やまがた文庫インデックス
ぺんぺんぐさ



ぺんぺんぐさ 巻之二

松田甚次郎のこと
 

志田火路司



 7年ほどまえ、やまがたへ戻ってきたわたしは、祖父へ次のような質問をしました。
「じいちゃんの尊敬する人って、だれかいるが?」

 わたしの祖父(母方)は、石川 豊、大正0年生まれ、寒河江出身、職業軍人で敗戦をむかえたのち、西川町弓張平に入植して開墾につとめました。炭坑などへの出稼ぎや花卉栽培の経験をへたあと、当地で錦鯉の養殖や高山植物の栽培をおこなっています。
 石原完爾のなまえが出てくるんじゃないか、と思った上での質問だったのですが、間髪入れず祖父からもどってきたこたえは「松田甚次郎……」という名でした。

 最上の地主のむすこで、宮沢賢治から直接教えをうけたこともあり、それを、郷土で実践したといいます。最上地方は、夏にも冷たい風が北東からふきこんでくるために、むかしからたびたび冷害にみまわれたところであり、昭和にはいってからも悲惨な年があり、娘たちの身売りがあったんだと、祖父は語ってくれました。そのようすが「新庄節」という唄としてうたわれ、全国にその名が知れ渡っているということでした。
 そのような土地で、理想を実現する努力をしていたひとりが松田甚次郎でした。戦後、実家へもどってきた祖父は、彼の著作『土に叫ぶ』を読む機会があり、そこで感銘を受けたのだそうです。

 これがわたしと松田甚次郎との出会いです。かれは、30歳ほどで亡くなったそうです。まだ、かれのことについては、知らないことばかりですが、彼のような人物(宮沢賢治もふくめ)が、わたしの祖父たち当時の人たちへあたえた影響は、無視することのできない大きなちからだったはず、という推測はできるだろうと思います。祖父は弓張平の開拓のはなしを語ってくれるとき、ブラジルへ開拓移住した仲間がいたことや、自分もブラジルへ行くことを強く考えたと、はなしていました。あるいはそれ以前、日本の歴史・やまがたの歴史の中で旧満州への開拓移民が大規模に組織されたことやそれ以降の政策のことも、祖父や祖母たちの年代のひとびとへ与えた影響は、とうてい想像でおぎなえるものではないだろうと思います。

「宮沢賢治は、生きているうちは評価されなかった……」と、さびしそうに語る祖父が、印象に残っています。



2001.12.11
志田


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