2005年10月1日、秋のガイドツアー「観音崎の近代化遺産を訪ねる〜灯台・砲台跡のウォッチング」に行ってきました。 ガイドツアーとは、横須賀市の要請したガイドによるツアーの様です。 いちを参加者の抽選があったようです。 料金は300円です。
観音崎は、第2次世界大戦前まで軍の要塞だったので、ここの近代化遺産は砲台跡になります。 江戸時代の砲台は台場というそうです。 1812年に会津藩が作った台場が観音崎の要塞化の初めらしいです。 実際には外国艦による東京湾の襲撃はなかったので、観音崎からの砲撃はなかった様です。
30分ぐらい前に観音崎のバス停に着くと、時間前ですが、先に来た人から6人ぐらいのグループで出発になりました。 最初のグループは横須賀市から来ていました。。
何でもバス停の付近に昔要塞の北門があったそうです。 初めに青少年の村に行きました。 管理人に断って中に入りました。 明治20年以降に建設されたと思われる旧軍の建物がほぼ原型のまま使われています。 下部のイギリス積みのレンガ構造が残っており、イギリス積みなので明治初期のものでないとわかるそうです(初期のものはフランス積みだそうです)。 建設当時は火薬庫で後に兵舎・診療所に使用されていたそうです。
次にトンネルを抜けて海上自衛隊の観音崎警備所に向かいました。
中には入れませんでしたか、外から丘の上に石積みが見えました。
南門第一砲台の横墻(おうしょう)(砲座側面の防御壁)だそうです。
日露戦争以後、日本は戦艦に力を入れた事と、関東大震災などで崩壊したため、多くの砲台が廃止されていったそうですが、
南門第一砲台は昭和20年まで残っていた砲台だそうです。 現在も要人が来た場合にこの付近で礼砲を鳴らすそうです。
さらに先に進み、観音崎自然博物館の手前の展望園地に行きました。 ここは南門第三砲台の跡だそうです。 本物かどうかわかりませんが、円形のコンクリートと中心部に砲を取り付けたネジがありました。 観音崎の方向を眺めると海に、陸から数メートル離れて、円筒状のコンクリート物体が見えました。 昔、東京湾に入ってくる潜水艦を監視するために、水中聴音所があったそうです。 これ以外にも走水から富津岬方向に防潜網という海中の網を張ってあったらしいです。
観音崎自然博物館の辺りに昔要塞の南門があったそうです。
余談ですが、現在の観音崎自然博物館の位置には昔観音崎ホテルがあったそうです。
観音崎自然博物館の前身はその先のたたら浜園地にあったそうです。
そのためゴジラの足跡が残っています。
昔はゴジラの滑り台があったそうです。
たたら浜はゴジラが上陸した場所という事になっているらしいです。
たたら浜の名前の由来は、製鉄に関係しているからとか、三浦一族の多々羅家が住んでいたからとか、複数の説があるそうです。
この先に道の脇にコンクリートの塊、トーチカがありました。 第2次世界大戦末期に米軍上陸に備えて作ったらしいですが、 トーチカはこれ1つしかないらしく、なぜ作ったかよくわからないそうです。 現在は開口部に鉄格子をはめて、観音崎自然博物館の倉庫となっているそうです。
道を戻って、北門第一砲台に向かいました。
この砲台は、地下部分は封じてありますが、ほぼ原型を留めています。
古くに作られたものだそうで、そのためレンガがフランス積みになっています。
北門第一砲台から先へ進むと観音崎灯台があります。 現在の灯台は3代目です。 初代灯台はフランス人技師のヴェルニーが建設した日本発の洋式灯台です。 江戸末期に国交を結んだのはアメリカが始めですが、アメリカは南北戦争をしていたためフランスからまねいたらしいです。 2代目は完成後5ヶ月で、関東大震災により崩壊したそうです。。
観音崎灯台から山の中を進んで東京湾海上交通センターがある場所が北門第二砲台跡です。
砲座は元々6つあり、通称「だんだん砲台」と言われていたそうです。
残っているのは3つだけです。 残り3つは、東京湾海上交通センターの土台などになっている様です。
東京湾海上交通センターの敷地の壁面には砲座の名残の石が残っています。
砲座に続くトンネルは、現在は東京湾海上交通センターへ車で行く道になっていますが、 中に弾薬庫の跡が残っています。
弾薬庫から砲座への通路もありますが、現在は塞がれています。
最上部の砲座の向かいに階段があり、その先の小山の上に観測所跡があるそうです。
観測所からの連絡は地下に埋められたパイプ(伝声管)によって行っていたそうで、実際に穴が残っていました。
蛇足ですが、東京湾海上交通センターの塔は観音崎灯台より高く、北側から見えないため、 東京湾海上交通センターと観音崎灯台と間違えている方もいるそうです。
北門第二砲台跡から尾根沿いに進むと、北門第三砲台跡へ向かう、ちょっと暗いトンネルがあります。
トンネル内には補修したと思われるレンガ積みがあります。
北門第三砲台跡の先には海の見晴らし台があります。
北門第三砲台跡には地震が原因と思われるひび割れ跡がありました。
砲台の左手側に弾薬庫があったらしく、砲弾を運び出す穴の跡が残っていました。
蚊に刺されて痒い中、さらに登っていくと戦没船員の碑があります。
毎年5月に慰霊があるそうです。
一角にレンガ造りの高さ50cm程度の壁が残っており、これが大浦堡塁砲台の跡になるそうです。
元はもっと深かったのを埋め立てたものと思われます。
戦没船員の碑から先に進むと山の中に橋がかかっています。 その下はかなりの高さの切り通しで、資材運搬のために軍が作ったものだそうです。 現在は通行できないようです。
橋の先にある「うみのことりで」は腰越堡塁砲台の跡になるそうです。
よく見れば遊具の間に円形のコンクリートが見えますし、レンガの構造も見えます。
ここも元はもっと深かったのを埋め立てたものと思われます。
ここで昼食となりました。
昼食は自分で弁当を持ってくることになっていました。
トンボの大群が舞う中でパンを食べてお昼にしました。
もっと先へ進むと防衛大学になり、現在の防衛大学の敷地内にも、昔、砲台があったそうですが、そこにはいけませんでした。
昼食後に「うみのことりで」から北側に下りて、三軒家園地に向かいました。
途中に門の跡や掩蔽部(地下庫)の跡がありました。
奥の藪の中に見張り所の跡があるそうです。
三軒家砲台は周辺の施設を含めて、かなり原型が残っていました。
砲座と砲座を結ぶ伝声管の一部はまだ通じていて、覗くと遠くに光が見えました。
残念ながら2つ目の砲座は埋められ、三軒家園地の入口となっていました。
三軒家園地は景色が良いところで、東京湾がよく見えました。 目に前に観音崎ホテルがあり、第三海堡の撤去工事現場、第二海堡、第一海堡、富津岬がみえ、 空気が澄んでいたので、ランドマークタワーやベイブリッジや、アクアラインとうみほたるまで見えました。
三軒家園地から観音崎ホテルの周りを回って、ツアーは終了しました。
ツアー終了後に観音崎ホテル敷地にある海洋深層水の露店風呂があるSPASSOに行って見ました。
料金は土日祝は大人1800円でちょいと高めです。
但し、料金には貸しタオルも含まれていました。
昼間から入る露天風呂は、景色もよく、気持ちよかったです。
Presented by Ishida So |