まだ20代の頃地方の病院の整形外科医として勤務していた時に、高齢の先生と一緒に外来を担当していました。その先生は仕事がマイペースだったので少しムッとすることもあったのですが、ある時「若い医師と高齢の医師では守備範囲が違う。若い医師は新しい知識はあるだろうが、経験が足りない。何より人間が歳をとるとどうなるのかがわかっていない。だから高齢者を診るのは高齢の医師の方がよい。若者は若者らしく働けばよい」というようなことを言われました。その時はそんなものかなと思ったのですが・・・。
時が流れて最近よく老いを感じるようになりました。カルテの入力で入力ミスが多くなりキーボードから目が離せませんし、患者さんの話を聞いていても聞き違えて「先生、違いますよ。」と言われることが多くなりました。歳をとると困り事が増えるようです。
しかし、老いることは悪いことばかりではないはずで、例えば禅のことを外国に紹介した鈴木大拙が九十歳を過ぎて「歳を取らなければわからないことがある」と言っています。それは何だろう、高齢の患者さんの中にそのヒントを探していました。ふと一挙手一投足という言葉が浮かびました。一挙手一投足といのは、手を挙げて足を踏み出すということで細かな一つ一つの動作の意味です。歳をとると誰でも動作が緩慢になります。早く動かす筋肉が衰えるからと言われていますが、急な動作をすると痛みを感じることが多くなるので、自然と慎重にゆっくり動いていることもあると思います。
患者さんの中に90歳すぎても筋力がしっかりして痛みを訴えない人がいましたが、その動きはゆっくりではあるが洗練されているなと感じました。椅子にどすんと座る患者さんはいかにも痛みが出そうです。そこで考えたのは、歳をとると一挙手一投足を大事にしなければならないのではないか、そうすることで元気で長生きできるのではないかと。一挙手一投足、つまり細かい日常のことが実は大事なのだということを老いた身体が教えてくれるのではないかと思いました。自らを顧みて、若い時は細かいことは気にせずに突っ走っていました。これからは一挙手一投足を大事にしていきたいと思います。
後藤の部屋
No.64「痛みに負けないために 養生とヨガ」
鍼治療した患者さんから「やったときはいいけど、また痛くなる。」というお話をよく聞きます。「痛みの原因がなくなるわけではないのでそうでしょうね。痛くなったらまたやりましょう。」とお答えしています。急性の痛みの中には鍼ですぐ治るものもありますが、慢性の痛みの中にはしぶとくて鍼でも薬でもなかなか治らないものがあります。
治らない痛みをどうするか、これは大きなテーマです。痛みに勝てないなら負けずにうまくつきあっていく他ありません。車いすバスケットの選手が「普段は脊髄を損傷した腰から下が氷に浸かっているような痛みがあるのですが、バスケをやるとその痛みを忘れます。」と言っていました。痛みがあってもスポーツができる人間の潜在力はすごいものです。痛みがあっても日常生活をおくれるなら痛みに負けていません。痛みに負けないために何をするか、まず養生そしてヨガですというのが今回のお話です。
私たちのやり方は、まず日常生活の中で節制に心がけて身体の状態を整えます。身体の状態を整えるために食事、睡眠、運動などの日常生活を改善するのが、外来でお渡ししている黄色いチラシの養生です。この養生で生活の乱れからくる痛みが軽くなることが期待でき、痛みで衰えた体力を回復する基盤ができます。その上でヨガをやります。私たちのやっているヨガは呼吸に集中することで余計なことを考えないようにする訓練で、同時に体力を向上するものです。痛みがあると、なぜ痛いんだ、痛みを何とかしてくれ、痛みから逃げたいなど心が乱されます。この心の乱れが痛みを苦しみに変え、自ら動こうという積極性を奪います。痛みがあっても心が乱れないようにしておけば日常生活を継続できます。
養生をやってヨガの練習を続けている人の話を聞くと確かに効果があるようです。ヨガをやって「やる前は呼吸が浅くてそのことに気づかなかった。ヨガやって次第に呼吸が深くなりそれとともに症状が軽くなった。また以前は体力がなかったが、体力がついていろいろやれるようになった。」という話を聞きました。痛みに負けないようになったのは薬や特殊な治療のおかげではなく、自らの努力によるものだと思います。
将来は治療法として一般的になることを期待して努力を続けていきます。
治らない痛みをどうするか、これは大きなテーマです。痛みに勝てないなら負けずにうまくつきあっていく他ありません。車いすバスケットの選手が「普段は脊髄を損傷した腰から下が氷に浸かっているような痛みがあるのですが、バスケをやるとその痛みを忘れます。」と言っていました。痛みがあってもスポーツができる人間の潜在力はすごいものです。痛みがあっても日常生活をおくれるなら痛みに負けていません。痛みに負けないために何をするか、まず養生そしてヨガですというのが今回のお話です。
私たちのやり方は、まず日常生活の中で節制に心がけて身体の状態を整えます。身体の状態を整えるために食事、睡眠、運動などの日常生活を改善するのが、外来でお渡ししている黄色いチラシの養生です。この養生で生活の乱れからくる痛みが軽くなることが期待でき、痛みで衰えた体力を回復する基盤ができます。その上でヨガをやります。私たちのやっているヨガは呼吸に集中することで余計なことを考えないようにする訓練で、同時に体力を向上するものです。痛みがあると、なぜ痛いんだ、痛みを何とかしてくれ、痛みから逃げたいなど心が乱されます。この心の乱れが痛みを苦しみに変え、自ら動こうという積極性を奪います。痛みがあっても心が乱れないようにしておけば日常生活を継続できます。
養生をやってヨガの練習を続けている人の話を聞くと確かに効果があるようです。ヨガをやって「やる前は呼吸が浅くてそのことに気づかなかった。ヨガやって次第に呼吸が深くなりそれとともに症状が軽くなった。また以前は体力がなかったが、体力がついていろいろやれるようになった。」という話を聞きました。痛みに負けないようになったのは薬や特殊な治療のおかげではなく、自らの努力によるものだと思います。
将来は治療法として一般的になることを期待して努力を続けていきます。
No.63「老いとがん」
今回の漢方仲間との勉強会のテーマは「がん患者」でした。以前はがんになると有効な治療法も少なくまさに死に至る病でしたが、最近は治療法が進歩して治るがんも多くなりました。だいぶ前に余命宣告を受けたと言っていた方が元気にテレビに出ているのを見ると、やはり長生きはしてみるものだと感慨深いものがあります。
勉強会で、がんの患者さんに何が起こっているのかを考えました。驚き、不安、痛み、怒り、妬み、悲しみ、絶望、諦め、宗教心、悟りなどですが、これらは老いでも同じことが起きるけどどこか違う、違いは何かと考えました。
がんは年齢とともにできやすくなります。老いと特に若い人のがんの大きな違いは周りに対する責任だと思います。若くしてがんに罹患した患者さんは子育てや仕事などそれぞれの責任から何としてでも治したい、死にたくないと考えるかと思います。しかし、老いでは期間の長短はあれ人生のゴールは見えており、生きたいと思っても周りに対する責任は軽くなっていることが多いのではないでしょうか。
高齢の方に「がんかもしれません。いろいろ調べましょう。」と言っても「もう年だからいいです。」と言われることはよくありますが、若い人ではまず見かけません。
だいぶ前になりますが、私が外科で研修医をやっていて、救急で来院された高齢の患者さんに「これは手術すれば助かります。手術しましょう。」と言ったら「もう歳だからいいです。思い残すことはありません。」と言われたのを「生きていれば何かいいことがあるはずです。そのために手術しましょう。」と手を握りながら無理やり説得して「先生がそうまで言うなら。」と手術しました。その後大変だったのですが何とか生きて退院されたのを思い出します。今なら違う対応もあったかもしれません。
老境に近づいて同期の仲間でがんで亡くなる者も多くなりました。私自身は前ほど生きることへの執着はなくなっているものの、生きていればさらに面白いものを見ることができるかもと期待する気持ちもあります。父が80歳過ぎた頃に「どこか旅行に行かないか?」と聞いた時に「もう見聞は広めんでよか。」と言っていたことを思い出します。そこまで生きていければいいと思う反面、何事も運命かなと思う今日この頃です。
勉強会で、がんの患者さんに何が起こっているのかを考えました。驚き、不安、痛み、怒り、妬み、悲しみ、絶望、諦め、宗教心、悟りなどですが、これらは老いでも同じことが起きるけどどこか違う、違いは何かと考えました。
がんは年齢とともにできやすくなります。老いと特に若い人のがんの大きな違いは周りに対する責任だと思います。若くしてがんに罹患した患者さんは子育てや仕事などそれぞれの責任から何としてでも治したい、死にたくないと考えるかと思います。しかし、老いでは期間の長短はあれ人生のゴールは見えており、生きたいと思っても周りに対する責任は軽くなっていることが多いのではないでしょうか。
高齢の方に「がんかもしれません。いろいろ調べましょう。」と言っても「もう年だからいいです。」と言われることはよくありますが、若い人ではまず見かけません。
だいぶ前になりますが、私が外科で研修医をやっていて、救急で来院された高齢の患者さんに「これは手術すれば助かります。手術しましょう。」と言ったら「もう歳だからいいです。思い残すことはありません。」と言われたのを「生きていれば何かいいことがあるはずです。そのために手術しましょう。」と手を握りながら無理やり説得して「先生がそうまで言うなら。」と手術しました。その後大変だったのですが何とか生きて退院されたのを思い出します。今なら違う対応もあったかもしれません。
老境に近づいて同期の仲間でがんで亡くなる者も多くなりました。私自身は前ほど生きることへの執着はなくなっているものの、生きていればさらに面白いものを見ることができるかもと期待する気持ちもあります。父が80歳過ぎた頃に「どこか旅行に行かないか?」と聞いた時に「もう見聞は広めんでよか。」と言っていたことを思い出します。そこまで生きていければいいと思う反面、何事も運命かなと思う今日この頃です。