D論秘話


今だから明かせる、D論秘話がある。

新潟大学大学院自然科学研究科の規定では、博士号を取得するのに、複数篇(課程博士は2篇以上、論文博士は3篇以上)の査読付き学術論文が必要とされている(その中で、少なくとも1篇は、第一著者の論文でなければならない。また、必ずしも英文でなくとも良い)。これに対し、私が所属していた研究室では「第一著者で国際誌に少なくとも5篇の論文」という、博士号を取得するための内規を、指導教員が勝手に決めてしまった。ところが、この内規をクリアできたのは、私を含めて最終的に二人だけで、他の人たちはクリアできなかったにもかかわらず、指導教員の胸三寸で博士号を取得することが出来た(1)。

私は、(自分で決まりを設けておきながら、それを平気で破る)指導教員に頭を下げるのが嫌だったので、D論の予備審査のとき「第一著者で国際誌に掲載された論文6篇」を彼に突きつけ、有無を言わさず、博士号を取得した(2)。

そのとき私が提出したD論で、ささやかな抵抗を試みていることに、どれだけの人が気付いているだろうか(D論を読んだ人は少ないだろうが......)。謝辞の項で、私は以下のように述べている。

I would particularly like to thank Professor xxxx (Niigata University) for his long-term encouragement and supervision throughout this study.

米国の友人が教えてくれたのだが、ちゃんとした指導を大学院で先生から受けている場合は「under the direction of xxxx」と謝辞するのが普通で、その人が本質的に何も貢献していないニュアンスで使う単語が「supervision」だという話である。この英語の微妙なニュアンスは、とうてい日本人には理解できないものであり、だからこそ指導教員のチェックを徹頭徹尾、免れることが可能だったのかもしれない。但し、このD論は欧米の知り合いの研究者20名ほどに郵送され、行動学関係のテキストで引用もされているから、私と指導教員との関係を、とっくに彼らは気付いているに違いない。

[脚注]
(1) 当時、研究室にいた修士課程の大学院生が「先生は、羽角さんのことを『すごい、すごい』と言うけれど、何が凄いのか分からない」という、面白いことを言っていた。なるほど、確かに私は、大学院生の頃、周りの人々に自分の才能をなるべく悟られないようにしていた。しかし、曲がりなりにも指導教員は、爬虫両生類学分野の著名な研究者である。そういった研究者だからこそ、いち早く、私の才能を見抜くことが出来たのだと思う。まあ、表面的な見方しか出来ない大学院生から評価されたいとは思わないから、どうでも良いことではあるが、ちょっと思い出したもので......(1)。
(2) 私の学位は、博士(理学)である。私は、一年前も同様にD論の草稿を提出して予備審査を受けているのだが、某教授の直しが余りにも的を外れていたので「この直しでは出来ない」と指導教員に同意を求めたところ「我々の直しが聴けないのなら、提出してもらわなくて結構です」と頭ごなしに言われて、本審査でのD論の提出を諦めたという経緯がある。私は、D論の内容には絶対的な自信を持っていたので、それから一年後にも同じ内容でD論の草稿(某教授の直しを無視して体裁だけ変更したもの)を提出した。変わった点と言えば、その間に国際誌にアクセプト(掲載許可)された論文の数が増えたことくらいである。ところが、某大学院生が私に教えてくれたのは「先生が、羽角さんのD論(の草稿)を誉めていましたよ」という、にわかには信じられない言葉であった。私が「中身は、一年前と変わってないよ」と答えると、彼が怪訝な顔をしていたのが、妙に印象的であった(2)。

[脚注の脚注]
(1) 私が博士課程の大学院生・研究生の頃、指導教員だった教授からは「(助手の)◯◯くんさえいなかったら、すぐにでも羽角くんを助手にするんだがなあ」と、耳にタコが出来るくらい、何度も何度も聞かされていた(教授についた最後の卒研生[1]の中には、このことを知っている人が何人かいるはずである)。◯◯さん(私より18歳年上の人)には研究業績と呼べるものがほとんどなく、結局のところ生涯一助手で(途中から「助教」という呼び名に変わったが)、その教授が定年退職するまで、助手のポストが空くことはなかったのである(その後、教養部の廃止に伴う理学部の新学科増設で、◯◯さんは助手のまま、その学科に移動させられている)。かくして、この大学で私が助手になる機会は永遠に失われ、現在に至っている。
(2) 世の中には不思議なことがあるものである。体裁だけ変更して提出したD論の草稿が、今回は絶賛されるとは......?考えてみれば、そのときは、レーザープリンターや様々なフォントが利用可能になっていたので、作製したD論が出版社並みの印刷仕様になっており(現在では当たり前のことだが)、確かに見栄えだけは、一年前と比べて格段にアップしていたに違いない。ちなみに、このD論からは最終的に8篇の学術論文が生産され、何れも国際誌に掲載されている。

[脚注の脚注の脚注]
(1) これらの卒研生(4年生)が卒業研究で教授の研究室に配属されたとき、彼らの研究テーマを考えたのは、何を隠そう私である。その頃の教授は、もう研究テーマを考えることも出来なくなっていたから、それぞれの研究のプロセスを詳細に書いた計画書を作成し、プリントアウトしたものを教授に渡した。ところが、その後が良くない。教授は、計画書の作成者である私の名前を修正液で消し、その上に自分の名前を書いて、卒研生に渡していた。卒研生のひとりから、それを見せられたとき、教授への信頼がガタガタと崩れて行くのが分かった(信頼できない教授から、幾ら「助手にしてやる(から、頑張って、私との共著論文を出して下さい)」と言われても、普通は話半分にしか聞けないだろう。ちなみに、教授が言う「◯◯くんさえいなかったら、すぐにでも羽角くんを助手にするんだがなあ」は、公務員法で、研究業績のない助手を首にすることが出来ないことを分かった上での、◯◯さんへの当てつけである)。


[追記(2014年7月17日)] 博士論文の草稿が誤って製本されることは、常識では有り得ない。製本後の改訂は物理的に不可能なので、博士論文審査委員の主査と副査から予備審査で指摘された不具合を徹底的に直し、完璧なものに仕上げてから、自分自身で最終稿(製本に必要な部数)を印刷する決まりになっているからである。仮に博士論文審査委員を主査1名、副査4名とした場合、国立国会図書館に納めるものと博士号の学位を取得した大学の図書館に納めるものを合わせて、製本に必要な最少部数は「7部」である。これに自分の分と知り合いの研究者に謹呈する分を含めると、かなりの部数を製本することになる(私の場合は、30部)。これらを1部ずつ乱丁や落丁が無いか確かめて封筒に入れ、ハードカバーにするか、ソフトカバーにするかを指定した上で、製本業者に頼むことになる。製本するのが1部や2部だったら「博士論文の草稿が誤って製本された」と主張することも不可能ではないのかもしれないが(これも滑稽な主張には違いないのだが)、この主張は、博士論文の製本過程に無知な人々をだまそうとする愚か者の戯れ言(ざれごと)であり「博士論文の製本の歴史を愚弄している」と言わざるを得ない(博士論文の最終稿と公聴会をもとに「本審査(合否判定)」がおこなわれる。合否判定後の博士論文の改訂は原則的に認められておらず、従って、この時点での最終稿がそのまま製本されることになる。もし博士論文の草稿が誤って製本されたのであれば、この草稿に対して博士論文の合否判定がおこなわれ、その結果、不正に学位が授与されたことになってしまう)。ちなみに、世間一般では「博士」のことを「はかせ」と呼ぶが、正式な呼び方は「はくし」である(学士、修士、博士と、語尾が「し」になることを考えれば、分かりやすいだろう)。


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