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富田林寺内町の探訪

江戸時代の町並みが残る寺内町(じないまち)をご紹介します

大阪市内から近鉄電車で富田林駅まで30分。駅から徒歩10分。
ひっそりとした佇まいを残すお寺や町家を巡りながら、お手軽な歴史散歩に出かけてみませんか? 皆様のお越しをお待ちしています。

とんだばやし歴史散歩(祢酒太郎著)


桜田門外の変と富田林の木綿問屋

黒山屋・田守家住宅
 
木綿仕切帳(寺内町センターで展示)

安政七年(1860)三月三日、幕府の大老、彦根藩主井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士に刺された。この大事変のため、三月下旬に年号が改められ、万延元年となった。井伊大老を失った彦根城下では、この大事件があってから、にわかに警戒が厳重になり、他国・他領のものは城下へ立ち入ることは一切できなくなってしまった。

それまで毎月のように彦根に商用で来ていた富田林村の木綿問屋、貴志屋(杉本)藤兵衛も、このため四月から彦根の近くの高宮に宿をとって、彦根のおとくいさんとの取引きは、人をやとって高宮の宿まで案内させていた。藤兵衛は彦根に河内木綿のおとくいがたくさんあるので、いちいち使いの者出さなければならない不便さにほとほと困り果てていた。

八月の初め頃になって、彦根の橋向町のはしにある柵門の外に店をもっている平田村の大野屋丹治のところへ昼だけ出かけて行って取引した。九月になると、彦根藩で「他国商人取調役」というものがつくられ、そのもとじめは、彦根本町の釜屋惣七、通町の米屋六平、伝馬町の石臼屋三郎右衛門、瓦焼町の越後屋金蔵、橋本町の花屋茂平、金森屋と橋向町の大黒屋吉右衛門による七人の主だった商人であった。これによって、彦根の商人は外の町へ出張することが許された。だが、おとくい先に来てもらい、日雇いの使いをやるのも高宮の宿にいたときと同じであった。そこで、藤兵衛は、ごく内々に彦根の宿にとまり、取調役が廻ってくると、高宮の宿へ引き取りますと、ことわっているものの、窮屈でならなかった。 

翌万延二年の正月から内町も外町も昼だけは取引に出かけることが許されたが、文久三年(1863)の正月からまた立入りが禁じられたので、こっそり泊まっていたが、夏頃になると、昔から取引のあった商人だけは取調べ鑑札がおりるようになった。もっとも一人に一枚づつで、一枚につき、一カ年に一部の冥加金がとられた。藤兵衛は自分のと、手代の分とで二枚うけとった。これは、彦根の町に出張したとき、すぐ取調べ役のところへ行ってもらい、彦根から帰るとき、また鑑札を戻しに行かなければならないので、大変面倒であった。

ところが、この取調べ役人に不正があったとかで、翌年正月から鑑札はとりあげられてしまった。元治元年(1864)三月頃から表向きは許可はなかったが、少しゆるんで来たようで、商人達は彦根城下へ来るときは、帳面類を風呂敷包にして背負い、雪駄(せった)などをはき、地元のものに見せかけ、ひそかに内町・外町へ出かけたが、内心はびくびくしていた。元治元年も四月に年号がかわり、慶応になった。この慶応元年の夏、五月に将軍家茂は第二次長州征伐で江戸を出発し、大阪城に入った。それ以後はまた少しきびしくなり、時どき宿屋へ調べに来るようになった。 

その年の十一月、彦根の殿様は長州征伐の先鋒を命ぜられ、芸州の廿日市へ出張することになってから一段と他国のものの取調べが厳重になった。藤兵衛はこれまでも彦根の役人衆とは面識があるので、もし見とがめられたときは、どうなることかと心配し、この年の五月、富田林村を支配していた信楽(しがらき)の代官役所の手代、万左衛門が幕府への献金のことで鴻池新田へ出張して来たときをつかまえて、彦根藩のことをたのんだところ、それでは代官役所から添書でも書いてやるから、そのようすを申し出るように言われた。

その後、彦根の主だったとくい先に相談したところ、それは押しつけるようでよろしくないと言われ、時節がくれば、こちらから願い出るようにするからと、親切に言われたので、見合わせていると、今度、彦根城下の町々から調達金を出すことになり、川原町の金屋弥七が彦根奉行所へ内々できいてくれたところ、元じめ衆の中の広松益三という人がよろしく取りもちしてくれ、金子百両と幕地五反を富田林村木綿問屋の三人、貴志屋藤兵衛、黒山屋三郎兵衛、仲村屋徳治郎の名で奉行所へ献じて、やっと特別の鑑札をもらうことができた。それからは安穏(あんのん)に城下に立入ることが許され、藤兵衛達は大へんよろこんだ。

(この話は、杉本宗勝氏所蔵文書、貴志屋藤兵衛が慶応二年五月に書いた「彦根御鑑札一条控帳」からとったものである。) 
「とんだばやし歴史散歩」祢酒太郎著  (富田林市立中央図書館蔵書)
昭和51年(1976年)11月3日発行
昭和52年(1977年)11月10日第2版

祢酒太郎氏略歴
1917年 富田林市富田林町に生まれる
1947年 京都帝国大学経済学部卒業
1970年 富田林市役所市史編集室長
1974年 河南町助役
1976年 河南町助役退職
研究発表
1975年 大阪歴史学会・地方史研究協議会編
    「地域概念の変遷」(雄山閣)
     第二部文化財保存
     「富田林・文化財保全の問題点」
寺内町の成立と歴史  歴史逸話
寺内町の成立と歴史 宗教自治都市
寺内町の成立と歴史 在郷町としての発展

寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退
寺内町の成立と歴史 繁栄と衰退(昭和40・50年代の頃)
吉田松陰 仲村家に滞在 - 嘉永六年二月・三月
桜田門外の変と富田林の木綿問屋
大久保利通が杉山邸に来たこと
郡役所新築に対する葛原氏の意見書 明治十八年
富田林開発記念碑 興正寺別院
木沢与平氏の「年代記」
富田林駅前の「楠氏遺跡里程標」
浄谷寺の釣鐘
歴史的建造物(一覧)・建築様式 
歴史的建造物一覧(寺院・町家)
歴史的建造物一覧(寺院・町家)(続き)
歴史的建造物一覧表(寺院・町家)
寺内町の建築様式
寺内町の建築様式(続き)
寺内町の町割(都市計画)・交通 歴史的町並み景観の保存・地域コミュニティー活性化
寺内町の町割(都市計画
東高野街道と石川の舟運
寺内町の入口(街道口)
歴史的町並み景観の保存
歴史的町並み景観の保存(続き)
富田林寺内町をまもりそだてる会
地域活性化への取り組み
 「カラー 歴史の町並」(文・那谷敏郎 写真・橋本治朗、淡交社刊、1975年初版)
既に絶版になっている書籍ですが、富田林市中央図書館の蔵書の中から見つけた1冊です。全国各地の歴史的町並みを著者が訪ねて書かれた紀行文で、富田林にも足を運んでおられます。富田林寺内町の歴史について、エッセー風にわかりやすい文章で記されており、小生のお気に入りです。出版社である淡交社編集部の事前許諾を頂戴しましたので、抜粋・引用の上、紹介させて頂きました。 (2012年9月10日、管理人)


Information


(富田林市提供、禁無断転載)

富田林寺内町への道順
寺内町へは近鉄長野線富田林駅又は富田林西口駅下車徒歩10分です。先ずはじないまち交流館へお立ち寄りください。

散策地図がもらえます
富田林駅前の観光案内所又はじないまち交流館散策地図がもらえます。

立ち寄ってみたいお店

休憩所(トイレ)
じないまち交流館寺内町センターじないまち展望広場にあります。

車でお越しの方へ
寺内町は道幅が狭く、中には公共駐車場がありません。車でお越しの場合には、2014年2月に新しくオープンした富田林市営東駐車場(有料)をご利用ください。一般用の普通乗用車及び団体用のマイクロバス(1台分、市役所に要事前予約)を駐車できます。重要文化財・旧杉山家住宅まで徒歩5分、じないまち交流館まで徒歩15分。

尚、団体用の大型観光バスでお越しの場合は、富田林市役所にお問い合わせください。宜しくご協力をお願いします。


興正寺別院
真宗興正寺派に属し、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院です。地元の人からは御坊さん(富田林御坊)として親しまれています。応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。 永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

重要文化財・(旧)杉山家住宅
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構です。明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもあります。昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理しています。


(南)葛原家住宅・三階蔵
酒造業で栄えた商家。三階蔵は日本に少ない貴重なもので、寺内町のランドマーク的存在。各層に庇を廻し本瓦葺き。妻を表に向けて白壁を際立たせている。年貢米を入れる蔵であった。1854年建築

ボランティア・ガイド

団体でお越しの場合には、地元のボランティア・ガイドによるご案内も可能です。(事前のお申込みが必要)

ガイドのお問い合わせや事前のお申込みは下記のじないまち交流館までお電話ください。


じないまち交流館
〒584-0033
大阪市富田林市富田林町9-29
TEL.0721-26-0110
FAX.0721-26-0110
(午前10時~午後5時、月曜休館)

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