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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

南会所町


Tourist guide to Jinaimachi town, Tondabayashi, a historic district and heritage site of Japan - Minami-Kaisho-cho street
宗教自治都市(寺内町)の町割

重要文化財・興正寺別院(富田林御坊)を中心に門前四周に七筋八町の碁盤目状の町割を整備した。南北の通りを「筋」といい、東西の通りを「町」という。今も戦国時代そのままの町割が残されています。

筋は東より西へ数えて、東筋、亀が坂筋、
城之門筋、富筋、市場筋、西筋の六つを数え、今ひとつの筋は、他の筋よりやや狭く筋通りも規正のままに取り残され、筋の名も逸している。

町は北から南へ数え、
壱里山町富山町北会所町南会所町堺町(堺筋)御坊町西林町東林町の八町名を数える。宝暦3年(1753年)から安永7年(1778年)の間に林町が東西二町になり、一町が加わり六筋八町となりました。 
 
北野家住宅
  
北野家住宅・虫籠窓
 
北野家住宅

石田家住宅(旧・万里春酒造)・酒蔵
地元銘酒「万里春」の蔵元であったが、現在は製造・販売されていない。

田守家住宅
現在は借家として利用されている土蔵(木綿蔵)
 
あて曲げの辻城之門筋南会所町

 あて曲げの辻城之門筋南会所町
 
Laid Rock Cafe(城之門筋南会所町
 
用心掘(暗渠)に架けられた石橋城之門筋
 
(南)葛原家住宅

 (南)葛原家住宅・三階蔵(各階に水切り小庇)
 
(南)葛原家住宅
 
(南)葛原家住宅・格子窓(連子窓)

(南)葛原家住宅・忍び返し

(南)葛原家住宅

(南)葛原家住宅・持ち送り
 
(南)葛原家住宅荒格子と玄関脇の持ち送り
 
(南)葛原家住宅・稚児棟・一の鬼(富筋)

葛原家住宅 
 
葛原家住宅玄関脇の持ち送りと昔ながらの牛乳箱

葛原家住宅

葛原家住宅・富筋
 
葛原家住宅・富筋
 
葛原家住宅高い杉板壁が特徴的な土蔵(富筋)
 
薬師堂(恋文薬師)
 
薬師堂(恋文薬師) 
 
奥山家住宅(別宅、20世紀初期)・本町筋
 
奥山家住宅(別宅、袖うだつ)・本町筋
 
奥山家住宅・本町筋
 
浄谷寺口(手前から弁天堂、鐘楼、本堂)
浄谷寺(じょうこくじ)鐘楼 
浄谷寺・浄谷寺口の坂道からみた鐘楼

浄谷寺

Information

南会所町
江戸時代末期から明治初期の頃の町割図を見ると、葛原家住宅の東側に当時は会所があったことが記されている。これが通りの名前の由来になっている。会所跡地は現在、駐車場になっている。この通り沿いには、(南)葛原家住宅の見事な三層蔵をはじめとして、造り酒屋だった旧家の酒蔵・米蔵がいくつも立ち並び、江戸時代に酒造業で栄えた富田林寺内町を偲ぶことができる。


地元の銘酒・万里春(ラベル)

金剛山を水源にした豊富な伏流水(硬水)に恵まれた富田林寺内町では井戸水を利用した酒造業が江戸時代から発達し、明治初期には石田家をはじめ、杉山家(重要文化財・旧杉山家住宅)仲村家(大阪府有形文化財・仲村家住宅)、葛原家、橋本家など10軒の造り酒屋がありました。

石田家は、杉山家や仲村家から酒造株を分与されて明治時代に近隣の東板持から富田林寺内町に移り住んだ造り酒屋です。杉山家から江戸時代の酒蔵が移築され、昭和51~52年頃まで残っていたものの建物の傷みが激しくなり取り壊されています。

地元酒造業は、昭和初期の経済恐慌の前後に多くの蔵元が廃業していった中で、石田家は戦中・戦後も地元で唯一の造り酒屋でした。戦中期には軍需用貯蔵タンク工場として使用されたこともありました。

葛原家住宅
葛原家は奈良県吉野郡十津川村(とつかわ)の元郷士で、天明元年(1781年)頃に当地で酒屋を始めたと伝えられている。しかし、現在の母屋が建てられたのはそれより後で19世紀の初め頃の再建と考えられる。


(南)葛原家住宅・三階蔵

酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

薬師堂(恋文薬師)
天保10年(1830年)建立
安置されている乾漆座像の薬師如来像は信者の若い男女の恋文を漆で貼り重ねて作られたと伝えられています。

薬師如来由来(浄谷寺)
浄谷寺境外地(南会所町)に安置される薬師如来は、乾漆座像で胸に赤い卍が描かれ、特に衣などの美しい曲線は芸術的です。聞き伝えによれば、仏像は信者の若い男女の恋文で貼り重ね、その上に漆を塗り固め、金箔を押した像であるとのことです。

慈悲深いお顔に村人の悩みや願い事をかなえていただき、また子供が産まれれば母乳が多く出るように最初の母乳をお供えし、子供の元気な成長を祈るなど多くの人々の厚い信仰を集めています。

明治以前の大祭には、初夏の風情あふれる水饅頭、植木市、時代人形の出店をとりまいて、詠歌踊りなどにより連日盛んな催しが行われ近郷近在の人々から無病息災、身体堅固の守護仏と崇められました。しかし、明治の廃仏毀釈にあい、その管理が一時、庄屋(葛原家住宅)に移管され、また名前を煙草屋薬師とも云われ、世に慕われてきました。(富田林教育委員会)


(富田林市提供、禁無断転載)


重要伝統的建造物群保存地区
富田林市富田林町の一部にあたる寺内町は、1997年(平成9年)に国から重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。大阪府下では唯一の指定となっています。 

寺内町にある約500棟の建物の内、江戸時代から昭和初期頃までに建てられた181棟の建造物が伝統的建造物に特定されています。保存地区内において通常道路から見える建物等の外観の現状を変更(増改築、改修、模様替え、色彩の変更、新築、除却など)する時には、予め市教育委員会・文化財保護課に申請して許可を得る必要があります。伝統的民家(町家)は白壁、板塀、格子戸など往時の姿のままに外観の保存・復元・修景作業を終えて、今も人々が生活の場として暮らしながら、素朴で静かな佇まいを今に伝えています。

寺内町の主だった商家には由緒・由来を記した案内板が設けられ、石畳の街路には路面灯を兼ねた道標や案内標識なども整備されています。電信柱の配置や各戸の電気メーターなどもできる限り目立たないような工夫が施されています。

また、寺内町では伝統的な町並み景観に配慮して、新しく建築される建物も周囲の景観に調和した外観となっています。

寺内町の歴史(略年譜)
1561年 富田林寺内町の誕生
    (興正寺別院開基) 
1574年 浄谷寺、富田林移転
1582年 本能寺の変
1580年 豊臣秀吉 天下統一
1600年 関ヶ原の戦い

1608年 妙慶寺開基
1615年 江戸幕府の天領
1638年 興正寺別院本堂再建
1644年 杉山家住宅建造
1688年 51業種149店舗が商売

1720年頃 妙慶寺本堂再建
1751年 防火用心石碑
1753年 木口家住宅建造
1775年 町割が六筋八町に
1782年 仲村家住宅建造

1830年 浄谷寺本堂再建
1853年 吉田松陰、仲村家に逗留
1854年 (南)葛原家三階蔵建築
1868年 明治元年
1875年 大久保利通 杉山家訪問
1883年 警察署、郡役所富田林へ
1898年 河陽鉄道富田林開通

1923年 大阪鉄道があべの橋開通
1926年 金剛自動車運行

1947年 農地改革
1957年 府教育委員会 町家調査
1983年 旧杉山家住宅 重文指定
1986年 城之門筋 日本の道百選
1990年 仲村家住宅 府文化財
1997年 重要伝統的建造物群保存地区選定

2007年 美しい日本の歴史的風土     百選
2009年 都市景観大賞「美しいま     ちなみ優秀賞」受賞
2014年 興正寺別院 重文指定
2018年 関西まちづくり賞受賞
2018年 重要伝統的建造物群保存地区・西側に選定地区拡大

 
富田林御坊を中心に門前四周に七筋八町の碁盤目状の町割を整備した。南北の通りを「筋」といい、東西の通りを「町」という。筋は東より西へ数えて、東筋、亀が坂筋、城之門筋、富筋、市場筋、西筋の六つを数え、今ひとつの筋は、他の筋よりやや狭く筋通りも規正のままに取り残され、筋の名も逸している。町は北から南へ数え、壱里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、御坊町、西林町、東林町の八町名を数える。宝暦3年(1753年)から安永7年(1778年)の間に林町が東西二町になり、一町が加わり六筋八町となりました。
東高野街道
寺内町の町割(都市計画)
城之門筋(日本の道百選)
壱里山町
富山町(とみやまちょう)
北会所町
南会所町
堺町(堺筋)
御坊町
林町
 寺内町の建築様式
 屋根・屋根瓦
 虫籠窓
 格子窓
 土蔵
 煙だしの越屋根
 鐘馗さん(魔除けの瓦人形)
 袖うだつ

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