シャーマル調査の帰路の出来事


炎天下での過酷なシャーマル調査が終わりを告げ、帰路の面々は晴れ晴れとした顔をしていた。

2005年7月25日(月曜日)は、午前6時10分に起床した。昨晩の就寝時刻が午前2時頃だから、4時間しか眠れなかったことになる。それでも私は眠れたほうで、他の面々は貫徹に近い状態であったらしい。起床してすぐにシュラフやマットを収納し、朝食代わりの紅茶と菓子パンを食しながら、テントをたたんだ。それから隣に住む遊牧民の男性に、お世話になったお礼に私の虫よけ帽をあげると、午前7時52分に出発と相成った(1)。

午前8時4分、シャーマルの村落に入り、モンゴル国立大学の学生であるラウガの親戚の雑貨屋さんにお邪魔した。実は、この家の冷凍庫には、今回の調査でナイロンメッシュトラップに掛かった6匹のジャコウネズミ(muskrat)を預けていた。そのネズミ、というよりラットをもらって帰るのが、訪問の目的であった。

午前8時13分に村を出ると、どこまでも真直ぐな砂の道を走った。両脇には、街路樹としてニセアカシアの木が植えられており、ところどころにシラカバも生えていた。このまま帰るのかと思っていたら、どうも違っていたようで、ジープがいきなり脇道にそれて走り出したのには驚いた。一体どこに行くんだろう? 例によって、私は何も聞かされていなかった。ジープの運転手も道を知らないらしく、付近の遊牧民に道を尋ねていたのは、ご愛敬と言ったところか......。

午前8時45分、前方に見覚えのある青い布の固まりが見えて来た。モンゴルで「お母さんの木」と呼ばれているオボーであった。青い布は空の色を表し、空はモンゴル人の信仰の対象になっている。青い布は、ところ狭しと巻き付けられていた。このオボーには、1匹のシャム系に近いネコが住み着いており、お供物を食して生き長らえているようであった。私はネコ好きなので、いつものようにネコを可愛がっていたが、他の人たちはネコを避けるように歩いていた。その光景が不可思議に思え、ズラさんに尋ねてみると「ネコは、モンゴルでは忌み嫌われる動物です」という答えであった。これは初めて知った。日本人はイヌ好きとネコ好きが半々くらいだから、モンゴル人が日本に来たら、辺りがネコだらけで大変なんだろうなあ......。

午前11時14分にダルハンの市街地に入り、カフェレストラン(いわゆるゴアンズとは違う)で昼食を採った。まず供されたのは、今まで飲んだことがないほど濃い、ポタージュスープのような味のするスーテーツァイ(いわゆるミルクティー)であった。これは旨かった。メインは6個のホーショルで、中に大粒の羊肉とタマネギを詰め込んだ、大きい揚げ餃子といった食べ物である。これに、キュウリ、トマト、卵焼き、バジリコをマヨネーズソースで和えた、ミックスサラダを付けることにした。モンゴルでは、どこの店でも、なぜかサラダだけは外れることがない。お勧めの食べ物である。

午後0時12分にレストランを出て、自動車を走らせると、午後2時10分と午後3時に休憩した。いずれもゲルハウスを見つけての休憩で、ズラさんたちの目的は馬乳酒、シミンアルヒ、バターの購入であった。馬乳酒の値段は、3リットルで1,800Tg(180円弱)であった。馬乳酒のアルコール度数は2〜3%くらいだろうか? これをジープの運転手も、運転手の5〜6歳くらいの娘も、ズラさんの13歳になる息子も、ゴクゴクと水代わりに飲んでいるのは、ちょっとした驚きであった。

午後4時23分、検問所で通行税を支払い、漸くウランバートルへと戻って来た。午後4時40分にズラさんの両親が住むアパートでズラさんの息子を降ろし、午後4時51分には、ダルハディン湿地調査隊長の○○さんが借りているアパートへと到着した。

これで今回のシャーマル調査は無事に(?)終了したのだが、ウランバートルに戻って来てからの一番の問題点は、ダルハディン湿地調査が始まる8月2日(火曜日)までの約1週間、私の宿泊場所が決まっていないことであった。「郷に入りては、郷に従え」と言うが、こんなのばっかりじゃ、こっちの身が持たないよねえ。

[脚注]
(1) この遊牧民の男性は年齢が31歳と言っていたが、日に焼けているせいなのか、ちょっと見は50代前半くらいであった。彼には、後述のジャコウネズミがトラップで捕獲される度に、自転車でシャーマル村の雑貨屋さんまで運んでもらっていた。その、お礼の意味を込めてのプレゼントであった。


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