Q&A-2
「第五福竜丸事件」を理解するために
冷戦
第二次世界大戦後、世界を二分した資本主義(西側、市場経済体制)と社会主義(東側、共産主義、計画経済体制)の対立構造。1945年から1991年まで続いた。資本主義体制(西側)のリーダーはアメリカで、社会主義体制(東側)のリーダーは旧ソ連。米ソが直接戦争したことはなかったが、国際関係だけでなく、国内でもすべての面でイデオロギー上の対立関係が生まれた。この間に朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争という「代理戦争」があった。
西側はNATO(北太平洋条約機構)を東側はワルシャワ条約機構を組織して、軍事的対立を深め、核競争・軍備拡張競争を行い、東西が相互に「仮想敵勢力」としてにらみ合った。
60年代はアメリカ大統領にケネディが登場し、ソ連の指導者フルシチョフとの間で対話路線が生まれ、いわゆる「雪解け」の時代として平和共存が強調されたが、80年代にレーガン大統領時代にまた緊張関係に入った。しかし、その後、ソ連の「計画経済」の矛盾が露呈、ゴルバチョフ旧ソ連大統領のもとで「ペレストロイカ」政策が打ち出されたが体制破綻を食い止められず、ソ連構成共和国の独立機運も高まり、ついに、1991年ソ連は崩壊し、冷戦が終結した。
冷戦とは何であったかについて、最近では新たな見解や評価も生まれてきているが、問題は、抑止として両陣営が核を中心とする大量破壊兵器を作ったこと、それが冷戦後に多発した地域・民族紛争に決定的な役割を果たしたことで、大きな負の遺産を現在に残している。
核保有国の主要な核実験場
2004年1月13日マーシャル諸島共和国は、アメリカが1946年から1958年にかけ実施した原水爆実験で、白血病や癌などの健康障害を負ったと認定された島民が1865人もおり、このうち約840人が死亡していたと発表した。発表によれば、アメリカは1946年から13年間にマーシャル共和国のビキニ、エニウェトク環礁で67回にわたり計約11万キロトンの核実験を実施した。その当時から広範囲で島民に放射線障害が表れ、アメリカは1986年発効の自由連合協定で「核実験による被害賠償につて責任を負う」と名言し、1991年から症状が認められる島民に対して健康被害補償に支払いを開始した。白血病や癌、腫瘍など35種類が対象で、症状により1万2500〜12万5000ドル(約88億4000万円)が計上された。
冷戦期を中心に5大核保有国(その後、インドとパキスタン)は、核弾頭の性能向上や安全性の確認、古くなった核弾頭の性能チェックなどのため核実験を定期的に行ってきた。その回数は、1945年から98年年まで2057回といわれている。実験場も多く、アメリカ7ヵ所(国内、北・南太平洋、旧ソ連・ロシア5ヵ所(中央アジア、シベリア、ウラル)、イギリス6ヵ所(オーストラリア、南太平洋)、フランス4ヵ所(サハラ砂漠、南太平洋)、中国1ヵ所(新疆ウイグル自治区)である。主な実験場は次の通り。
○ビキニ環礁:マーシャル諸島・ロンゲラップ島(アメリカ)
1954年3月1日、多くの日本漁船(第五福竜丸もそのひとつ)とともにアメリカのビキニ水爆実験で被災したマーシャル諸島の一つで最大の被災地(島民2500人)。うちち82名が事前に実験の知らせを受けていなかったため大量の放射能を浴びた。1957年にアメリカ当局は、「安全宣言」をしたが、島民に白血病、死産、奇形児出産などが多発したため1985年すべての島民が脱出した。現在は帰島のために汚染除去作業続けられている。
また現在、「ロンゲラップ平和ミュージアム」の建設が計画されていて、支援が呼びかけられている。
○ビキニ環礁:マーシャル諸島・ロンゲラップ島(アメリカ)
1954年3月1日、多くの日本漁船(第五福竜丸もそのひとつ)とともにアメリカのビキニ水爆実験で被災したマーシャル諸島の一つで最大の被災地(島民2500人)。うちち82名が事前に実験の知らせを受けていなかったため大量の放射能を浴びた。1957年にアメリカ当局は、「安全宣言」をしたが、島民に白血病、死産、奇形児出産などが多発したため1985年すべての島民が脱出した。現在は帰島のために汚染除去作業続けられている。
また現在、「ロンゲラップ平和ミュージアム」の建設が計画されていて、支援が呼びかけられている。
○ネバダ(アメリカ、アリゾナ州)
アメリカ国内の最大核実験場。現在でも地下で臨界前核実験を行っている。1945年から1992年までここで行われた実験は904回、内大気圏実験は100回。これに参加した兵士たち(アトミック・ソルジャー)の多く(数10万人単位)が放射能症、白血病などで死亡している。
○セミパラチンスク(旧ソ連)
旧ソ連のカザフ共和国の核実験場。1949年から89年まで行われた実験は約470回。主に地下実験だが、うち120回が失敗したことで知られ、多くの放射能が周辺に漏れたといわれる。軍事機密で情報は公開されていないため、実態は不明。実験の結果、現在も被曝で多くの人々が苦しんでいて(100万人以上ともいわれる)、国際的関心の的になっている。1991年12月にナザルバエフ大統領は閉鎖を宣言している。
1999年9月に24カ国、国際的なNGO、や広島と長崎の関係者、その他多くの平和団体が参加して「セミパラチンスク支援東京国際会議」が開催され、保健・医療援助を中心に討議が行われた。
○ロプノール(中国)
新疆ウイグル自治区のシルクロードの都楼蘭と「さまよえる湖」(現在すでに湖は枯れて存在していない)のある場所として有名。1964年から1996年まで中国政府はここに核実験場を設置して、45回の実験を行った。公表されていないが、広範囲の放射能汚染が専門家によって指摘されている。
○ムルロア環礁(フランス)
南太平洋にあるフランス領ツアモツ諸島南東部の環礁。タヒチから約1300キロの距離にある。1962年からフランスの核実験場にするためのタヒチなど周辺の島に「太平洋実験センター」が作られ、1966年にド=ゴール大統領立会いのもとで行われた。これに対して南太平洋諸国から抗議が起こった。1973年にニュージランドとオーストラリアから「大気圏内実験を中止するよう」提訴されたため、1975年以降はすべて地下で実験が行われた。放射能による海水汚染は付近の島民の生活に深刻な問題を投げかけている。1995年の核実験に際して、日本でもフランス・ワインの不買運動など抗議行動を行った。
●反核・平和運動(略史)
戦後、原爆投下による被害などから終戦直後に「日本の平和を守る会」(後の日本平和委員会)が組織され、全国的活動を開始、1950年に核兵器使用の絶対禁止などを要求する「ストックホルム・アピール」に日本から645万の署名が寄せられ(全世界で6億)、これが朝鮮戦争でアメリカ軍の核兵器使用阻止の原動力となった。
しかし、大衆運動として平和が前面に出されるのは、1954年のビキニ事件以後のことである。ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に遭遇し被曝した第五福竜丸事件や東京・大阪へ送られた被曝マグロが廃棄処分されると全国に放射能の恐怖が広がった。
東京都杉並区では、打撃を受けた魚商関係者が「杉並魚商水爆被害者対策協議会」を結成し、区に陳情請願書を提出、これを受けて区は原水爆禁止決議を行った。同じ頃、焼津市では久保山さんの回復を祈る一般市民の運動が自然発生的に拡大して、それが県外・全国へと広がっていった。
この時、杉並区の公民館で母親を中心とするあらゆる立場の人々が集まり、学習活動とともに署名運動が提起され、そこから運動は全国へと、やがて全世界へと拡大していくことになる。これにはこの運動の助言役であった杉並公民館館長で国際法の学者であった安井郁氏(故人)が重要な役割を果たしたといわれている。
運動の主な担い手は母親であったということが注目される。命を育み生活を守るという視点は、この時、放射能の影響を危惧し、「雨が降ってきた時には洗濯物よりも子どもを取り込んだ」という話に象徴的に表れている。
杉並から全国に広がった原水爆禁止署名運動から、1954年8月に「原水爆禁止署名全国協議」が誕生、署名数は500万、12月に2000万、55年に3000万に達し、広範な国民運動になった。この年の8月、「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、「核戦争阻止」「核兵器完全禁止」「被爆者援護」が基本目標に掲げられた。これまでの署名数は3238万2104と発表された。
その後、1958年「原水爆禁止国民平和更新」が行われ、1万人を超える人々が広島・東京間を行進した、それが60年安保闘争、全国の米軍基地反対闘争、米原子力潜水艦・空母寄港反対闘争などと発展してゆく。なかでも1960年の安保闘争は、戦後最大の社会運動となった。
しかし、運動が拡大するとともに、この運動を政党の票集めに利用されるに内部対立が表面化してきた。その結果が1962年の「第8回原水禁世界大会」であった。ここで葉ソ連の核実験の評価をめぐって大会が分裂し、その後、相互に対立することになった。その後、一時、統一の動きをみせたが、結局分裂したまま現在に至っている。
この運動とは別にその後も平和運動は続いていた。ベトナム反戦運動が主なものであった。運動は多様化の様相を見せ、政党や労働組合中心の動員型ではない、新たに政治や社会に自覚的な個人が中心となる市民運動が登場してきた。ベトナム戦争反対のべ平連運動もそのひとつである。以後基反対運動、水俣反公害闘争、成田空港反対闘争、沖縄返還問題などが続いた。
1970年の安保闘争はまた別の性格をもった。60年代末から全世界的な規模で学生運動が高揚、日本では大学を拠点とした全共闘運動が盛り上がった。この運動はその後、政治運動だけでなく文化運動として拡散していくことになるが、一部は過激化して武装闘争を繰り返し、人々の反核・平和の思いから乖離していった。
80年代はヨーロッパを中心に反核運動が高揚した。日本でもこの時から、NGO(非政府機関)などを中心とする性格の運動に移っていった。90年代初めに冷戦が終結すると、新たに地域・民族紛争が世界各地に発生、平和の時代が到来するという期待は裏切られた。しかも、世界のリーダーとしてのアメリカが世界経済を牛耳るグローバリズムの性格をつよめ、一国中心的行動が顕著になり、そのことが国際社会を不安定にすることになった。それはイスラーム世界、とりわけパレスチナ紛争解決を困難なものにしている。
2001年9月ニューヨークで発生した同時多発テロにより、新たな状況が生まれてきた。アメリカは、国際テロ組織アル・カーイダの拠点だとしてアフガンを攻撃、その関連のなかで2003年春にはイラクの独裁政権を武力で倒すイラク戦争を引き起こした。イギリス政府や日本政府はこれに同調して支持を表明したが、これに大して世界のNGOや草の根のNPOは反戦運動・非戦運動を呼びかけ、世界中で多くの人々が参加した。この運動は、50年代に登場した反核・平和運動と性格も組織も異なっている。
2003年8月、ヒロシマ・ナガサキから58年目の集会がもたれたが、かつての運動では新しい地平を開くことができなくなっている。
そして、2004年はビキニ事件から50年、新しい形の反核・平和運動が起こる予感がある。
●6.30市民集会(焼津市)
焼津市が行っている「ビキニ事件」の市民集会。1985年、当時の市長服部毅一(故人)が中心となり、アメリカからの慰謝料配分を決めた6月30日を事件決着の日ときめ、現在まで毎年行っている。市内の各自治会が中心となり、毎年600人を集めている。市内の小中学生による作文朗読もある。2003年集会で19年を迎えたが、集会の日程、会の持ち方等でさまざまな意見があり、この集会も転機を迎えている。
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