ミズネズミ
三十八度に発熱したネズミが川を下っていった。仰向けでみる空はいつもより白く、 背中に感じる水の弾力がわずかにからだを支えていた。
ネズミは昨日で九十歳になった。なったのだと娘から聞いた。 それはネズミの知らないことだった。仰向いたまま川を流れているうちに、 一世紀の時が過ぎたのだとネズミは思った。いやちがう。昨日ネズミは買い物かごを下げて、 聖天通りの商店街へ夕飯の買い物に行った。ネギと小芋とまぐろの刺身。 いつも連れ立って出かける裏のヒメネズミと一緒だった。ヒメネズミさんはどうした、 とネズミは尋ねた。裏のおばちゃんはもう何年も前から寝たきりだ。娘は答えた。角の氷屋は。 十年前に死んだ。そうか、動かれへんようになると気の毒やなとネズミは言った。 ネギと小芋とまぐろの刺身。ほてったからだで、毎日どこへ向かうともしれない川面に浮ぶ。 時間というものが、ネズミをすり抜けてどこかよその土地を流れているようだった。 娘はだまっていた。
*
三十八度に発熱したネズミが川を上っていった。時折沈みそうになりながら、 ネズミは今日の自分はなぜ踊りたくないのだろうと考えていた。寝る間も惜しんで踊って踊って、 たまにつかれるとはぁ、といって、それでネズミはもう復活するのだった。 水にむせてネズミは咳き込む。踊りたかった。踊っている間は、 夜も朝もネズミの外を流れて通り過ぎていく。
川面に頭をつけてうつろな目のネズミは波の向こうを見た。ネギと小芋とまぐろの刺身。 ネズミはぐっと手を伸ばして買い物籠をつかんだ。川は海に向かって上りつづけていた。
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