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山村流六世宗家 山村若
花の心風の姿(二)「ゆきを舞う心境に」
産経新聞
H15/7/29より

 山村流といえば、地唄舞。地唄舞といえば、『 ゆき 』。この演目を、私は一生舞わないと、心に決めていました。山村流の宗家を継いだからには、おいそれと舞うわけにはいかないと、言葉では表現できないプレッシャーを感じていたのだと思います。

  山村流の舞は、『 水の流れのように 』よどみなく舞うことを身上としています。「 何にもせんと立っときなさい! 」と、稽古で祖母に叱られたものです。息遣いが伝わるほど、身近な空間である座敷にて舞われたこと、地唄が盲目の音楽家によって、精神の解放を得んと心の深淵に向かって作られた音楽であることが、体の動きを抑制し、精神性を重んじた理由なのでしょう。

 地唄舞の持つ《 動かざる動き= 動七分身、動十分心 》を当時の私が体現できるはずもありませんでした。

 母と祖母を失ってからは、大叔母・久子 ( 祖母の妹 ) と若禄次夫婦が、門人とともに、何かと若年の私を支えてくれました。私には、自分に流れる血を信じるほかはなく、同じ山村の家に生まれた大叔母が必ず、舞台の袖で見守ってくれたことが怖くもあり、何よりの心の支えでもありました。誰よりも勝気で元気だった大叔母が、今春、突然に世を去り、その後を追うように、三世宗家よりの門人で、流儀の最高弟であった若津也が亡くなりました。

 『 幕が降りしなのおじぎの間 ( ま ) 、よかったでっせ』― 山村流の四天王と呼ばれた若津也に、直接褒められたのは後にも先にも、これっきり、二十歳の時でした。孫ほどの私を『 宗家 』と率先して立て、私の舞台に可能な限り、足を運んでくれました。上方舞の一番華やかだった時代を生きてきた二人でした。

 歌舞伎や文楽、宝塚歌劇の振付をさせていただくうち、男の私が究極の女性美を表現することも可能かと、『 ゆき 』を舞ってみたくなりました。二人に観てもらえなかったことが残念でなりませんが、いまは、この心境の変化と別 れが、無関係であったとは思えないのです。

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