寒山拾得の絵は、宋代以降に禅僧たちの間で好まれたものであるが、この根付は
寒山のみとなっている。その視線の先(持ち主)に拾得が居るに違いない。


寒山作品の比較(左:吉一、右:無銘)

同じ題材であってもそれぞれの作品を異なる姿で彫刻するのが、吉長派の特徴である。
試しに寒山(拾得)の座像と立像を並べて比較してみた。
姿や表情が全く異なるものの、両手で持つ巻物によって両方が寒山であることが分かる。
キャラクターの持つアイテム(得物)によって、万人がその意匠を容易に理解できるところに
江戸時代の日本人の教養の高さとキャラクター文化の共有がみてとれる。


京都・吉長派 四仙人図
蝦蟇鉄拐図
左から蝦蟇仙人、鉄拐仙人、東方朔仙人、張果老仙人
蝦蟇鉄拐図 (がまてっかいず)は、京都知恩寺の絵画(重要文化財)が有名


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