トップページへ  古文書目次

慶応四年黒田村百姓一揆

(花園村史より)

 幕末の混沌とした世情は、草深い農村であった黒田村にも大事件をまきおこすに至った。通常「殿様殺し」といわれる慶応四年百姓一揆である。

    重課にあえぐ村人

 この時期に至るまで黒田村及び大谷村では地頭 神谷勝十郎の経済的窮迫から度重なる重課にあえいでいた。その頃黒田村から地頭神谷家に仕えて、勝手向賄方をまかされた村上平十郎は、地頭変死一件始末書(明治四年八月二十八日)の中で「用金再度申遣候得共是迄物成之内多分先納、加之、永年之間数多用金被申付、知行両村疲弊ニ陥リ難渋仕候」とこの間の事情を物語っている。またそれより前の安政二卯年十一月、大谷村、黒田村および上大谷村徳永万吉知行所の村民が、大谷村の割元役(大庄屋の役)高橋久左衛門と、その子で名主丈左衛門を役儀上に非分の所業ありとして地頭役所へ出訴したが、その済口証文 (安政三年七月)の中にも、神谷氏の重課について触れている。

        差上申済口証文之事

御知行所武州大谷村小前村役人三拾六人惣代大谷村百姓幸吉、徳永万吉知行所上大谷村組頭茂右衛門当御分黒田村小前村役人二拾人惣代同村百姓勘左衛門右大谷村割元 役高橋久左衛門、名主丈左衛門江相掛難渋出入申立、去卯十一月中当、御地頭所様江奉出訴候処、相手方江返答書被仰付御吟味中、懸合之上熟談内済仕候趣意左ニ奉申上候

一、訴訟人申立候者、相手之内久左衛門儀先年名主役相勤往々押領可致巧を以去ル天保度当、御屋敷様江詰合居、御殿様御若年を近込品能申欺、黒田村喜七添家大谷村黒田両村小前より買代金為差出喜七江相渡、右添家御地頭所様江差上御住居向相建候切を以、去ル天保十一子年中割元役被仰 付、倅丈左衛門儀者名主役取持苗字帯刀御免被仰付、過分之給料頂戴仕、其上同人所持地々買添ニ至迄永代無年貢被仰付候様仕成候段難心得、且御勝手向御差支之旨を以、去ル弘化四未同五申両年夫々御用金被仰付、御上納仕其外翌酉年より当卯春迄七ケ年之間大谷黒田両村ニ而合金五十五両御上納仕候得共、矢張御勝手向御差支之儀不得止事、当分御借代金百五十両程相嵩候ニ付、来辰年より己来五ケ年之間、金五両宛大谷黒田両村より上納可仕旨丈左衛門申聞、一同驚入久左衛門相頼御歎願申上、實否承度及かけあい懸合候得共、否申聞無之一同心痛罷在、一躰丈左衛門儀一巳之欲情ニ迷ひ唯々御用金小前江乃巳割付取置候故小前一統難渋仕、殊ニ丈左衛門儀者多分之給料頂戴仕候ニ付、自然御勝手向御差支相成追々御用金被 仰付候儀と奉存候、其上久左衛門出府入用として大谷村江金弐両、黒田村ニ而金壱両宛年々小前越石迄江も割附為及困窮候ニ付、久左衛門親子勤役中取計方難心得義兼々有之候間、両人勤役中書類為見届呉候様大谷村百姓代・組頭共江懸合候処更ニ不存杯申紛、相分リ不申無余儀丈左衛門方江及承リ候得共、同様之儀申聞取敢不申候ニ付、取詰懸合候得共愚昧之小前と見操、役威を
□□ニ付□□勝手次第可致杯、役柄不似合不当之挨拶乃己申聞剰先年御勝手向御差支之砌、頼母子金両村ニ而金九両可差出旨被仰付上納仕候処、右御掛返として去ル嘉永丑六年迄金壱分三朱ヅツ黒田村江者年々御下ケ相成候得共、大谷村江者一切割渡不申、加之昨寅年中為御先納両村江金拾五両被仰付上納仕、当卯暮御年貢皆済之砌御下ケ相成候間、御上納之内ニ而、可引取旨丈左衛門申聞、一同安心罷在候処、更ニ御下ケ置無之、其外大谷村潰百姓数多有之、潰跡田畑山林之儀所持主無之旨を以、久左衛門名主役中御上地相願、永引いたし候得共、同人所持いたし又者質地ニ相渡、質地金横領、或者永下ケいたし、勝手壗私欲罷在候乃巳なら須黒田村喜七添家取崩シ、惣百姓より夫々出金御上納之上御普請出来候処、去ル弘化未四年中、小前之もの江何之申聞も無之、右御普請向売払、御親類様方江御同居被遊迚、是又御用金被、仰付難渋罷在候、畢竟、久左衛門親子多分之給料頂戴罷在、役威を以勝手壗之取計いたし候
、村方及困窮次第ニ付、右親子共退役被 仰付度、其外品々訴上ケ、且相手方ニ而者左ニ無之御年貢取立、勿論諸天銭其外其都而先役共附渡之帳面を以取立来候儀ニ而、聊不正之取計いたし候儀ニ者無之候得共、万一難心得兼々も有之候ハゝ、村役人百姓代一同立会取調之上、仮令先役共仕来之義ニ候共、相改可申旨種々申論候得共、訴訟方之もの我意募、無躰ニ出訴仕候段、全意趣遺恨等有之右を可相□ため仕□候義之旨、其外品々答上申争ひ御吟味中之処、小前□□之兼々、夫々御取
調之上事柄相分候ニ付、厚御理解之趣奉承伏、両宿立入懸合之上左之通

一、久左衛門親子追而御願立之上、退役可致事

一、丈左衛門倅新八義未タ幼年之者候得共、万端役人共後見いたし、組頭見習相願、御用向御差支無之様可致、然ル上者久左衛門親子名代たり共、役席江決而立入申間敷、尤新八義御用向無御差支相勤節者、小前一同連印を以名主役相願可申筈之事

一、小物成之義ハ本石・出石一同取立、右代永金三両弐朱御下ケ金有之候節者、矢張本石・出石一同江割渡可申事

一、筆墳代並組頭役永引之儀ハ、来村之上示談いたし差支不相成様取計可申事

一、年来相立反別入組有之ニ付追而御出役之節、夫々御指図奉請、以来米永過不足無之様、相改可申事

一、北根村、丈左衛門外弐人より伝馬役銭として、年々銭壱貫文差出候分ハ己来買揚不致、本石・出石ニ而余荷相勤、右銭村入用差出可申事

一、組頭儀左衛門倅小一郎義、分家いたし候得共、親儀左衛門組頭役相勤候とて迚、同人所持高諸夫銭、天保十三寅年より嘉永三戌年迄九ケ年之間相除不差出段者、小一郎心得違ニ付右九ケ年分諸夫銭同人取立、高相当割戻候様、当役方ニ取計可申事

右之通懸合之上、兼々取極候上者、已来睦敷大谷・黒田両村役人相談之上、万端取計上下為筋相成候様専一ニ心掛可申筈取極、其余申争兼々ハ両宿貰請、いささ聊無申分熟談内済仕偏御威光と難有仕合奉存候、然ル上者、此上御吟味可奉請義、毛頭無御座候ニ付、御吟味是迄ニ而御下被成下置候様一同連印を以奉願上候以上

                  御知行所

                  武州榛沢郡大谷村

                     小前惣代

                        百姓 幸吉

安政三辰年七月十日     訴訟方

                  黒田村

                        組頭 中嶋仙八 印

                  徳永万吉知行所

                  同州同郡上大谷村

                     〃  名主 善左衛門

                  御知行所

                  同州同郡大谷村

                      割元 高橋久左衛門煩ニ付代兼

                            倅 名主

                      相手 高橋丈左衛門

   神谷勝十郎様

     御役人中様

前書之通済口証文奉差上、御聞済相成候間、為後証為取替置申候処如件

                   右

                           幸  吉 印

                       中 嶋 仙  八 印

                       高 橋 丈左衛門 印

                           善左衛門 印

済口証文の中から、用金関係の事項を整理すると、

@久左衛門は先年名主役を勤めて、天保年中には江戸の地頭屋敷に詰めていたが、大谷村・黒田村の両村百姓から出金させて黒田村喜七の添家を買い取って、地頭に差上げた為に地頭は住居することが出来るようになった。そして、この家を取崩して江戸に運び、惣百姓の再度の出金で、普請がようやく出来上がった。数年たった弘化未四年になると、地頭は知行所の惣百姓に何の相談もしないで、家を売払ってしまい、親類へ同居するという理由のもとに御用金を仰せ付けられ、百姓共は難渋をした。

A弘化未四年、同五申年(嘉永元年)の両年、勝手向きが容易でないということで御用金を仰せ付けられ上納した。

B嘉永二酉年から安政二卯年までの七年間に、勝手向きが差支えるので、両村から合計金百五十両という大金が上納されたが、一向に暮らし向きは良くならない。

C当分借金が百五十両程になってしまうので、やむをえず来る辰年(安政三年)より五年間(万延元年)は、各村から金五両宛上納するようにと名主丈左衛門から申聞かされて一同驚いた。

D昨寅(安政元年)中に、両村へ対して各々金十五両の先納金が仰せ付けられて上納しました。その節、当卯(安政二年)暮の年貢皆済の時に先納分を割り戻すから、御上納額の中から引くように名主丈左衛門が一同へ話したので、百姓達は安心していたところ割戻しを全然する気が無い。

 として用金関係について相当克明に述べている。この外にも安政三辰年五月十四日、地頭用人玉川郡司は「此度両村江金弐拾壱両之内、拾四両者大谷村、残金七両者其村方(黒田村)江先納被仰付候間、小前之もの共心得違不致様……早々取立被相納候」

「追而、月々御賄金之儀者、右先納被相納候上者、来春迄者上納不及候」と、黒田村役人中に対して沙汰書を与え、年貢の先納を命じている。

 文久元年四月、黒田村の村上平十郎は地頭所賄金が差支えたので、八月に収穫される小物成の大豆拾俵を引当として所謂青田壱証文によって金の調達をした。

 御用金反対運動

 連年に亘る御用金・先納金の重課のため、知行所内の百姓共は極度に疲弊していた。文久元年、ついに憤懣に耐えかねた大谷村の百姓達は、反御用金運動の旗を掲げて行動を開始した。これについて花園村郷土史(大正二年・黒田勇著)は次のように述べている。

「文久元年(藤沢村誌では三年)、旗本神谷勝十郎、用人をして御用金調達の命を大谷村ならびに黒田村に伝へしむ。大谷村百姓一同これに応ぜず。用人怒って、「各自江戸表へ出張して免除を款願すべし。」と云ふ。衆不穏の形勢を以って之に応ず。用人危険を慮り論して之を止めしむ。

乃ち名主三左衛門・八百次郎の両人用人を送りて江戸に至り。邸前より引き返せり。後衆議武井孝之助・矢内栄助の両人を以って、情を訴えて免除を請はしむ。成らず。依って村上平十郎、関口左五右衛門の二人をして、越えて御支配様(江戸中に六人あり、無役の旗本を支配す)ハヂ川河内守、及び同僚ならびに神谷氏の親族へ張訴をなさしむ。事未ならず。更に、矢田喜助・武井孝吉の両人、老中筆頭水野和泉守を途中に要して篭訴をなす。

和泉守二人を河内守に附致す。河内守、更に神谷氏に送る。

神谷氏怒って二人を錮す。時に孝弘光寺住職、護国寺にあり。之を聞き、直ちに神谷氏に至り調停、二人を携えて帰り、神谷氏に「爾後、非常の外は用金・先納等は一切申付けざることを誓はしめ事治りたり」

其後、万光寺・長徳院の二人を始めとして、両三人づつ江戸に召還し、御用金を命ずること数次、数百金に及ぶ。

中頃、元治元年九月、大谷村に於いて「検見騒動」と称する大事件を生ず。其の顛末の概要を述ぶれば、当時検見と称し、稲作の豊凶を調査し、公租を課するの制あり、神谷氏用人をして之を行わしめんとし大谷村に至しむ。衆、増租を憂えて検見を行うを肯ぜず。他給の百姓に至まで之に応援し、用人を脅迫して検見を行はざる旨の誓書を徴し、これを追い返せり。

慶応元年六月、用人之を奉行に訴ふ。

審議数年、入牢者数数十人百姓窮迫せり。時に宇野丈左衛門・高木治郎蔵の二氏、隣村の諠を以って調停最も力め、百姓より主意金として一時金百両、年貢米毎年十五俵増を誓約せしめて僅かにこと平らぐを得たり、黒田村はこの件に関わらず。

如此、官民のあつれき衝突、一再ならず、農民の困弊も其の極に達せり。

 地頭殺害

 慶応年間に入っても相変わらず御用金・先納金が課せられ、農民は重苦の生活を余儀なくされていた。同三年末頃地頭神谷氏は、黒田・大谷村の両村にかねて申付けた御用金を持参するように命令したが、一向に知行所村々からは納入する様子もなかった。地頭は仕方なく大谷村名主村田三左衛門、同組頭幸吉、黒田村名主中島八百次郎、同組頭勘右衛門に対して差紙を為した。しかし彼等は金を工面することが出来ず、出府の差紙を無視した。

 立腹した地頭は慶応四年正月、彼等の差紙違背の非を責めると共に、確実に用金を入手するため、彼等を江戸屋敷へ引立てるよう賄役村上平十郎に命じた。

    下知書

      大谷村 

      名主 村田三左衞門  

      組頭 幸吉    

     黒田村 

      名主 中嶋八百次郎  

      組頭 勘右衛門(村上勘一郎)

右名前之者差紙違背之段不埒之至候、依之為引立、村上平十郎差遣間、 

同人同道出府可被致、尤談筋之義者同人承り可被申すもの也

 正月十一日 地頭 印    

     大谷村 

     黒田村 

     両村役人江

  出府した大谷村名主儀平(村田三左衛門のことで儀左衛門とも呼んだ)は結局、勝手元賄金を弐拾五両用立てることで話が決着した。

  三月に入ると、江戸市中は倒幕の官軍が続々と各街道から来攻し、将軍の居城である江戸城は十五日を期して総攻撃を受ける運命にあった。大名・旗本の中には官軍に帰順する者もあり、或いは最後まで将軍の下で戦おうとする幕府派もあって、江戸市中は戦禍の前に恐れおののいていた。

  その中にあって神谷勝十郎は、今のうちに未収納の用金は勿論、可能な限りにおいて多額の金子を取り立てようと企図し、三月廿五日に賄方村上平十郎を伴って黒田村に向かった。二十六日夕刻、黒田村名主中島八百次郎宅へ到着した彼は、直ちに大谷村役人に大至急罷り出るように自ら書状を認め、八百次郎に渡し、八百次郎はこれを組頭、勘右衛門(勘一郎)をして大谷村役人宅まで届けさせた。しかし、その夜大谷村の村役人は誰一人としてやって来なかった。地頭は大谷村役人の態度に立腹し、語気も荒々しく「本年二月、大谷村名主儀平(村田三左衛門)は出府の折、勝手賄金弐拾五両を用立ててくれるよう相談したところ、同人は承知して請書を取ってある故、儀平に会って、その金子は勿論、全額を是が非でも取り立てる。その上現在、世情容易ならぬ事態に際会し、何時知行を召し上げられるかもわからぬような切迫した時に当たって、大谷・黒田村から新たな用金を差出すように、儀平や他の村役人と篤と相談したい。若し大谷村の中にこれに違背するような者があったら、直ぐに召し連れて来い。」と村上平十郎に命じた。八百次郎に対しては、「官軍は既に江戸に充満しており、此分では知行の上知も間近であろうが、其の時は永年の間柄を以って、黒田村へ家族を預け、生活の世話も願いたい。其の外、金子も必要が出来たのだが、明朝は大谷村役人も来ることであるから、其所を始め皆で骨を折って用金を徴収してもらいたい。」と頼んだ。

 村上平十郎は翌朝早く大谷村へ出発することになって、名主宅には平十郎と組頭役の儀平(笠原儀兵衛)が宿泊した。

 翌三月弐拾七日未明、床を起き出た平十郎は一路大谷村へと急いだ。

 他方、黒田村の百姓達の間には、何処から来た通報か不明であるが(多分大谷村から来た指令である)、触れ役の笠原卯之吉や村上勘右衛門(勘一郎)などが、やはり早朝から手分けで戸別に、「地頭用人が廻村するについて相談することがある故、、大谷村地内の薬師堂へ毎戸1名あて、大至急集合するように。」と触れまわった。

 そこで、笠原斧吉は、隣家笠原代吉方へ行って、何の用談だろうか話し合った結果、斧吉は文久三年から慶応三年までの五ヶ年間に用金七両二分程、及び身代金として両度に三両二分都合十一両程も申付けられ、大吉は八両二分程もあるので、おそらく今度の集会もまた、御用金の事であるだろうと推測した。余儀ないことなので二人は笠原小平をさそって三人連れ立って出かけた。

 矢田直太郎は(当時十七歳)、朝作りに隣村永田村境にある畑へ母と仕事に行っていたところ、組頭村上勘一郎(勘右衛門)がやって来て、やはり大谷村薬師堂へ集まるよう申渡したので、家に戻って朝食を済ませ大谷村へ向かった。さて、薬師堂へ着いた斧吉・代吉・小平及び遅れてやって来た矢田直太郎の四人は薬師堂の堂守良道に、大谷・黒田両村百姓達の行方について訪ねたところ、「最前、大勢で大谷村年寄(組頭役)勇次郎方へ出かけていった。」とのことであったので、勇次郎宅に行くと、そこには既に大勢の村人が集合していた。

 大谷村名主村田三左衛門は集まった百姓たちに対して、「只今地頭用人之者が用金申付けとして、黒田村名主中島八百次郎宅へ出役して来ている。皆も承知の通り、度々用金を申付けられて村方一同は全く難渋し、到底これ以上差出せる余裕はないと考える。よって、八百次郎宅まで一同罷越して我々の窮状を訴え、御用金申付けの取下げ方を歎願しよう。若し、歎願を聞き入れて呉れぬ時は、力を合わせて用人を強勢に威迫して追い払ってしまおうではないか。」と発議した。小前一同はこれに同調し、すでに一種の興奮状態が醸し出されていた。

 彼らは不測の時の護身用武器を携行するようにとの三左衛門の指図により、勇次郎宅の裏山より切り出した竹で竹槍を作り、或いは付近に積んであった薪の中から四、五尺位の棒をより出し、また鳶口等を準備した。

 その頃、大谷村名主宅へ辿り着いた村上平十郎は、三左衛門が薬師堂にいると聞いて後を追い、薬師堂に近い光真坊という庵に三左衛門一人を呼び寄せて地頭から申し付かったことを伝えた。そこへ同村百姓武井幸吉・同幸次郎・新井金十郎・島村新八・福島兵吉等の重立ち其の外約三十人余りの者が、手に手に竹鑓・鳶口等を持って押寄せ、口々に平十郎を「地頭ニ馴合居候儀、可有之」と、ののしった揚句、なぐる・けるの暴行を加えた。滅多打ちにされて倒れた平十郎は、縄で縛りあげられ、所持の大小及び懐中物其の外を奪取された。奪取物はその場で直ちに焼き捨てられ、平十郎は三左衛門方土蔵へ投げ込まれてしまった。

 一方、黒田村名主中島八百次郎は他出し、昨夜から泊まっていた組頭笠原儀平(儀兵衛)が、地頭神谷勝十郎に酒の給仕をして平十郎の帰りを待っていた。

 五つ時頃(午前八時)大谷・黒田両村の百姓は、八百次郎宅付近に到着し、屋敷の周囲を取り囲んだ。そして三左衛門が屋内に入って地頭に「用金は上納できぬ」旨を申し出た。予測されたように話がもつれてくると、昨夜来からのいきさつに業を煮やした地頭は、抜刀して三左衛門に切りつけた。すると名主の危急を知った大谷村の百姓は家の表裏からどっと乱入した。

  しかも、用人が来村していると聞かされていたのに地頭神谷勝十郎自身であったので、その憤りは一気に爆発した。(笠原代吉始末書)罵声と怒号が交わされ、群集のはげしい形相に驚いた組頭笠原儀平(儀兵衛)は、名主八百次郎にこれを知らせようと逃げ出した。

 名主三左衛門以下の大谷村百姓は酒に酔って自由のきかない地頭に迫り、ついに台所の一隅に追いつめ、これを突き刺してしまった。そして猶も刀を振回し起き上がろうとする地頭の刀をもぎ取った。これを見ると群集は日ごろの鬱憤を晴らすべく、所かまわずなぐりつけたため、力尽きた地頭はついに死亡してしまった。

 一説によると、地頭と大谷村名主三左衛門の対談中に誰かが、地頭のすきを窺って床の間にあった大小を掻っさらって逃げ、その瞬間に群集が居宅の表裏から踏み込み、台所の流し台の下へもぐり込んだ無腰の地頭を竹鑓で刺し殺したという。

 地頭の死骸は火葬にすることになって河原に運ばれた。薪を積み、火葬をする際に、人肉は兼ねてから持病の薬になると聞いていた一人が、死骸の左股から一寸五分くらいの肉片をとり、一部をその場で酒と一緒に食べ、残った肉を家へ持ち帰ったという。

 大谷の薬師堂まで行った、黒田村百姓笠原斧吉・同小平・同代吉・矢田直太郎ら四人は、名主中島八百次郎宅までは獲物を持って大谷村の者たちと同行したが、その後は積極的に行動をしなかった。それぞれ口述書によれば直太郎は名主宅の西の竹薮に屈み、斧吉は名主宅前の垣根際にたたずんでいて、地頭の死骸が河原へ運ばれる時になって、その列の後を追ったという。火葬場でも現場より二十間余りも離れた所にいたが、名主三左衛門から「もう、昼食時になる時間故、黒田の人たちで食事の支度を頼む。」といわれ、直太郎・代吉の二名は味噌・醤油・豆腐などを永田村岩田屋政吉方で調達し、斧吉・小平の両人は小前田村の穀屋、田中屋平四郎方で白米を購入して帰り矢田喜作(喜助)方で炊事をした。同家の膳椀を借用して準備した昼食を無住の薬王寺へ運び、四人は大勢の者の食事の世話をしたという。

 名主三左衛門以下直接行動に出た者達は、やがて地頭の骨を薬王寺境内に埋葬して来村のうえ、善後策を講じた。

 一方、三左衛門方土蔵に入れられていた村上平十郎は、翌二十八日夜四ツ時(午後十時)頃までそのままの状態で放置されてあったが、武井幸次郎・新井金十郎らによって土蔵の庭に引き出され、「其方儀、地頭ならびに八百次郎と馴合居候儀ニ付、打ち殺可申」と、暴行を受けた。折柄、荒川村壽楽院住職と同村名主持田四郎次が駆けつけて身柄の引渡しを申し入れた。引渡しの交渉は難航したが数刻後に次のようにまとまった。

  @村上平十郎及び黒田村名主中島八百次郎の両人で大谷村へ金百五十両差出すこと。

  A村上平十郎は外に、入金用として金拾弐両と侘書を大谷村へ差出すこと。

  B村上平十郎は剃髪すること。

 右の三ヶ条を忠実に実行すれば助命するという条件であった。平十郎は、ただ地頭の申付けを守って先納金や用金を納めるように知行所を督促しただけであるけれども、やむなく田畑を売払って代金を払うことにし、ようやく放免され、壽楽院住職に身柄を引き取られた。(村上平十郎始末書)

ページ先頭へ戻る

  事件の結末

 名主三左衛門以下は、爾後の収拾をどうつけようか、罪科を免れるにはどのようにしたら良いかと額を集めたい策を考えしあった。三左衛門は、「今度の殺人事件に関して、我々百姓共は被害者が地頭神谷勝十郎用人玉川郡司と名乗っていたことにし、その者が頓死した旨を地頭所へ届け出よう。そして被害者は、地頭そのものであることがわからなかったというように偽装しようではないか。」と提案した。別に、これという名案も浮かばなかったため、これに賛同するものが多く、江戸の地頭役所へ急使を派すると共に、当時当地方を鎮撫していた安部摂津守役所へも届け出て吟味を受けた。しかし、尋問に対しての答弁が条理に合っているので、関係者全員とも無罪の宣告を言い渡された。すでに官軍の支配下にあり、神谷が旧幕臣であったところから官軍の裁きはゆるやかであったのであろう。

 ところがこの事件は再燃し、明治四年に裁判が行われた。この間のことについて花園村郷土誌(黒田勇著)は次のように述べている。

 「このご、大谷村高橋勇次郎、私怨を以て衆を陥れんとし、明治四年(1871)岩鼻県に訴ふ。事引いて神谷氏の事件に関す。是を以て県吏、首謀者と目せらるる数人を逮捕し、八月十二日関係者一同を召還し、八月二十八日入間県に移され、後又司法省に転送せらる。翌五月九日同裁判所に於いて裁許となる。有罪として処罰せられしもの、大谷村百姓杖罪九十本五人、同八十本三人、笞罪五十本六人、黒田村に於いて笞罪五十本六人、同十本二人、叱置一人とす。而して吟味中病死せるもの岩鼻県にて二人、川越にて一人、江戸にて五人なり。之を村別にすれば、大谷村五人、黒田村三人なり。」裁許状による刑は次のようであった。

  

    黒田村百姓一揆判決一覧表

村名

氏   名

地位

参加有無

刑 罰

行動と罪状

黒田村

中島八百次郎

名主

不参加

笞罪10

用人玉川郡司と偽証

笠原斧吉

百姓

参加

笞罪50

手出しせず、用人玉川郡司頓死と偽証

笠原小平

笞罪50

上ニ同じ

笠原代吉

笞罪50

上ニ同じ

矢田直太郎

笞罪50

上ニ同じ

牢内病死

死骸の左股肉を竹鑓で突肉を捻切り食した

村上勘一郎

笞罪50

手出しせず、用人玉川郡司頓死と偽証

矢田喜作

笞罪50

上ニ同じ

笠原儀平

組頭

不参加

笞罪10

用人玉川郡司頓死と偽証

田沼浅兵衛

百姓

牢内病死

笠原卯之吉

大谷村

村田三左衛門

名主

参加

牢内病死

首謀者

亀井重太郎

百姓

牢内病死

地頭刺殺者

関口鉄五郎

牢内病死

高橋勇次郎

組頭

牢内病死

武井幸吉

杖罪80

村上平十郎を暴行の上土蔵へ監禁、用人玉川郡司頓死と偽証

新井金十郎

百姓

杖罪80

同上

島村新八

杖罪80

同上

武井幸次郎

杖罪90

火葬の時、重立取計、用人玉川郡司頓死と偽証

福島兵吉

杖罪90

火葬の折、荒川まで死骸運搬と薪持運び、用人玉川郡司頓死と偽証

新井栄五郎

杖罪90

同上

飯野栄吉

杖罪90

同上

武井熊次郎

杖罪90

同上

高橋新八

笞罪50

手出しせず、用人玉川郡司頓死と偽証

高橋小次郎

笞罪50

同上

村田和三郎

笞罪50

同上

横河浦三郎

不参加

笞罪10

玉川郡司頓死と偽証

関口作平

笞罪10

同上

小林惣吉

笞罪10

同上

黒田村

村上平十郎

地頭 賄役

被害者

叱置

同上

神谷勝十郎墓(薬王寺)

 幕府法では、主殺し・尊属親殺しを逆罪と称して特別に重く取り扱い、刑が最も重く、御定書きでは二日晒一日引き回し、鋸引きの上礫、子は流される慣例であり、その上欠所が附加刑とされた。ところが、本事件の被告たちが比較的軽い刑で済んだのは、明治新政府が発足したばかりで、法の不備と改廃が激しかった為でもあると見られる。維新当初、政府は新立法の暇がないため、各地の先例に従わしめたが、明治元年十月府藩県に令達して、新律の発布まで「故幕府へ御委任の刑律」に依らしめた。故に、公事方御定書を用いたが、其の中でも君父を殺した者は極刑であった。

 明治三年(1870)十二月、新律綱領が領布されたが、この律の効力は領布以後の裁判に対して凡て適用され、また領布以前の罪に対しても有効であるとされた。即ち遡及効が認められていたわけであった。しかし、この律の実施に際しては新旧両法のうち刑の軽い方を適用することに改められ、即ち、流罪以下の罪に関して既に判決が確定した事件に対してまでも、旧法が新律よりも軽い時には元の判決のままで変更しないが、反対に旧法が新律よりも重い時には、新律に引き直して判決を改めさせ、若し、新律を適用すると既に年限を超過しているものは直ちに放免させたのであった。

 本判決をみると、事件の首謀者とされた大谷村名主村田三左衛門、地頭殺人の直接行為者とされた百姓亀井重太郎は牢内で死亡してしまったが、死亡したが故に他の者に重罪の累を及ぼさぬようにする為、あくまで彼ら二人が首謀者と認定されるよう望み、他は同類と見られるように運動したものと推定される。斯様なわけで、同類として参加した百姓は従犯と見なされ、正犯の刑に照らされて減刑を受けたようである。また、犯罪の発生から逮捕まで三年間もの年限の経過があり、さらに判決は一年先であったので、年限による減刑の適用も受けた為、改定刑律の懲役法にあたる笞杖罪が適用されたのではなかろうか。

  地頭神谷氏の末路

 さきに述べたように事件直後村方から江戸屋敷には「地頭屋敷から差遣わされた用人玉川郡司は、当地において頓死しました。」と伝えられた。口伝によると、この知らせを受けた奥方は、頓死したのは夫であることを直感し、使者に対して「其の者は刀を抜いたか。」と尋ねた。「残念ながら飲酒中で刀は床の間に掛けておいた処、隙をみて何者かが持ち逃げしたので、抜くことが出来ませんでした。」と、使者が返答するや、「何たる不甲斐ない夫であろうか。最早、御家は断絶じゃ。どうぞこの児を頼む」と言って、仏間に駈け入り、自害を遂げたという。(明治四年八月廿四日中島八百次郎始末書では、奥方の死は明治元年五月病死としてある。)

 遺児は当時四歳と一歳の男子であったが、一挙に両親を衷失したので、扶養するべき者がいないため、地頭方親族は養育してくれるよう黒田村名主方へ懇請した。名主は哀れな小児の姿を見て快く承諾を与へ、同年七月に二児を引取り、長男は八百次郎の伯父長谷部勇方へ、次男は矢田喜作(喜助)方へ預けて養育を受けた。(中島八百次郎始末書)

 数年を経たある年の冬、長男は近所の子供等と荒川河原で野火をして遊んでいたが、不幸なことに着衣に火が燃え移って焼死をしてしまった。次男は清吉と称し、始め黒田学校の代用教員として教鞭をとっていたが、後に鉄道関係に転職し、仙台方面へ居を移した。二児のほか、勝十郎の母がいたが生活の術もなく度々旧知行所へ来村して、村内の富裕層へ生活の資を無心したそうである。しかし、明治十五年頃(或いは二十年頃)来た時に、「もう時代も変わったのだから、何とか自分で考えなさい。これが最後の恵みですよ。これからは絶対に来ないで下さい。」と、村民に諭され、僅かの貨幣を包んだおひねりを手にして去ったという。

(以上昭和45年発行花園村史より)