再びウランバートル〜ムルン〜ダルハディン


暮れも押し迫って来て、悠長に構えているわけにも行かなくなって来たので、今回はトピック性の高い出来事だけをしたためてみる。忙しいときは書かないのが一番楽なのだが、ホームページの更新を楽しみにしてくれている人も少なからずいるので、なんとか時間を作って書いている。

2005年8月2日(火曜日)の午前中に、ウランバートルでヒシト(タイワンのお姉さん)が借りているアパートの一室を引き払い、モンゴル教育大学生物学部へと向かった。敷地内に入ると、玄関先ではダルハディン湿地調査用のトラック2台に荷物を積み込む作業をしていて、既にパッキングを完了していた私のリュックサックをさっそく積み込んだ。その日は私だけ先にエーデルワイスホテルにチェックインすることになっていて、手荷物を持ってタイワンと一緒にタクシーで移動することになった。ところが、乗ったタクシーが悪かった。ドライバーはホテルの場所が分からず、道に迷って市街地をぐるぐる勝手に回った挙げ句、漸く大通りに戻って来たのである。その間、約20分間。タクシーのメータは、既に1,675Tgを示していた。私は道が違うことに気付いていたので、タイワンに何とかするように英語で頼んだのだが、相変わらず彼女は使えなかった(1)。

一旦、大通りに出てしまえば、あとの道のりは簡単であった(と言うより、そもそも大通りを通り越して裏道に入る必然性はなかったのである)。こうして漸くエーデルワイスホテルに到着すると、タクシーを待たせたままチェックインを済まし、再びモンゴル教育大学生物学部へと戻って来た。その間、約1時間。徒歩でチェックインすれば、手荷物を持っていても、30分間もあれば戻って来れる場所であった。結局、普通は往復で1,000Tgくらいのところを、3,000Tgも支払わされてしまった。日本人の感覚からすれば、道を間違えたのはドライバーの責任なのだから、間違えた分の料金は請求しないのが一般的である。まあ、タクシーの初乗り運賃が1kmで250Tg(日本円で25円弱)という安い料金設定なので、それほど目くじらを立てる必要もないのだが......。

午後3時、生物学部長のプパーさんらと一緒にジープで空港(Buyant-Ukhaa International Airport)へと向かった。今回は、中川雅博さん(近畿大学)と一緒に、日本人のメンバーを出迎える役割りである。メンバーは、○○さん(金沢学院大学)、森田孝さん(フリーの技術者)、藤則雄さん(金沢大学名誉教授)、佐野智行さん(姫路獨協大学)、早坂英介さん(東北大学)、島田幸子さん(水と緑の惑星保全機構)の6人で、田中稔さんと平田明日香さん(環境再生保全機構)の2人は翌日の合流であった(2)。

3日(水曜日)は午前中に会議、午後は買い物、夜はパーティーと続いた。4日(木曜日)の午前中は自由時間で、私だけ所用で交通局の建物内の1階にある移民局に出向いたのだが、残念ながら、ここでのエピソードを書くことは止められている。午後4時38分、エーデルワイスホテルから2台のタクシーに分乗し、午後5時5分に空港へと到着した。乗ったのは、日本人が経営する「なんでんかんでん」という会社のタクシーで、私たちが乗ったタクシーのバータと名乗るドライバーは英語と日本語が少し分かって妙に人懐っこかったが、メータが回っていないことが気掛かりであった。案の定、2台とも10,000Tgと法外な料金を支払わされてしまった(普通は5,000Tgくらいが相場という話だが......)

今回のムルンへの搭乗便であるエアロ・モンゴリアは、○○さんに言わせると「飛行機らしい飛行機」というスマートさで、難点があるとすればシートが狭すぎることであった。持ち込める手荷物も制限され、適用範囲内であるはずの私の手荷物も、有無を言わさず、預かる荷物としてベルトコンベアーに乗せられてしまった。午後6時26分搭乗、35分離陸、午後8時3分着陸となったわけだが、私と○○さんが座っている前のシートで、自然史博物館の女性研究者であるアルツァントゥヤが何故か赤ん坊をあやしていた。○○さんと2人で「まさか調査に赤ん坊を連れて行くんじゃあるまいな?」と懸念していたが、この赤ん坊は「ムルンに着いたら母親が迎えに来る」ということで「空港で見ず知らずの人に頼まれた」ということのようであった。モンゴルでは、こういったことが普通に起こり得るから面白い。日本のように、誘拐や連れ去りといった未成年者略取事件を心配しなくていいだけ、平和な国なんだろうなあ......。

預かる荷物を受け取って、午後8時31分に空港の外へと出てみると、既に6台のロシアンジープがスタンバイしていた。それぞれに分乗し、午後8時51分に出発と相成った。ウランバートルから陸路を来た、学生を乗せた2台のトラック部隊とは、ここで合流である。それから1時間後の午後9時53分、休憩した道路脇の草むらで、ずんぐりむっくりした翅のないコオロギのような虫のメスを再び見つけた。ダイヤモンド・ビッグ社の「地球の歩き方 D14 モンゴル 2003〜2004年版」の21ページに「ゴジョ(コオロギの仲間)」として掲載されている虫に似ており、私が「ゴジョ、ゴジョ」と言っていると、ハタさんが英語で「それは日本語か?」と尋ねて来た。「この虫は、モンゴル語で『ゴジョ』って言うんじゃないのか?」と疑問を呈すると、彼は「違う」と言って英語表記の綴りを書いてくれた。それによると、この虫は「ゴリオ(golio)」というのが正しい名前のようであった。周りにいる数名の学生にも同じことを尋ねてみたが、皆一様に「ゴリオ」と発音していた。どうも「ゴジョ」というのは、これを書いた人の聞き間違いである確率が高いように思われた。

午後11時41分、真っ暗な中を途中のキャンプ地に到着し、簡単な食事をした後、午前2時10分に就寝した。5日(金曜日)は午前7時30分に起床し、中川さん、佐野さんと調査地の地図の検討をした。それから朝飯を食べ、シュラフをたたんで、テントの撤収をおこなった。午前9時38分にキャンプ地を出発し、午後0時23分には、3度目の休憩地点である峠のオボーに到着した。昨年と比べて、積み石の量が増えていて、旧モンゴル文字の碑文まで備えられていた。ここを午後1時15分に出発すると、33分には国立公園の入り口で足留め休憩である。午後2時25分に「バフティン川(Bakhtiin gol)」を渡って昼食休憩し、それから昨年よりも凸凹の道を通って、午後4時24分にはダルハディン湿地の第1調査地へと到着した。

ということで、これで漸く元に戻って、ダルハディン湿地のことを書くことが出来るというものである。

[脚注]
(1) そもそもタイワンは「英語が出来る」とズラさんに売り込んでいたわけで、だからこそズラさんは、私の世話をするようにタイワンに厳命していたのである。今回のダルハディン湿地調査隊のメンバーで、英語が多少は話せる人たち(例えば、アルツァントゥヤ、ビャンバー、ハタ、マリーナ)と私が普通に会話をしていたこともあって、ズラさんも漸く「タイワンは英語が出来ない」ということに気付いたようである(モンゴル人の「出来る」を信用してはいけない。彼らは、全体の一割も出来れば「出来る」と主張するからである[1])。
(2) 今回の調査隊に新しく加わった早坂さんは植物分類学が専門で、ダルハディン湿地に生息している植物種の分類を確実なものにするために白羽の矢が立ったようである。

[脚注の脚注]
(1) タイワンが携帯電話が壊れたことをジェスチャーで示したことは先に述べたが、誤解があるといけないので、その詳細を示すことにする。彼女のジェスチャーから想像して「Is your mobile phone broken?」と尋ねてみた。ところが「Broken?」と言って「brokenの意味が分からない」という顔をするので「You know! Break, broke, broken?」と確認すると、今度は「Break?」と言って「breakの意味も分からない」という顔をする始末であった。こうなっては、お手上げである。「breakのスペルを言って、彼女に英蒙辞書を引かせ、そこで漸く理解する」という、英語の基礎知識が抜け落ちた状態の彼女とコミュニケーションを取るのは、至難の業であった(たとえば「私はウランバートルに行く」という英語は、普通は「I go to Ulaanbaatar」または「I will go to Ulaanbaatar」と表現するものだが、彼女は何にでも『be動詞』を付けて「I am go to Ulaanbaatar」と言ってしまう)。


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