旅のよもやま話
トラベル情報もまた、ジャンルとしては広範囲過ぎるな〜と考えてしまいます。
旅のよもやま話として、自分の少し古い旅行の話や身近な人の旅行感想や、季節のスポットなど紹介出来ればと思います。もし旅の面白い話があれば、掲示板などにお書きください。ここで紹介いたします。
トラベル 目次を表示  貴方の旅の参考に、お暇でしたら読んでみて下さい・・・
1. グアム・サイパンの旅
2. 台湾の旅
3. ハワイの旅
4. 香港・マカオの旅
5. 韓国の旅
6. マレーシア・シンガポールの旅
7. カナダの旅(バンフ・ウイスラー)
8. イタリア・フランス・スイスの旅
心をいやす魔法の国への旅へ(Give Kids The World)
ライアンの井戸(ライアンの心の旅)へ
イベントの見所や紹介
旅のおすすめイベント
心の旅を続けて行く貴方に・・・
沼津市やその周辺地域の情報、静岡県東部イベント情報
YOUのホームページへ

グアム・サイパンの旅

飛行機で約3時間、ハワイに行くよりすっと近いし、料金も安いし、泳いだり、マリンスポーツをするなら、サイパンが一番と思います。海はそれは綺麗で最高です。初めてのグアム、観光をと、ガムで買い物したり、まあハワイなみのお店がけっこうあって、ブランド品や高級品は多少安くは感じました。恋人岬を見たり、潜水艦に乗ってゼロ戦の残骸を見たり、(たいした事は無い)で、ガムは買い物が主かな。
サイパンではグアムと違って、賑やかさはそう無く、空港からちょっとした街を抜け、ホテル日航サイパン(写真)の方では海と林ばかりという、素朴な南の島という感じです。島内観光でバンザイクリフとかラストコマンドポスト(日本軍の終焉の場所)を見学したり、ポリネシアンディナーショーを見なから夕食、やナイトクルーズで夕日を見ながら食事をしたり、また拳銃の試射を10$ぐらいから出来るのでしたり(拳銃が鎖のようなもので銃口は的の方向に向けつるしてあった)、初めてのガムサイパンではけっこうすることがあります。だた2度3度と行く人は見るところも見てしまい、ロタ島へ行くとか、ゴルフか泳ぐかマリンスポーツをするしかない感じですが。
このころ(バブルのはじける前でしたが)、格安ツアーが流行っていて、日本の飛行場の飛行機、繋留料が高いので、夜間グアムに飛び1航回を稼ぐとかで、2泊3日で3万ぐらいツアーたくさんあり、そういったツアーで来ている女の子のグループがいてナイトクルーズで会ったのですが、これが終ったら、ホテルでしたくして深夜便で帰る、着いたらそのまま会社に行くとのこと(若くないと出来ないが、国内より安い感じで、何度も来る人がいましたよ)雨期(7〜11月)に行くと1日1回はスコールがある、すぐ止むげどね。注意しなければならないのが、ガムとサイパンは国が違うということグアムはアメリカで出る時はうるさくないが帰りはチェックがあるのでパスポートを忘れサイパンに行って帰りに、ガムに入れず日本に送還といったこともあるようです。あとタクシーは要注意、料金を「ボル」ので、相場をガイドに聞いておいてから最初から「いくら」と約束し、決めた料金以外は言われても、「これが約束だ」といって払わないことです。
ゴルフ編(1993/MAY)
2度目のガム・サイパンでは、メーカーの招待のゴルフツアーで、グアムで着いてすぐゴルフ(グアムインターナショナルC.C)をし、翌日からサイパンでも日航サイパンホテルに泊り、朝はNHKのBSでニュースをみてから、「弁慶」だっけホテルのレストランで朝食(おかゆ味噌汁付きの)、昼間はゴルフ、夜はマージャンと、なにか日本でゴルフをやっている感じでした。
ガムサイパンでは、海岸のゴルフ場が高級で、山の方が安く(当時・料金も海岸の方日本円で1万3〜5千円山の方が1万円弱)また海岸は、クラブハウス(喫茶というかレストランの感じ日本のように風呂などは無い)も綺麗だし、コースにドランシーバーの見張りがいて、飛ばして(追い越して)いく組みをチェックしているし、シューズにも白砂でなにも着かず、綺麗で面白いコース(ショートでグリーン周りが海で)が多い、

かたや、山の方は、クラブハウスは汚いし、靴には赤土がついて重くなるし、コースには、どんどん追い越していく連中はいるし、日本のようにハーフで食事ではないので、カートに食物(サンドイッチ・バナナ・飲み物)を積んでコースに出るが。詰まっていると次のコースへ、とばして(抜いて)行く連中がいて、距離感もヤード杭も無いし、キャディもいないので打ち込んで来たり、初心者(初めてやる新婚さんなど)がすぐそばでこっちに打とうとしたり、危ないことも起きるので要注意です。

サイパン2日目もゴルフで、(マリアナカントリークラブ)そう暑さ感じないが、襟足が真っ赤でひりひりするので、昔の日本兵のように、帽子の後ろにハンケチをさげてのゴルフ、この日は年配の人と組んだ(2人で1カート)ので、私がいつも飛び、一方は70〜90ヤードぐらいでカートを運転するのはいつも私、ラウンドハーフでその年配者は最終ホールでもう座り込んで動けなくなってしまい気の毒でした。カートには同じ飛距離の人同士組まないとこんなことも・・

マナーさえ守れば初心者でもゴルフを楽しめるのはいいですが、ロストボールはたくさん持っていったほうかいい、かせが強いと、ブッシュに入り見つからないし、周りが海のコースでは、何発も打つことになる、トランシーバーをもった見張りが、ニヤニヤしている、オンしないと手をたたいて喜び玉がなくなると、自分たちの打った玉を3個でとか2$3$とかで買わされることになる(岩場に入った玉を集めておいて商売をしている)

さすがに最終日はゴルフをせず買い物(土産)をかったが、何度も来ている連中は、午前中にゴルフをして、空港のトイレで着替えて帰国という「モサ」連がいたのには驚きました。
台湾の旅 目次(上)に戻る
 台湾(中華民国)に行ったのは(1990/JUN)ですからもう12年前です。3泊4日で台北がほとんどで唯一(1日)台北から出たのは太魯閣渓谷へのバスでの観光です。すごい渓谷で、今、地震が来たらひとたまりもないだろうと言う場所も何箇所かあって、びくびくしながらの観光でした、帰りに寄った石(宝石)加工所では、水晶などの加工品を作っているのを見学(即売していて定番的な観じでした)し、台北に戻りました。

 ホテルに戻り、夕食はぼどほどに、友人に紹介された、台北市松山區の王さんを訪ねることにし、近くまでタクシーであとは地図を見ながら歩いて行くことに。途中「カラオケ」と書いた看板が目に付いたことと、床屋が結構目に付き、しかも遅くまで営業している(後で聞いたら女性を斡旋するところらしい)のに驚きつつ、台北も日本と住所的には同じ、区・町的なのでわりと探し易く、何とかお宅にたどり着きました。

初対面なので、友人の言付を伝えたり上手く言葉が伝わるか心配でしたが、ドアをノックすると、初老のご婦人が出てきて、「日本から」と言うと、なんと悠長な日本語が返ってきます。聞くと日本人でこちらの人と結婚されている、王さんは息子さんで日本の友人とも交流があるとのこと、台北の夜を案内して下さると言う、突然の訪問なのにと恐縮しつつ、甘えてお願いしました。

 フォードの自家用車で、やたらとバイクの二人乗りが目立つ繁華街に、観光なら地図を見ながら何処というのを記憶しつつ行くので、場所が把握出来るのですが、連れて歩いて説明をしてくれるのですが、「八徳路?・ 仁愛路?」初めて聞く地名なので頭に入らず、位置的にいまでも思い出せませんが、蛇とか蛙とかゲテモノを売る店があったり、繁華街の掛け軸を売ってているお店で、こちらの名前をいうと、即、名前の漢字を使い、短文(漢文)を墨で書くのですが、それが、文字がまるで今にも動き出すかという竜に見えるようになる、すぐ表装し掛け軸を作ってくれたのには凄い芸術家が町の中にいるのだと感心したり驚いたりして、書いてくれる間、文の説明をしてくれるのを王さんが通訳してくれ楽しい、ひと時でした

 海鮮料理(日本の炉辺焼き風の)の店に連れていってもらい、ご馳走までしてもらい感謝感激でした。韓国、中国本土に比べ、親日的(国民感情が)だし、とにかく食べるものは美味しい(海鮮は特に日本人向きなので合うのかも、でも他の料理も)王さんにはホテルまで送って頂き、お世話になりっぱなしでした。(感謝感謝)

国立故宮博物館
 この旅で、中正紀念堂の孫文の像の大きさにもびっくりしましたが、期待度が一番だった「国立故宮博物館」です。これが期待を裏切らない圧巻で、凄いものばかり、日本なら国宝級の青磁、陶器、絵画、書、掛け軸、宝石の加工品など、1週間ぐらい掛けてゆっくり見たいものですが、展示品の入れ替え周期があり、すべて見るるのには周期毎に行って時間を変えるしかない、各王朝の王が必ず印を押したという何代も渡り保管された貴重な財産ばかり、戦乱の中、よくこれだけのものをまとめておけたという、それも驚きです。古宮にはまた行きたいなと思います。
 王さんの家に向うタクシーの中で私が日本人らしいというので運転手さんが、音楽をかけ「テン・リーチュン」を繰り返すので、この歌手を知っているだろうと言っているのが分かったのですが「テン・リーチュン?」知らないなと、思って聞いていると声が「テレサ・テン」らしい、分かったとフリをすると、運転手氏自慢ゲな顔でにっこり、テレサ・テンも台湾生まれで、中国(中華人民共和国)との関係を苦慮していた一人だっただろうと、思い、ふと、台湾はこれからどうなっていくのかなと心配し、
デン・リーチュンよ永久に眠れ!・・・揚子江のように・・(彼女の作った詩にそんな永久の流れを歌った詩があった)と、思いつつ「王」さんに感謝しながら帰途についた。
ハワイの旅 目次(上)に戻る
 この旅は大変でした、とういのは、母校の90周年(高校の・1990/NOV)で卒業生が友人や家族を誘って、ジャンボ機を貸切って約300人のツアーなので・・、もう、予感的中、着いたとたん、ホノルル空港でトラブル発生!、1人の方のバックがないとかで、足止め、この反省からバス10台が待つのもと、バス単位の移動になりましたが・・。
滞在中は、大所帯なので前もってオプショナルツアーを申し込んで下さいという形でのオプションツアーグループ(ハワイやグアムなどでは普通はツーアーディスクが出て、次の日はなにをしたいかで、前日にオプションを申し込めばいいのに、旅行社が手間をはぶきたくて前もって予約をさせたように思った。)と、個人でフリーに動く人といろいろでした。

ただ、1度だけは、参加者全員で食事をと、ホテルで行えばいいのに、ナイトクルーズをということで船にしたのが大失敗で、人手がないせいか、習慣なのか、料理が出てくるテーブルにはセットの料理すべてが出てきて(スープならスープをすべてのテーブルに出し、次はサラダとか、肉とかでなく)
順番のこないテーブルはなにもなしで、船がナイトクルーズを終えて、岸に接岸しても、3分の1の人はまだなにも食べていない状況で、食べ終わった人はもう岸に降りたいが食べてない人がいるので、待つことで「イライラ」大変に不評でした。(うちの奥さんが行った時1997年ではバイキングだったようですが)私たちクループは、事前に旅行誌などで、現地のツアー会社(日本人のガイドや日系の会社)を調べておいて、季候や気分で翌日の行動を決めようと、事前のオプションを予約せず、前の晩に連絡(予約)し行動をしました。
 翌朝ホテルにリムジン(バンのタイプで10人乗りぐらいで運転手兼ガイド)が迎えに来ます(値段も日本で予約するより1割は安い)うちは6人なので
他の場所で4名(2名づつのグループ)乗せて、出発です。このカイド(運転)が女性でしたが、日本語ぺらぺらの親切な人で、チョットその銀行で円を両替したいとか、そのスーパーに停めてとか、小回りのきくことー、同情した女性の1組は、ハワイの大学に来ている子で、今アメリカではやっているものや、これがお買い得など教えてくれ通訳までしてくれて大助かりでした。

行く先々で、仲間のバスに会い、常に小回りが効く分、常に先行して料理なども違うので、「なんで?彼らは?」と、不思議がられました。他の島への観光もこの方法で支障はなく、かえって便利でした。特にハワイ・ガム当りは、オプションについては、よく事前に現地の様子を調べたり、直前に行った人に聞いたりして、利用するといいですよ。ハワイではABCストアーも大いに利用して、ホテルで高いものは買わない使わないことです。
 これでは、旅行社やホテルが儲からないかな?
この旅行の「落ち」は忘れたころ届いた、旅行社からの、鮭1本、なんでも、お詫びがあり、「不手際に懲りずに(ナイトクルーズこと?)ご利用のぼど・・」とのこと、忘れていたのに 思い出して 「もう、絶対に使わないよ〜だ」でした。

◆ 香港・マカオの旅 目次(上)に戻る
香港には、いづれも中国返還前(1991/JUN・1992/MAY・1995/JUL)で中国の広州へ日本企業の工場見学のため香港から深浅経由で列車で行った時や、香港・シンガポールのツア―と香港・上海のツアーと、この香港・マカオの旅で行きましたが、他は夜景とグルメとシ
ョッピングで1泊程度のもので、この旅行が一番香港を詳しく見て歩きました。
この旅行は、当時、ヤオハンの和田社長の(東海銀行沼津支店、取引先の会の会長であった)ご好意で、取引先の会の旅行として、東海銀行沼津支店のご協力で実現したものですマカオは月並みの観光でしたが街は電線が道の上にやたら多く、なにか非常に汚れた汚い感じを受けた。カジノもラスベガスと比べるとやはり汚れた感じで、中国人の日雇い労働者のような格好でスロットルをしている人が多くいて、日本のかなり大きなパチンコ店内のような体験でした。  香港では、船を模ったヤオハンのデパートを見学したり、当時のヤオハンの本社(香港の夜景が一望出来るビルの最上階)の和田会長の執務室や役員会議室なども見せていただきまたヤオハンのクルーザーで海から香港をみたり、ランドマーク近くの東海銀行の香港支店を見学し、また向こうの企業の工場見学(日本は広い土地に平屋の工場が一般的ですが、香港は土地が狭いので、ビルの中の階層型工場になっている)したりと普段では経験できない内容で、前出のヤオハンのデパートの船で言うと操舵室にあたる位置にあるレストランで食事や、香港にある世界の銀行が加盟している銀行協会のレストラン(銀行が会合やVIPの接待で使うという)で食事をしたりと食事も一般の観光ではないものでした。
◆香港の感想Prt.1
驚いたのは、銀行の入っているビルと他のビルがつながっていて、3階あたりのビルの中がショッピング街のようになっていたり、(最近で
は日本でも見られますが大きな吹き抜けで3階あたりまでエスカレーターがついたビルの連鎖街)というスケールの大きさ、また入居企業の払っているテナント料の高い事、そして女性の向上心の高い事でした。銀行でも何カ国語も話せてファンドを組めるような仕事をしている女性は100〜150万ぐらいで、一般の店員、事務員は7万円ぐらいの給与と聞きましたが、この賃金格差が上に行きたいという向上心となり、香港の原動力になっている感じを受けました。バブルが崩壊し、日本でも、仕事に応じた給与、成果に対する給与になってくる、高学歴と年功序列で年が上がると給与も多くなる仕組みでは、こういった仕組みを持っている国には太刀打ちで出来ないのでしょう。実力・能力主義での賃金格差は広がるのではと感じます。
◆香港の感想Prt.2
最後に行った「香港・上海のツアー」は返還1年半前で、今から、返還の日はホテルなど予約で満杯であるとか。また商店主や企業家はアメリカや他の英語圏に資産を移し、商売の拠点のみ香港に残している。中国の、変換後50年は体制や経済はそのままと言う方針であるが、役所が中国主導になれば、申請や認可では、今までとは同じにはならないと、方針を信用していない人が多いと聞いたが現在の香港はどうなっているのか、非常に興味があります。
上海では、お決まりの観光コース、歴史がある中国江南古典式園林「豫園(イィユァン)」庭園はそれなりに素晴らしいが、隣接する豫園商城の方が面白い、あまり広くない地区に明清時代(様式)の建物がところ狭し並び、せまい道を挟んでひしめきあって、そんなお店を見て歩くのが楽しいものでした、夕方喉が渇いたのでキャンデーをと思ったが「作った水」が心配でやめて、コーラにした。記憶に残ったのはテレビ塔(浦東地区のシンボルで、高さ468mのテレビ塔。珠体部分がある。そしてその廻りには超高層ビルが並んでいる。)と、夜でも歩くのに疲れて、歩道の脇の石に腰掛けるともう20時くらいなのに石が熱かったのを鮮明に覚えています。やはり大陸の気候は違うと感じました。テレビ塔は海上から見たせいで記憶にのこったのでしょう、ナイトクルーズとはいかなかったが、上海の町の中を流れる川「黄浦江」、揚子江との合流地点では対岸との距離が80Kmもあるそうで川とは思えない海でした、もちろん対岸は見えません、なにか軍事施設を海上から見た記憶があるが、飛行場のようでもあり、海軍基地であったような気もしましたがはっきり分からなかった。この大陸的なスケールの大きさと石で感じた気候がやけに印象的でした。
◆韓国の旅 目次(上)に戻る
近くて遠い国、今は北朝鮮がそうなっていますが、韓国には3回行っています(1973/APR・1973/FBR・1987/NOV))。ソウル・ジンセンなど、まだ戒厳令があった頃2回、なくなってから1回、最初はメーカーさんのご招待でした。最初の海外旅行でした。日本の大学の初任給が12〜13万で韓国では1万円ぐらいの時です。
オンドル(床暖房)がとても暖かく感じた11月ごろだったと思います。まだ、韓国には自家用車は普及していないで、なにかやたらマツダの三輪車に練炭(オンドル用)を積んでいる車が目立った記憶が残っています。
3つ感じたことがあり、
1つは、初めて日本を出て、日本はいい国だと思った事。
2つ目は、日本は平和ボケしていると感じたこと、例えば、当時深夜は戒厳令があり、出て歩けないので、観光客はウオーカーヒルという、カジノなど楽しみ夜間も歩ける所区域に宿泊したり、道路が何車線もあり直線のいい道路があるので聞いたら、有事には滑走路になるとか、道路が立体交差してして上の橋が何か作りが違うので聞くと、やはり有事の際、下の幹線道路を塞ぐ(敵の戦車を通さないよう落す)のだとかという。
3つ目は若者が異性と付き合うとき、最初に苗字を聞く、という「なぜ?」、それは「同じ町の同姓とは結婚出来ない」からと言う答え。日本では多少問題はあるが従兄弟なら出来るのにー、向こうは、金・朴・李の三大苗字があり、この苗字の人は大変!、最近では、守らない人も多いというが、名前の最初の1文字は苗字によって50代先ぐらいまで決まっていて、必ず付けているので名前の最初の文字で、お父さんの代なのか子供の代なのか分るとのこと。近親結婚が日本より厳しいと聞いたことでした。多少の誇張はあるにしても不便だ!、「素敵な人よ貴方の苗字は??」ですからね。今もそうなのかな・・・

 まだ、観光業での収入が高くなって来ていた時期なので新聞を見るとやたら「日語教えます」という広告が多く(日本の教育を受けた年配の未亡人が多いと聞いた)、ボーリング場では手でピンを並べていて、日本の中山律子さんのポスターが大きく飾ってあったり、点数を付けてくれる女性がいたり、
映画館では、上映中に最初に入ると目がなれないので、懐中電灯をもって席まで案内する女性がいたり、また、幕間の休憩後、映画の本篇(ル・マン)上映前に、朴大統領と韓国建国の映像が流れ全員起立して見る(国家の思想教育を感じた)のに驚いたり、ホテルの床屋では爪を切ってくれる女性が付いたり、と地方からソウル出てきて、安い賃金でも働く所を求めている女性が多く(夜は務めている喫茶店のテーブルで寝ているなど)、雇用を満たす為いろいろな雇用の場を設けているようだった。

 この初めての海外への旅の成果は、貨幣価値は勿論ですが、物事の価値というものが隣の国であってもこんなに違う、外から見た日本について日本の中では感じないものがあったこと。これは機会があったら出来るだけ海外に出てみようと思ったことでした。
◆マレーシア・シンガポールの旅 目次(上)に戻る
この旅行も10年以上(1991/SEP・1992/MAY)もたってしまったが、その時の旅行の印象を書きます。
マレーシアでは、緯度からいえば相当暑い感じですが、木々にかこまれた涼しげなマレーシアの平均的な農家の家にお邪魔して、生活をのぞかせてもらったり、クアラルンプールの街の観光など、マラッカの町を夜、自転車のサイドカーのような乗り物で、タウンツーリングというか、同行の仲間15人ぐらい列をなして走っての観光は結構面白かった。マラッカ海峡の町で、建物や町が結構エキゾチックでした。ただ食事は椰子油で加工したものは私にはぜんぜん合わずにまいったです。


ただ、「千円」(しぇんえん)攻勢にはまいった。寺院などの見学でバスを降りると、バンドやスカーフなどを、しぇんえん、しぇんえんと売りに来る、最初1本1000円だったのが、バスを出す寸前では3本になったり5本になったりする。人のいい人が買おうものなら、こちらのバスにみんなやってきてしぇんえん、しぇんえんと集まった。
マラッカから汽車でシンガポールへ向う車中は最初はもの珍しく、いろいろ興味もあってそれなりに楽しめたが、そのうち「やしやパイナップル畑」が延々と続き車窓からの景色にはあきあきしました。
シンガポールとマレーシア国境の喧騒の中、シンガポールでは、マレーシアから大量の水を買っていることや、女性の労働力をマレーシアからかなり入れていること、シンガポールの女性は、家にマレーシアの女性をメイドとして1〜2人雇って、自分は働きに出る、それというのも、賃金格差がかなりあり、自分の給与の10分の1、人によっては20分の1ぐらいでメイドを雇えるためで、1人は育児係り、もう一人は家事をと使っている。
橋を渡れば違う国なのに、マレーシアとの賃金格差はしっかり守って、メイドの給料は上げないで優雅な生活を(もちろんシンガポール人同士でも賃金格差はあるのだろうが)している。こういった生活は日本では考えられないし、ただ国が違だけでと、双方の女性を見聞きし、なにか割り切れぬ矛盾を感じた。これがこの旅行の今も残る1番の印象だった。
シンガポールは、日本の企業は香港あたりから、ボルネオ、バンコク、フィリピンなどにある支店駐在員の健康診断などをシンガポールでしているくらいですから、近代医療も整った近代的な都市です。観光はオーチャード通りのショッピングとマーライオンが定番ですが、今回は日本企業の工業製品の工場や日本のレストランに輸出している食品工場を見学しました。

工場では能率を上げるのに、イスラム教の人用に礼拝室を用意したり、機械ごとにランプをつけ、赤ならもう材料が不足しているなどの工夫をしている事や、食品工場では中東へは豚肉を入れない加工品、インドへは牛肉を入れない加工品を作っているが、シンガポールでは従業員を雇用する場合、人口比で中国人、マレー人などを雇わなければならないので、宗教によって、イスラム・ヒンズーなどは作業的に問題があり、どうしても仏教徒である中国系の人の雇用比率が高くなり困っていることなど、管理していく面でいかに苦労が多いかを知ることが出来たのはは収穫でした。
◆カナダの旅 目次(上)に戻る
行ったのは2回 (1999/JUN・2006/APR)です。どうしても、個人で行くと費用が高いのでツアーを探して行くようになります。たまたま安いツアーがあり、妻とカナダ(バンフ)に行きましたが、一人約13万円で食事も朝昼晩ついていていいツアーでした。
まずミネアポリス経由でトロントからナイアガラへ、
滝が激しいホールで削られて数キロも移動して現在の位置まで、移動したのは聞いてびっくり、霧の乙女号に乗って水しぶきをあびながら滝壷に近ずく見学はテレビなどで見てはいましたが、この臨場感は実際に行かないとわからないですね。滝の見える芝生が引きつめられた通りにある周辺のエキゾチックなレストランでの食事もよかったな。味は景色にみとれてわすれた。多分うまかった?。

トロントは市の中心に近い支庁舎やクイーンズ公園では、木や柴の上にリスがけっこういたりして都会の雰囲気のある、綺麗ないい町といより都という感じの都市です。
日が落ちるのが遅く、夜7時といってもまだ明るいので夕食事後の買い物には地下鉄にのって繁華街まで行ったり十分時間はあります。近代的なセンスの良いビルに古い建物がまじっていても、センスのよいあかぬけた感じの街並みをショッピングして歩くのもいいですよ。

ナイアガラを見てトロントからミネアポリス(アメリカ)経由でカルガリー(バンフ)に行くのですが、ミネアポリスでお昼食をと思っていたら、トロントからの飛行機で機内食が出て、ミレアポリスで旅行社からのお弁当(サンドイッチ)が出て、これはとても入らないと思いカルガリーへの機内で食べようと思ったのですが、カルガリーへの機内でも、機内食が出て、お昼が3食になってしまいました。トロントとミネアポリスでは1時間、ミネアポリスとカルガリーでは1時間の時差があり、こんなことも起きます。

トロントの空港でコーヒーを飲んだのですが、カウンター式の所で、紙コップですが、小を注文(「 small 」と言っても)したけど、日本ではファーストフードでの(コカコーラなどの紙コップの)「大」のサイズぐらいあって、なみなみと一杯入って来て、ミルクが入らない、 向こうの人はどうするかなと見ていると、砂糖やサジやストローなど選ぶ台があって、そこに流し台が付いていて、そこに、平気で三分の一ぐらい溢してからミルクを入れたりしている。こちらも真似をしてミルク・砂糖を入れかき回してもこぼれないくらい溢してから、飲みましたが、このへんはやはり(トロントはカナダですがスカイ・ドームという大リーグ球場もある)量の多さに、アメリカだな〜と思いました。
バンフでは、季節は秋なので朝晩はかなり寒いのですが、タンパンに半袖の人もいたり、そうかと思うと、セーターにジャンバーを着ている人もいて、季節が何時なのか解からない感じ、ナイアガラはかなり暑くて、半袖のTシャツを買いましたが、軽装的なものは安いものがあるので現地で買えばいいし、とにかく、自分の体調や温度の変化を考えて、すぐに着たり脱いだり出きるスタイルで、もうラフな格好が一番です。
バンフから、コロンビア大氷原までバスでいくのですが熊を発見したり壮大なサンワプタ峠の景観に感動しつつ、湖畔のホテルに新婚さんがぜひ泊りたいという有名なレイク・ルイーズやモレイン.レイク、エメラルド・レイク、ボウ・レイク、ペイト・レイク、などの湖を見ながらの旅は、さすがカナディアンロッキーと感動の連続です。特にペイト・レイクの湖の時間によって変化して行く色には感動でした。レイクの湖畔のレストランでお茶しているとリスが手の届く所に出てきたり、女性にはもうこたえられない旅ですよ。


◆カナダバンクバーと、ウイスラー・スキーの旅
カナダ2度目の旅、(2006/APR)今度の目的はスキー、次の冬季オリンピックの地、ウイスラーです。費用は1人約10万円(交通費は総て込みですがホテルは食事は一切含まれず。)、4泊6日。バンクーバーからウィスラーへは車で約2時間半です。標高差1,600メートルの素晴らしい山が2つ隣接してそびえ立っていますウイスラー山とブラックコム山です。ホテルから歩いて5分がらいでコンドラに乗れます。ゴンドラは、ウィスラーの山頂とブラッコムの山頂間(全長4.5キロくらい)を約11分で運んでくれます。8,000エーカーを超える広大なゲレンデだそうで、仲間とはぐれたらもう1日宿に帰るまで逢えません。日本の八方尾根より大きなスキー場が2つあるわけで、一本一本のリフトは日本の3倍近く長いので、ノンストップで滑ってくると、練習不足で行った私とすると息が切れ、半日で足はガクガク、はぐれないよう仲間について行くのは、もう必死でした。ウィスラーとブラッコムには軽食・レストランが18箇所ありるそうですが、頂上付近のレストランで昼食。ほとんどは好きなものを自分でチョイスし、レジーで払うシステムで、結構美味いものが多くとにかく量が多い、前にトロントの空港でコーヒーを頼んだときもそうでしたが、コカコーラでも日本の「大」のコップが向こうでは「小」です。そしてステーキ・ハンバーグが量も多く美味いです。結構アジア人が多いなと思ったら皆さん英語で、バンクバーの中国系2・3世の方が多いいようでした。
2日目は、朝ゴンドラまで足が筋肉痛で痛くて歩くのが辛かったこと。夜は好きなレストランを探し仲間とアフタースキーでこれも好きな肉とタレを選んで持っていくと大きな鉄板で焼いてくれるところもありこれはもう美味かった、夕食の後は買い物(みやげばど)でぶらぶら、最後にスーパーで朝食を買ってホテルに帰ります。
1日から6日までなので最後の日はスキー組みと観光組にわかれ、観光組はスタンレーパークの観光とバンクーバー・ロブソン・ストリートへ、ダウンタウンでショッピングです。もうよく覚えていないですが、時間が足りなくてベネトン、バナナ・リパブリック、地球型のサインと壁にスターの手形でおなじみプラネット・ハリウッドやヴァージン・メガ・ストアなどは行きませんでした。このころはカナダもバブルでバンクーバーはカナダでも1番暖かい所とので、平均的な住宅が3500万くらいだったものが9000万から1億円と高騰しているとの事でした。バンクバーも綺麗な魅力ある街です。、こんどはスキーでなく観光でゆっくりと行ってみたいものです。
今度の冬季オリンピックが開かれる


ウイスラー
スタンレー将軍の私有地だった



スタンレーパーク
◆ ヨーロッパ旅行 目次(上)に戻る
もう35年も前の(1975/MAR)これは新婚旅行でした。当時としては贅沢だと言われましたが、
そのころは会社も忙しく休みも少なく、もう海外へはそうは行けないだろうと、少し無理をして車も売って旅費を捻出し、一番安いツアーを探し当時としては1人29万円という価格でした(同じコースでもJAL50〜53万、しかもベルギー航空なので1泊ペルギーに余分に宿泊出きる)コースは、フランス(パリ)・イタリア(ローマ・フォローレンス)・スイス(ジュネーブ)・ベルギーです。
フローレンス
オルレアン
うちのおくさまで〜す(顔が見えないのがいいでしょう)
今はソビエトの上空を通過できるのでアンカレッジが寂びれたと聞きますが、当時は北回りでもアンカレッジ経由で、往きが南回りで、フィリピンに寄り(むっとする暑さだった)ギリシャに寄り(ギリシャは白い家波が綺麗だったが、20時間以上かかって)ベルギー到着、ベルギーから小型ジェット(でも80人乗りくらい)でパリへ、往復約36時間ぐらいかかった機内では食事ばかりしていた感じでした。
パリの第一日目は着いた日がマリーアントワネット以来(のだそうだが)の雪だったので雪の積った中、まずリーブルへ、ミロのビーナス・モナリザなど駆け足で見て、ベルサイユへ、洒落た喫茶でお茶したりして、雪のベルサイユはまたかくべつでした。次の日は、ノートルダム寺院やセーヌ川を船で減額、市内観光をして、夜はオペラ座付近で食事やショッピング、
3日目は、オプションでロワール川を古城めぐり、ジャンヌダルク(オルレアンの少女)の像のあるオルレアンにより、シャンボール・ブロア・シュノンソー・アンボワーズ(ダビンチの像がある)などの城を見学、夜はショーをみて夕食しショッピングでパリを後に・・(パリでは昼食は、言葉が通じないので「ジャンボ・ドゥ・ドゥ」でコッペパンにハムなどいろいろ挟んだものをジャンボといい2個でとうした)パリから列車で、車窓からのアルプスの景観を楽しみつつ、ジュネーブへ、ジュネーブではレマン湖周辺ジュネーブ大学やサン・ピエール寺をみてホテルへ、翌日はバスでモンブランへ、モンブランでは3842mの空中ケーブルでAig・du・Midiまで行きました。スキーが出来なくて残念だったが最高の景色に満足し、ジュネーブでは、弟に頼まれた時計を探し時計店めぐり(これは疲れた)スイスは2泊してジュネーブからバスでローマへ、途中で出た日本のお弁当がうまかった〜。(日本食に飢えていた?) ローマ(イタリア)について、すぐ市内観光、コロッセオやフォーロ・ロマーノ、など、翌日はコインを後ろ向きで投げるとまた訪問出きるというトレビの泉やローマの休日のオードリーがアイスを食べていた、スペイン広場などをみて広場前の街などでショッピングし、バチカンへ、3日目は、フローレンス(フィレンチェ)へ、市内観光(ヴェッキオ橋・ドゥオモなど)バックなど革製品が安くてに入るとショッピング、
もう後は帰るだけ、なにか寂しさを感じつつ、ローマからベルギーブラッセルへ、18世紀に建てられたゴシック・バロクの建物、グラン・プラスの夜の観光は実に綺麗だった。おまけの「小便小僧」もみて、翌日、北回りで北極圏の景色を眺め(アンカレッジ経由)日本へ、往きと違い半分の時間で返ってくるが往復2間もかかるのは、やはり遠い国であった。

感想としては、買い物も各国ごと、片言の言葉で、後は筆談といっても、値段の数字を消して希望金額を書くものだが、店の人と交互に書き合うのも、けっこうおもしろかった。驚いたことは、赤軍派のテリアビブの空港乱射事件などの後だったと思うが、ギリシャの空港では、機関銃を持った兵士の警備がものものしかったこと、スイスフラン・フランスフラン・ベルギーフラン、など小銭が混ざるとややっこしいこと(通貨価値の計算も)、イタリア(リラ)は余っても再換金出来ないことなど、フランスからスイスへの列車では(イタリアも)盗難には注意しなさいと再三の注意があり以外に治安的には物騒なこと、フランスでは、コカコーラの販売店の「爽やかツアー」や農協のツアーが多く、当時としては以外にフランスに日本人が多く来ていて、フランスの農家などは一生に一度パリに出てくるのがやっとなのにと、日本の経済力に驚いていると聞いた事など、でも円は1$250〜270円で1000$でも今の半分の買い物しか出来ない時でした。ブランドなど凄く高く感じた時代で、海外国内での価格差が大きく。洋酒も喜ばれた時代でした。
目次(上)に戻る
YOUのホームページへ