産経新聞
H15/8/12より |
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流祖・友五郎の名が、振付師として初めて歌舞伎番付に載った文化三 ( 一八〇六 ) 年を創流の年と定めているから、山村流は、まもなく二百年祭を迎える。そのデビュ―作『 覚めてあふ羽翼衾 ( つばさのふすま ) 』の台本が池田文庫に残っていることが近年になって分かった。
歌舞伎、座敷舞の『 舞浚え ( まいざらえ ) 』の興行、『 練(ね)り物 』と呼ばれた祭礼の演出と、友五郎は晩年『 吾斗 ( ごと ) 』=われひとりと名を改めたというだけに大阪の舞踊界を席巻していた。『 練り物 』とは、芸妓たちが色々な扮装をして街を練り歩く行事で、友五郎の選んだ衣装を身にまとった芸妓の姿の横に『 吾斗好み 』と記されている浮世絵も残っている。彼は当時のファッションリーダーでもあったのだ。
実子がなく、養子養女を迎えた友五郎は、養女達のためにと、座敷舞を手がけたのではと考えられている。養女の一人 登久の孫が三世宗家を継ぎ、その孫が、四世宗家・若 ― 私の祖母である。女性の手に渡ったことで、山村流の主流は、座敷舞となっていくが、歌舞伎とかかわりも強く、三世宗家はわずか十四歳で、歌舞伎の振付に入ったという。
昨年、義太夫『 仕丁 ( じちょう ) 』という流祖振付の作品を四十年ぶりに復活した。歌舞伎『 吉野山雪の故事 ( ふるごと ) 』の中で、泣・笑・怒の三上戸 ( じょうご ) を用いて舞い分けるコミカルな景事 ( けいごと=芝居の中の舞踊 ) だ。歌舞伎役者だった大叔父 ( 若禄次 ) が、その台本を持っていて、実際の舞台を観ているから、大いに助けてくれた。大阪の名優・市川右団治丈の三ッ面が我が家に譲り受けられていたこと、文楽人形遣い・吉田文五郎師 ( 難波據 ) の娘で今は亡き高弟・若栄が義太夫の節を残し、その門人が振りを覚えていたことなどで実現出来たのだ。
文部科学省の21世紀COEプログラムに採択された早稲田大学では演劇研究センターが創設され、東西の歌舞伎舞踊を研究対象とし、関西では『 覚めてあふ羽翼衾 』が選ばれた。遺された一冊の台本の蘇る日が、夢ではなくなったのだ。
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