そうして歯車は回る、
この必要以上の負担にギシギシ鈍い音を立てながら(東京〜大阪)

2003年12月29日・30日 搭乗車種:タウンエースノア

なぜ1号線か
真夜中の東名
日本橋、将門塚、そして駐車場

横浜の魔

歯車は回る
箱根の山は天下の険

静岡と清水と丸子

桑名、堰のある風景

関と鈴鹿

瀬田〜京都
終着点
後日談




 私はよくよく放浪好きな性質らしく、ヒマと金の許す限りはあっちへフラフラこっちへフラフラしている。どうやら、目的地に向かって走るというよりは、純粋に移動する事が好きらしい。もともと愚にもつかない放浪記であった旅ネタコンテンツだが、今これを読み返してみると、「旅行記」にも、必要以上に道に関する記述が多い。そこで4ヶ月ほど前にこれを2分割して、ドライブレポートを新設した次第である。最初は中山道伝いに名古屋から長野まで走る国道19号線から入り、同じく名古屋発のお手軽国道22号線を走った同企画だが、早い段階で片付けておきたい路線もあった。それが国道1号線である。何しろ番号が若い。しかも、実家からは最寄の国道で、高校時代などは、毎日ここを横切って通学していたものだ。

 2003年12月29日未明。正月休で帰省していた実家を出る。底冷えのする冬の真夜中、我が家の駐車場に静かにたたずんで出番を待っていた、タウンエースノアに乗り込んだ。フロントガラスには霜が降りていた。実家の駐車場から走り出す時、いつもかつての愛車Exivを思い出してしまう。

 少し走って1号線へ。ほんの少し進んだところで151号線に入り、東名豊川ICに向かう。途中のサークルKで烏龍茶を買い、一心地ついたところでBGMをかけた。夜が異様に似合う(と、個人的に思っている)鬼束ちひろである。そこから10分と走らぬうちに東名に乗った。高速道路に入ってみると、真夜中だと言うのに車が多い。時計を見ると、AM3:00少し前。6時過ぎの日本橋着を目指し、意気揚揚と出発……のはずだったが、スピードが乗ってくるあたりで、豊橋検札所がある。道半ばに、とってつけたように存在する検札所は、今のところここ以外は知らない。何か歴史的背景があってのことだっただろうか。なお、近くの案内標識では「豊橋料金所」となっているが、別に金は取られない。人騒がせである。

 夜のドライブは、沈思黙考にふけるには都合が良いが、景色を楽しむと言う行為とは程遠いものだ。別に、今この時とは何の関連性もない、心に移り行く由無し事に思いをいたしているうちに、富士川SAに着いた。ここは夜なら富士市の夜景がきれいだし、昼ならば富士山が美しい展望スポットだ。なるほど、真夜中だが街灯りがきれいである。記念にその光景をデジカメに収めておこうと思ったが、今やカメラ付きケータイに追いつかれてしまった我がデジカメの性能では、黒洞々たる闇が映っただけだった。思えば、明石海峡大橋(関西編参照)や明智光秀の石灯籠のときも同じような失敗をした記憶がある。気を取り直し、ここ富士川SAで朝食(?)を摂った。今を去る事4ヶ月あまり前にここへ来た時は(甲斐路編参照)、富士川ラーメンを喰ったが、今回はオーソドックスなカレー。時間が時間なので、レストランではなくフードコートしか営業していなかった。

 さて、富士川SAを出て、再び東を目指す。実は沼津IC以東を走るのはこれが初めてだった。沼津は箱根の山の西麓に開けた街で、東名高速は箱根の山を迂回するように、北の御殿場市へ向かう。初めての北進なのに、相変わらず景色は黒一色。再び取るに足らないことを考えながら、海老名SAにたどり着き、今度は車の腹ごしらえをする。東の空には朝焼けが見えた。

 AM6:00頃、東京ICを降りた。いや、降りたと言って良いものかどうか。有無を言わさず東名終点の料金所を通らされてからも、相変わらず高架道路が続く。首都高に乗りたいのだが、一体どこへ行けばいいのか。戸惑いながら進んで行くと、いきなり首都高の入り口が。まったく、田舎者は首都高に入るだけでも、大都会東京の片隅で人知れずキョドる始末である。都会的に洗練された一千万東京都民の嘲笑が聞こえてくるようだ。ちなみに、時間が遅い(?)せいか、首都高バトルは行われていなかった。おっかなびっくり進んでいたため、どこで降りたかも記憶が判然としないが、どうにか日本橋近くのランプで首都高を降りて駐車場を探していると、兜町・証券取引所近くに24Hパーキングを見つけた。看板を見ると、1時間100円……。異常な価格設定である。あとから、「サービス料」とか言って余分にふんだくられるのではあるまいか?恐るべし、東京砂漠。恐るべし、死にたいくらいに憧れた花の都・大東京。油断は禁物だ。隙を見せたら、殺られる。

 ところで、ことに経済関係のニュースなどでよく耳にする兜町と言う地名は、平将門公の兜を祀った兜神社に由来する。積極的に訪ねようとしていたわけではなかったが、駐車場がたまたまこの神社の近くだったらしい。日本橋に向かう途中で、兜神社の前を通りかかった。小さな神社である。将門公には、あの伝説のせいか、将門塚をはじめ各地に点在する首塚、岐阜県大垣市にある御首神社、そしてこの兜神社など、首にまつわる信仰が多い。今、思いがけず兜神社を見つけたわけだが、ここで一時下車した目的は3つ。一つはもちろん、日本橋と、そこにある日本国道路元標の撮影、第二に将門塚参拝、そして江戸城見物である。

 日本橋は、神社から少し先に進んだところにあった。まじまじと見るのはこれが初めてだが、明治の面影を残すエキゾチックな装飾の施された橋である。東京は、無味乾燥な大都会のようでいて、ところどころにこういった周辺とは異質な空気を持った場所が存在するから不思議である。日本橋のたもとには交番があったが、あえてそこに詰めているお巡りさんとは話さず、表の地図のみで将門塚と江戸城への道順を確認した。こんな中途半端な時間に、江戸城、またの名を皇居千代田城への道順を、怪しげな風体の男が、こともあろうに警官に尋ねようものなら、職質ものだろう。交番内のお巡りさんの視線を痛いほど感じつつ、日本橋を渡って道路元標の広場へ。元標の写真を撮ろうとしていると、おのぼりさんのオーラを感じ取ったのだろうか、道行くビジネスマンが撮影を申し出て下さった。が、ウィークデーにビジネスもしていないマン(冬季連休中でした)としては、あまりに恐れ多かったので、せっかくの申し出を辞退させていただきました。

 次に向かったのが将門塚である。思っていたよりも奥行きがなくて、往来から塚の上の石碑までの距離は短かった。いいとこ10mほどだったろうか。だが、植え込みでさえぎられているせいか、実際以上に表通りからの隔たりを感じた。三方をビルに囲まれているため、さすがに暗い。来よう来ようと思いながら、ついぞその機会がなかった場所である。せっかくだから過去最高額のお賽銭をし、この旅の無事を将門公に祈願した。念入りに拝んでいたところ、気が付けば参拝待ちの方が二人ほど後ろについておられたようだった。予想外の事だったので、印象に残っている。ところで、将門塚からは皇居(江戸城)が近い。タイミングが悪かったのか、常日頃からそういうものなのかは定かではないが、このときはあまり中までは入り込むことができず、外堀伝いに遠目から眺めただけだった。各所の門に詰めている守衛さんの鋭い視線が印象深かった。江戸城の概要については、お城スコープ参照のこと。

 日本橋を発ったのは8:30頃だった。例の駐車場には特に裏があったわけでもなく、普通の、良心的な駐車場だったようである。走り出してからも、渋滞に巻き込まれたりする事なく、順調な滑り出しであった。何はともあれ、次なる目的地は横浜市・戸塚にある妙秀寺である。ここには、「左りかまくら道」と言う、安藤広重の東海道五十三次戸塚宿にも描かれた道しるべが残っている。

 横浜は安政5(1858)年に日本とアメリカの間で日米修交通商条約が締結されたのを期に開かれた4港の一つである。同時期に開港された中には同じく港町として知られる神戸も含まれている。以来150年近くもの間、「みなとよこはま」として発展し続け、今では350万都市となっている。開港当時は淋しい寒村だったそうである。風の噂によると、旧友K・K氏の現住所が横浜であるとかないとか。今回は国道1号線の旅という縛りがあるため、港を通る事はない。1号線は、横浜の海沿いを走らないのである。また、ちょっとした高台から見た印象では、高層ビルが林立するような地区もさほど目立たなかった。目に付くとしたら、みなとみらいだろうか。

 戸塚区は横浜の中でも内陸側、南西寄りに位置している。目指す妙秀寺は戸塚駅から近い。事前にネットで詳細地図を出していたので、場所はわかるはずだが、どうも、狭く入り組んだ路地沿いにありそうな気配である。果たして妙秀寺は、付近の住民しか行き来しないような細い道の突き当たりにあった。寺の前の道に至っては、車が一台通ればいくらもスペースが残らないような始末、間違っても対向車とのすれ違いはできまい。あわよくば近くの道に車を停め、急いで物を拝見しようと思っていたが、仕方がないのでお寺の参拝者用らしい駐車場を使わせてもらった。「左りかまくら道」の碑だが、上部が大きく欠けていること、また、広重の絵そのものが実物に脚色を加えたものであるため、想像していたものとはずいぶん印象が違う。表面は、風雨によって削られてしまったのだろうか、石に掘り込まれた文字がずいぶん薄くなってしまっているが、長らく路傍に立っていた年季は伝わってくる。果たしてデジカメできれいに撮影できるかどうか不安だったが、これをカメラに収めた。そして、言い訳がましくお参りをすると、早々にその場を退去した。短いスパンで将門公と仏様に詣でた尻軽さが、我ながら情けない。

 戸塚を過ぎれば次は箱根まで止まりの予定はない。1時間30分程度は走り詰めになる予定だった。が、この戸塚〜箱根間がまさしく今回の旅における魔の区間だった。ここで散発的な渋滞に見舞われた以外は、大津と大阪の一部でしか渋滞に遭遇しなかったほどである。それはまた別の話し、手始めに戸塚の駅前で渋滞に巻き込まれ、予想外に長い行程が始まった。

 横浜脱出に思った以上の時間をとられながら、茅ヶ崎市に入る。茅ヶ崎といえばサザン。BGMは『希望の轍』。そのメロディーも心地よく、松並木や海岸近くの道を行く。このあたりまで来ると、さすがに東京メガロポリスの雰囲気も消える。東京の都心部は、田舎者には物珍しいが、走るにはこういう道の方が気持ちいい。ぽつぽつと流れの悪くなる区間を経験しつつ、小田原の街に入った時、CDプレーヤーではミスチルディスクが回っていた。そして、小田原を横切り、箱根口に取り付いたとき、再び渋滞につかまった。この旅最大の渋滞であった。横合いの山の斜面を走る箱根新道に入れば、一気に峠を越えられるのだろうか。そう考えると、1号線の旅という縛りが恨めしい。このタイミング、遅々として進まない車列の中で聞いたのが「くるみ」である。この時、初めてちゃんと聞いた気がする。詞の印象がかなり強烈だった。『今以上をいつも欲しがるくせに/変わらない愛を求め歌う/そうして歯車は回る/この必要以上の負担に/ギシギシ鈍い音を立てながら』。考えてみればこの車も、必要以上の負担(何らの必然性もない無目的な旅路)に、ギシギシ鈍い音を立てながら歯車(ギア)を回しているのかもしれない。強く感じ入るものがある。そもそも、もっと深い部分に響いてくるフレーズであり、桜井さんは復活すべくして復活した人だったのだなあと痛感。この時をもって、今回のテーマソングは『くるみ』となった。

 箱根湯本の駅を通り過ぎたあたりで、渋滞は解消した。何が渋滞の原因だったのかはよくわからない。旅館街ゆえの自然渋滞だったのだろうか。

 さて、箱根である。箱根火山はいわゆるカルデラをそなえた火山なのだそうだ。火山活動がはじまったのが約40〜50万年ほど前、そしてその後20万年ほどすると、火山活動の開始から20万年をかけて成長した山が陥没してカルデラが出来上がった。そして、そこに水がたまり、芦ノ湖の原型が出来上がった。とは言うものの、この初期カルデラ湖はかなり巨大なもので、現在で言う外輪山の内側全体に水がたまっていたと考えてよさそうだ。そして箱根火山は、その後も何度かの活動期を繰り返し、その時の噴出物によって巨大なカルデラ湖が埋め立てられ、現在の芦ノ湖とその周辺の地形が形成された。これが3000年程前の出来事である。事ほど左様に、箱根を象徴するものの一つが芦ノ湖である。ただ、せっかくの風光明媚の地なのに、反射的に、ここで大輪の華を割かせていたビオランテを思い出してしまうのが悲しい。できればここでは、大涌谷や箱根神社などにも行ってみたかったのだが、あまりにも時間が押しているので、とるものもとりあえず、せめて関所にだけは立ち寄っていく事にした。

 箱根の山は、「天下の険」と歌われた急峻な山道と共に、関所でも有名だった。同じく東海道の新居、中山道の木曽福島や碓井と並んで四大関所の一つに数えられている。特に目を光らせていたのが、いわゆる「入り鉄砲と出女」だ。江戸に持ち込まれる武器と、江戸から逃げ出す大名の子女(将軍家にとっては体の良い人質)にはひときわ厳しい関所だった。個人的におもしろいと思うのは鉄砲の方である。刀などは、「腰のもの」と呼ばれ、武士が当たり前のように携行していたのとは対照的である。そちらもかなり危険な気がするのだが、あまりにも当たり前すぎて無頓着だったのか、現在のアメリカのように今さらどうしようもないという感じだったのだろうか。鉄砲の脅威に対抗するためなのだろう、関所近くの村人は、鉄砲の所持を許されていたそうである。もし関所破りが出た時などは、この鉄砲を携えて山狩りをしたそうな。見つけたら射殺もやむなし、さしずめデッドオアアライブといったところなのだろうが、関所破りはそれほどの重罪だったわけである。ところが、重罰が科せられたせいか江戸期通して関所破りは意外と少なかった。関を管轄する小田原藩が、本来なら関所破りになりそうなところをミスコース扱いにしたりして、判定を甘くしていたそうである。そのような資料と、関所跡では良く見かける、人形によって当時の様子を再現した展示物があった。

 冬の日は短い。時間はまだ3時少し前だったが、すでに太陽は西の空に傾きかかっていた。箱根の西道を下っていると、駿河湾の水面が西日を受けてきらきらと輝いている。直射日光と照り返しの二方向から目を眩まされている気分だ。ここまで来て初めて、富士山をカメラに収める事ができた。今までも何度か富士の良く見える場所はあったが、車を停める事ができなかったり、光学ズームを使えないというカメラ側の弱みから撮影できなかったりで来ていたのである。今回、一応自分の自由になる車だったので、運転しながらでも撮影できるような小細工がしてあったのだが、すでに仰角では撮影できないという弱点が露見していた。

 箱根の山を越えると、そこは静岡県三島市だ。ここではできることならば三島大社に寄りたかったが、時間的な余裕がなかったので、それは断念した。渋滞さえなければこの先、由比、薩た峠あたりを見ていきたかったのだが、それも無し。日があるうちに何とか丸子の丁字屋を見ておきたかった。

 丸子は静岡市の西部にあった宿場である。山の中に入り込んだ場所だったため、とろろ汁が名物であった。丁字屋はその老舗で、白味噌で味をつけたとろろ汁がうまいのだという。また、その歴史の古さにふさわしく、広重の絵のモデルにもなっている。静岡県内では1号線のバイパス化が進んでおり、三島から静岡市までも、高速道路のような規格の道で一息に行けてしまうほどだが、実は静岡市内に入ってからが曲者である。目的地・丸子が含まれる静岡市だが、清水市との合併でかなり巨大化している。静岡市と清水市は、形の上では対等合併で、合併後の新市名は多数決により決められた。ところがこの多数決も、旧市制時の規模に応じて投票権者数が決定されたために旧静岡市勢力の方が旧清水市勢力よりも多くなり、果たして新市名が静岡市となった経緯がある。甚だ不公平感の残る決議となったそうだ。こうして県下第一の大都市となった静岡市であるが、ただでさえ物理的面積が広いのに、かてて加えてバイパスでまで渋滞が発生したのだからさあ大変である。渋滞そのものはどうにか回避したものの、迂回路も1号線である必要があったため、何kmか前にバイパスと分岐した本線を探さなければならなかった。この車にはナビが付いていない。地図でいちいち経路を確認しながら、相応のタイムロスもし、どうにか山梨帰りの時に走った記憶のある1号本線に乗る事ができ、再び西に向かい始めた。静岡の県庁あたりを過ぎた頃はまだ日もあったはずだが、丸子近くまで来るとすでにかなり暗くなっていた。タイミングとしては日の入り直前なのだろうが、太陽はすでに山陰に隠れて見えない。丁字屋は1号線から少し奥に入ったところにあるらしく、こう暗くてはすんなり見つけられるかどうかが不安だったが、ちゃんと看板を出していた。観光ガイドマップならばおそらく記載されているであろう丸子梅園の、すぐ近くだった。年の瀬のせいだろうか、戸の閉ざされた丁字屋の佇まいもかろうじて、本当にかろうじてだが、撮影できた。

 本来の予定であればこのあと、日坂の夜泣き石や掛川城などを見て、時間に余裕があれば浜名バイパスから潮見坂にかけての風景も見ておこうかと思ったが、丸子を発つ頃にはすでにヘッドライトを点灯せずには走れないほどの暗さになっていた。すっかり夜の帳が下り、暗闇の中を伸びる1号線の上を家へと急いだ。こう暗くては、もはやレポートもへったくれもない。1号線レポートがβ版となっているのはつまり、静岡県中西部の情報密度があまりにも薄いためである。こうして、1号線の旅道半ばとは言え、どうにも、旅先というある種の緊張感と、旅情の二つに欠ける実家泊。明日に備える。

 希望の数だけ失望は増える。それでも明日に胸は震える。「どんな事が起こるんだろう?」。想像してみるんだよ。

 翌朝7時。日のあるうちにゴールにたどり着きたいので、東の空が白々空け始めてくるのを見計らってから出発。1号線はすでに愛知県に入っている。なんと言っても我がホームである。沿道風景は、見ようと思えばいつでも見られるものばかり。従って80km以上先の三重県桑名市まではノンストップだ。通常は豊橋名古屋間を下道で2時間、そこから桑名まではさらに1時間といったところなのだろうが、仕事納めの翌日で、朝っぱらから道をうろつく車も少なく、桑名まで2時間強でたどり着けた。愛知県内の1号線は以前に良く走っていたが(北国街道編参照)、名古屋以西は同じ2003年の春に吉野へ向かう時に走ったのが始めてで(関西編参照)、この旅はその時以来の1号線ドライブだった。

 前回は単なる通過点に過ぎなかった桑名だが、今回は熱田のものと対をなす七里の渡し跡を見に行った。上物がないため、「向こう岸」に比べてあっさりとした印象である。むしろ、渡し場が面している川の上流にあった巨大な建造物が気になった。実はこのときまで知らなかったのだが、この建造物こそが長良川河口堰だった。全国ニュースではともかく、東海三県のローカルニュースではほんの数年前まで盛んに取り上げられ、建設の是非をめぐり侃侃諤諤の論争を呼んでいたものだ。清流と言われていた長良川の自然に、重大な悪影響を及ぼすといわれていたのだ。そして、これは長良川河口周辺で漁業を営んでいた人たちにとっても切実な問題となっていた。ところが、いざ出来上がってしまえば、あまりにも普通にそこにあるものだ。最近では地元マスコミにさえ滅多に取り上げられなくなっている。何となく、「やった者勝ち」という言葉を連想させて心寒い。そして、堰の名前だけは知っていてもそれがどこにあるのか知らなかった自分も、考えてみれば寒々しい。桑名から先へ進み、四日市市に入った時、青い空に真っ白な煙を吐き出す煙突が見えた。かつてこの街では公害が深刻な問題となり、現在はそれを乗り越えている。終わった事なのだから今さらそれをあげつらう必要もないだろうと思う反面、どこかで本当にそれでいいのだろうかと感じる部分もある。結局、どうするべきなのかはよくわからない。

 四日市の道沿いで吉野屋を見つけ、そんな思いも雲散霧消した。あの桑名の七里の渡し近くの旧東海道沿いで、しぐれ蛤の、甘辛いタレで煮付けられたであろうことを思わせる香りをかぎ、反射的に吉牛(!)を連想して以来、自然破壊がどうのとか公害がどうのとかの話と同じく、心の奥底に澱んでいた牛丼を食いたい欲望が、ある種高尚とも言い得たかもしれない思索に打ち勝ってしまったのだ。まぁしかし、人間なんて所詮そんなもんである。例えば、有史以来、その成功の如何を問わず多くの革命があったが、その多くの成否を握っていたのは、圧倒的大多数の大衆が食うに困っていたか否かということである。一部指導者のこぎれいな理想論で飾られたイデオロギーなどは、とどのつまりは刺身のツマなのだ。人間にとって「食」という行為は、それほど切実な意味を持つものであり、「万物の霊長」などとのたまったところで、要は毛のない猿の思い上がりに過ぎないのだ。そんな毛のない猿の一個体が、天下国家を論じるような真似より、己の食欲に正直である事を優先したとて、何ほどの問題があろうか。

 などと、自己弁護のために人類という種全体の尊厳を貶めるような暴挙に出た2003年師走の終わりのある晴れた朝、喰うものを喰って先に進み、亀山城のある亀山を過ぎて鈴鹿郡関町にたどり着いた。前回の吉野(及び大阪・姫路)行きでは、ここ関町にある道の駅関宿を過ぎたあたりで1号線を外れて25号線に入った。今回は、道の駅で適当に休憩を取りつつ、周辺情報を探ってみた。このあたりには歴史国道東海道関宿があるのだが、前に来た時は現地を見もしないまま、うやむやの内に関を発っていたのだ。歴史国道とは、国道という名は付いているものの、いわゆる国道とはまったく異質の存在で、専ら歴史を感じさせる古い道が指定されるもののようだ。旧時代の道だから、多くは自動車交通向きではない。私がこれまで出かけた中では、木曽路編の馬籠、甲斐路編の海野、今回は脇を走り抜けただけの由比などがそうだ。道100選とは違って、選定基準のベクトルがある程度一定方向に定まっているため、同じ歴史国道の中での優劣は露骨に出そうだが、関宿はまずまず趣があったように思う。妻籠・馬籠ほど圧倒的ではないが、歴史を感じさせる木造りの街並みだった。

 関は、鈴鹿山脈の東側に控える宿場だった。従ってこの先は、鈴鹿の山道を登ることとなる。現在の鈴鹿山脈は、べらぼうな急登ではないが、登り区間は結構長い。かなり広くつくられた道を、大型トラックがスピードをあげて上っていくようなところだ。

 鈴鹿峠はひとつの見所としてとらえていたものの、このあたりでは特別どこかに寄ろうという心積もりはなかった。関を過ぎたら大津にある瀬田の唐橋までは止まらないつもりだった。しかし、途中の水口町を通りかかった時、ふと水口城に立ち寄ろうという気になった。ところが、地図を使って城の位置にだいたいのあたりをつけてみたまでは良かったものの、地図だけでは細い路地までは補足できず、訳のわからない道に迷い込む始末。最終的にはどこぞの中学の隣の、転回するスペースもない1本道に追い込まれてしまった。仕方なく、数十メートルの距離をバックで戻り、スペースを気持ち広く使える曲がり角で、数回の切り返しによって方向転換に成功し、事なきを得た。思わず知らずのうちに、我が運転技術も向上していたものよ、と一人悦に入っていたが、のちにこの慢心が悲劇を呼ぶ。それはさておき、どうやら水口城と縁がないらしいことを悟った私は、城をあきらめとっとと先を目指す事にした。

 それからなんだかんだで小一時間、琵琶湖の南・瀬田川にかかる瀬田の唐橋までやって来た。この橋は、国土交通省選定の道100選に選ばれているほか、日本三名橋の一つにも数えられている。このサイト内でなんだかんだと話題にする事の多かった俵藤太の百足退治伝説で知られる橋で、現地にはその伝説にちなんだ看板もある。また、元亀3(1572)年に徳川家討滅まで後一歩というところまで肉薄しながらも、病を得、志半ばにして本国に帰る途中に信濃の駒場で死去したという武田信玄公は臨終の床で、股肱の臣である山県三郎兵衛昌景を枕もとに呼び、「明日は瀬田の橋に武田の旗を立てよ」と言明したという。すでに意識は混濁しており、自分が置かれている状況すらもわかっていなかったのかもしれないが、それほどまでに信玄公が夢見た京の都の入り口が、ここ瀬田の唐橋だったのである。実物を見てみると、意匠はたしかに唐風であるように見える。むしろ純和風の橋といってよいものかどうかの方が微妙な線だが、車がガンガン渡る橋であるため、がっつり鉄筋コンクリート製の橋なのだろう。

 瀬田川を過ぎると、京都はもう目と鼻の先の距離である。ここで若干の渋滞に巻き込まれたため、思ったよりタイムロスがあったが、逢坂山を越え、山科の町を抜け、東山トンネルの先まで進むと、いよいよ京都の都心部だ。鴨川にかかる五条大橋を渡る手前あたりの交差点で右方向に曲がり、北にある三条大橋、旧東海道の終点に向かった。京都の街は実のところ、車で回るには少々不便なところである。以前に愛車で京都に来た時は、あちこちうろうろしながら駐車場の確保に手間取った記憶がある(京都奈良編参照)。今回は、空車ありの駐車場を見つけたらすぐに車を突っ込む意気込みで道を走っていた。すると、都合の良い事に、三条大橋のすぐ近くに駐車場があった。少しばかり入りにくそうなイメージがあったが、臆することなく車を入れた。と、ここで見つけたのが、都市伝説コラムで触れた「鳥居」である。そしてここで、車を駐車場内にあった柱にぶつけたのも記述の通り。件のコラムでは鳥居の罰か、はたまた注意不足のためにぶつけたようなことを書いてみたが、今回ドライブレポートとは別の切り口で東海道の旅をまとめてみると、あまりにも心当たりが多すぎる。ちゃんぽんにお参りされた将門公と妙秀寺の罰か、運転技術が向上したなどという増上慢の油断のためか、もはや何が真実かわからない時がある、といったところだ。この失敗を後に生かせるように肝に銘じ、三条大橋に向かった。この三条大橋も瀬田の唐橋と同じく見た目はクラシックだが、やはり自動車交通にも耐えられるように設計されている。ここは京都の繁華街にも近く、人、車、共に往来が激しい。まさに東海道の終点という感じで、この旅のターニングポイントにもふさわしい。三条大橋の近くにある高山彦九郎先生の像を見ていて、少し感傷的な気分になった。高山先生は三条大橋を渡って京都に入る時に必ず御所の方にお辞儀をしていたそうだ。現在御所はもぬけの殻。そこに暮らしていた人たちは、まさに昨日私が出発した場所に引っ越しているのである。時の移ろいが感じられる。

 ここまで来れば、後の行程はもはやエピローグのようなものである。京都を後にしてからは、粛々と大阪を目指した。途中、淀城や筒井順慶の日和見で知られる洞ヶ崎などを見ていこうかとも思ったが、そちらに寄って行けば日没までに1号線の終点にはたどり着けそうもない。そうして、日がすっかり西に傾いた16:30頃、大阪駅前にたどり着いた。音に聞く本場大阪の迷惑駐車をいやというほど味わいながら車を駐車場に入れると、大阪市道路元標の撮影に向かった。東京の日本国道路元標を撮影したのは早朝だったから良かったものの、さすがにこれだけ往来の多い中で写真を撮るのは、恥知らずな私といえども恥ずかしかった。

 すべての目的は果たされた。もはやどこかを見に行く時間的余裕など無く、あとは帰るだけである。ところがこれがまた一騒動であった。おとなしく都市高速を使って近畿自動車道なり名神高速道路なりにアクセスすればよかったのだろうが、下手に下道を行こうとして迷子になった。どうも淀川区内をうろうろしていたようなのだが、暗闇では地図の確認すらままならず、結局必要以上の時間をかけて近畿自動車道吹田ICにたどり着いたのは、大阪駅前を発ってから1時間半も経ってからの事だった。

 後日、私のもとに一通のはがきが届いた。『運転免許証更新連絡書』と書いてあった。親展と書かれた張り合わせ式のはがきを開いていくと、どうやら優良運転者と認定されたようだった。いわゆるゴールド免許がもらえるわけだ。半年で20000kmほど走っていた時期を挟んでいるのにもかかわらず、優良運転者認定をもらえるとは奇跡のようである。と、その下の方に気になる一文。

 『講習の区分、有効期間等は、誕生日の40日前の日を基準日として過去5年間の違反歴等によって区分されます。』

 東海道の旅はちょうど誕生日の40日前頃にあたる時期だ。講習区分の判断材料として使われたのだろうか。長丁場、しかも途中ちょくちょくと怪しげな運転をした覚えもあるが、実際に更新手続きに行った時に、道交法違反のかどで御用となることはなかった。果たして違反無しと認められたのか、はたまた近々最寄警察署への出頭命令の通知が届けられ、5年後の更新の時にキツイお灸を据えられる事になるのか。いささかの不安は残る。