Diary of 16th Australia
Part 1: Capricorn Coast
 15回目の帰豪後、2度の転職をへて、新しい職場で何とか自分がまともに稼動すべく、日々の奮闘に明け暮れ、気付いたら1年以上も里帰りをサボってしまいました。
 ふと振り返り、沸々と甦った第二の故郷への思い…1年9ヶ月ぶりの帰豪を綴った旅日記にお付き合いください。
※このコンテンツは、2006年9月11日に公開した"Diary of 16th Australia"を移植したものです。

出発まで…禁断症状 
 オーストラリアを想うことは、僕にとって無上の悦びである。
 しかし、想い続けるだけだと、いつか僕はもどかしさから、苦痛を感じてしまう。
 そう、僕はオーストラリアの空気を吸わないと生きていけない、オーストラリア・ジャンキーである。

 転職の区切りにシドニーへの里帰りを果たしたのは2004年11月だから、1年半以上も前になる。
 1年半…想い続けるだけにしては、あまりにも長すぎる年月、僕の体は禁断症状を起こしつつあった。頭の中で常に会計仕訳や計算が回り続ける毎日。体が青い空を、美味しい空気を欲しがっている!
 気がつくと、僕はカンタスのチケットを手にしていた。

 長年温めたある思いを果たしに、そして、里帰りをしに…僕は着々と準備を進め、日本を脱出する日を迎えた。
 プロローグ  2006年8月9日  2006年8月10日 前編  2006年8月10日 後編  2006年8月11日  2006年8月12日 
 2006年8月13日  2006年8月14日  2006年8月15日  2006年8月16日  エピローグ 
  
8月9日(水) 日本脱出 
 台風7号と思いっ切りぶつかったこの日、成田まで辿りつけるか、成田から飛行機が出てくれるか非常に気を揉みながらの旅支度をしていた。
 しかし、昼過ぎになり、どうやら飛行機の出発時間には台風は房総沖に抜けそうだと分かったこと、そしてカンタスのチケットでの旅行となるが今夜の便はJALの機材でのコードシェア便で、豪州からの到着如何で遅延してしまうカンタスの機材ではないことから、取りあえずはホッと胸をなでおろして出発することになった。

 成田へは、同じ沿線のたまプラーザからの直行バスで向かう。
 以前は、近所からのバスで直接成田に行くことなんて考えられなかったが、重い荷物を持ち歩く身としては、これは本当に助かる有難いサービスである。
 夏休み中のため、ところどころで渋滞しているらしい。東名は順調だったが、首都高3号線に入ってからは、何回か渋滞に巻き込まれたため、バスは予定より20分ほど遅れて成田に到着した。

 バスは遅れたが、余裕を見ての出発だったので、飛行機の搭乗には特に影響はなかった。
 チェックインをした後、僕が成田でやることは大体決まっている。
 現地での時間を有効に活かすため、成田からの豪州行きは、夜便の設定しかない。となると、飛行機の中で一晩明かすこととなる。そこで、まずはリフレッシュ・ルームでシャワー。このシャワー、以前は30分300円だったが、何年前からか、500円に値上がりした。一気に200円も値上がり。確か日本の銭湯の料金の改訂には、都道府県知事の許可が必要だなんて事を聞いたことがあるが、お前ら、キッチリ許可取ったんか?!まぁ、毎日ここのシャワールームを使う人なんていないだろうから、文句言う人なんていないんだろうな。
 シャワーの後は、近くにあるYahoo!が運営するネットカフェに向かう。ここ、無料で使えるんで、大変重宝している。ここでサイトチェック。
 以前に比べ、空港でのサービスは格段に充実したので、出発までの待ち時間で退屈することはほとんどなくなった。
 ネットカフェにいる間にかなりの時間が経ち、搭乗時間になったので、出発のゲートに。ハワイ行きの便と同じゲートになったので、すごい人。その行列に混じって、飛行機に乗り込んだ。

 旅慣れている人は、トイレに気兼ねなく行ける通路側の席を取るという話をよく耳にする。しかし、僕はどこかに体を預けないと寝られない人、なので夜便のときは僕はいつも右の窓側を指定することにしている。今回もご多分にもれず、右の窓側のK列の座席をもらった。ラッキーなことに、隣は空席、体を伸ばして寝れる。
 成田発の便の機内食は、日本のケータリング会社が作る機内食なので、格段にウマいわけではないが、決してマズくはない。
 自宅での軽い昼食、バスの中でのコーヒー以外に何も口にしていなかった僕は機内食をペロっと平らげ、枕とクッション代わりの毛布を窓際に押し付け、頭をもたげ、眠りに就いた。
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8月10日(木)前編 ある思い 
 昨晩成田を出発した便は、定刻通りにブリスベンに到着。

 早速入国審査に向かう。
 ブリスベンの朝は、他に関空からの便、どこからかは定かではないが中国のからの便などが一気に到着するので、いつも大変な混雑。20分ほど待たされて、入国審査を通過、荷物を取りに向かった。ガムの持込を申告した紙を持って税関に、X線で荷物のチェックを受けたあとは、特に何もなくすんなり素通り。9.11のテロ以降、世界的にセキュリティが厳しくなったこのご時世ではあるが、日本人はこう言うときは相変わらず強い。

QF2364 BNE-ROK 国際線到着ロビーの端にあるカンタスの国内線のチェックインカウンターに向かい、ロックハンプトン行きの搭乗券を受取り、再び重い荷物を預ける。
 ここから国内線のターミナルに移動するため、国際線のターミナルを出て、隣接の鉄道のホームに向かう。
 外に出ると、雲ひとつない、真っ青な空が広がる快晴。朝早いので、空気が冷たいが、目を覚ますのにはちょうど良い。天気は旅の良し悪しを左右する重要な要素。旅のスタートを、快晴と言う、最高の形で切ることができたのが、すごく嬉しかった。

 ブリスベンの空港は国際線と国内線のターミナルが離れており、徒歩ではシンドイ距離である。しかし、両ターミナルを、Queensland Railの電車が結んでいるため、移動は楽。公共の交通機関のため、本来は運賃を払わないといけないが、ターミナル間を移動する旅行者は、移動先から出発するフライトの搭乗券を改札機に通せば無料で乗れることになっており、非常に配慮が行き届いている。

 国内線のターミナルで再びセキュリティチェックを受けたあと、2時間ほどの空き時間ができた。シドニーでお世話になるぴっかぶーさんに「よろしくお願いしま〜す」の電話を入れた後、カプチーノを飲みながら、特に何するでもなく、ぼ〜っとして過ごした。

Rockhampton Airport ロックハンプトンへは、カンタスの関係会社のQantas Linkが運営する便で向かうことになる。この便で使われているのは、ジェット機ではなく、ブ〜ンと音がするプロペラ機で、これはこれで味わい深い経験ができる。そして、こんなローカルな路線をプロペラ機で旅することは、パッケージツアーでは中々実現できないことであり、これが「俺は一見さんじゃないんだ」と言う、自分のささやかなプライドをくすぐってくれるのである。

 1時間強のフライトで、正午近くにロックハンプトンに到着した。
 7年ぶりのカプリコーン・コーストである。
 7年前は仕事で挫折し、傷心で訪れた。今も仕事での悩みは多く、決して尽きることはないが、あの時よりは少しは大人になれた気がする。今回はそんな報告をこの地にしたいと言う思いから、「里帰りの地」シドニーと並ぶ旅の目的地にこの地を選んだのだ。

 空港でレンタカーを借り、車が停まっている駐車場へ向かった。
 真昼の太陽がギラギラと輝いている。
 これから、そんな太陽が輝く地を駆け巡る旅がスタートする。
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8月10日(木)後編 Joeと素敵な仲間たち 
 暦は8月で、日本は夏真っ盛り。と言う事は、季節が逆転するオーストラリアでは冬となる。それなのに、太陽がギラギラと照りつけて暑い!それもそのはず、いくらオーストラリアが冬だと言っても、ここは南回帰線上にある亜熱帯の地、緯度で言ったら、沖縄よりもさらに低い場所に位置しているのだ。
 僕は堪らず借りた車の前で、Tシャツ1枚になった。

 大きいスーツケースをトランクに入れ、エアコンのスイッチを入れ、車の中でホッと一息つく。
 これからどこに行くかは、ある程度飛行機の中で考えていた。
 真っ先にホテルに向かい、チェックインするか?
 7年前にも訪れたクーベリー・パーク(Cooberrie Park)と言う、動物たちと遊べる場所に行くか?
 どちらもある程度の位置関係は把握していたが、詳しい道順は覚えていなかったので、自分の記憶にハッキリと残っているヤプーンの町の入り口にあるインフォメーション・センターに向かうことにした。

 ロックハンプトン(Rockhampton)はフィッツロイ川沿いに開けたちょっとだけ内陸に位置する町。ここからカプリコーン・コーストの中心に位置するヤプーン(Yeppoon)まで、静かで美しい海を目指し、ドライブを楽しむ。
 ロックハンプトンからヤプーンまでは距離にして約40キロ強だが、オーストラリアでの40キロなんて、ちょっと隣の町にお出かけするようなもの。全くもって、大した距離ではない。 ロックハンプトンの街を抜け、国道1号線(Bruce HWY)を北上、「ヤプーンは右折」の標識に従い、途中、右に曲がり、ひたすら続く1本道を走る。
 前後に車は殆どなく、車窓には緑の草原やユーカリの林が、代わる代わる僕を迎えてくれるかのように現れる。そんな中を80キロから100キロの速さで、快適なクルージングをしばしの間、楽しむ。

 20〜30分のクルージングの後、インフォメーション・センターに着いた。ここで親切な地元のおばちゃんのレクチャーを受けながら、情報収集をした。この時、午後1時。先にホテルに向かいチェックインをすると、動物達と一緒にいる時間が短くなってしまうので、もらったパンフレットに従い、Cooberrie Parkを目指すことにした。

Koala w/strange man ヤプーンの町からCooberrie Parkまでは、約20キロの距離。もうしばらくの間、快適なクルージングを楽しみ、Cooberrie Parkに到着した。
 入り口で主人のJoeが出迎えてくれる。向こうは7年前の僕のことなど覚えていないだろうが、僕はJoeの柔和な笑顔をよく覚えている。その笑顔は7年経っても全く変わっていなかった。
 昼下がりののどかなこの時間、ここにいる客は僕一人。「3時になったら、コアラ抱き抱きをできるから、それまで好きなようにしてて良いよ」とJoe。しばらくの間、タダでもらった50セントのエサを片手に、動物達と楽しむことに。
 ドアには「私たちは愛情と敬意を持って動物達と接しています」と言う看板が掲げられていた。7年前はドアのすぐ向こうでカンガルーが待ってくれていたが、今回は果たして…ドアを開け、まずはそのカンガルーたちと対面しようと中に入る。
 すると、エミューをはじめ、七面鳥、ニワトリ、雉などの地面を元気に走る鳥たちやロバが僕に小走りで寄ってくるではないか!いきなりこう言う場面に遭遇すると、動物達に出会えた嬉しさよりも、ちょっとした恐怖感の方が先に立つ。
 でも、慣れるとどの動物も可愛く見えてくる。どの動物も、健気に僕を見つめる。あの看板の通り、愛情と敬意を注げば、それは必ず動物達にも伝わるものなのだ。奥のほうにいたカンガルーたちも、檻の中で出番を待つコアラたちも同じで、僕が近付くと、向こうからも一生懸命近寄ってきてくれる。
 自分に子供ができたら、ぜひ、ここで動物達と触れ合わせたい!そう思わせる場所である。

 動物達と触れ合い、コアラを抱いた後、主人のJoeと話す時間があった。
・僕は7年前にもここで楽しい思いをした。
・その時、僕はここで働いていた一人の日本人とも話をしたが、彼はシャイでJoeたちには中々心を開かなかったらしい。
・「世界ウルルン滞在記」で紹介された後、しばらくの間たくさんの日本人で賑わった時期があったが、今のようにポツリポツリとだけお客さんが来るほうが、動物達と、彼らと触れ合うお客さんのためには良いんだ。
・今度は7年後と言わず、来年にでも来てくれると嬉しいね。
…本当に優しい目が印象的なおじさんである。

 動物達との触れ合いを十分楽しんだ僕は、ホテルに向かい、チェックインの後シャワーを浴び、長時間のフライトや久々の動物達のと触れ合いのために疲れがたまっていたため、暗くなるまで一眠りした。
 その後、夜のヤプーンに繰り出し、ご飯を食べ、フカフカのベッドで心地よい眠りに就いた。
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8月11日(金) 7年前、5年前そして現在 
 僕はよく、色々な友人に「日本にいるとダラしない生活ばっかりしているクセして、オーストラリアに行った途端に、急に規則正しい生活になるな」と突っ込まれる。オーストラリアにいると、自分でも不思議なくらい、早寝早起が何の抵抗もなくできてしまう。
 この日も7時に目が覚めた。朝食をとったあと、一日をどうするか考え、7年前の思い出の場所を車で回ることにした。

Wreck Point ホテルを出発、ヤプーンの中心部を素通りし、Capricorn Coast沿いにある展望台、レック・ポイント(Wreck Point)に向かう。
 7年前、仕事が原因で周囲の人間の事を信じられなくなり、どうしようもなく悩んでいた時期にこの地を訪れ、毎晩この展望台に来て、海を眺めながら、これからどうしようか、考え続けた。
 結局それから5年間その勤務先で続けた後、2度の転職を経て現在に至っている。当時よりも責任の重い仕事が増えた分、悩みはむしろ今のほうが大きい。あの時の悩みは、もはや自分にとっては小さくなり、今も何とか頑張れている。
 あの時は俺の悩みを受け止めてくれてありがとうと、僕は大海原に向かい、つぶやいた。

 その後、僕はヤプーンの隣町、エミュー・パーク(Emu Park)に行く。
 もちろん、その名の通り、街中をエミューが歩き回っている…わけがない。
 ここは、The Singing Shipと言う、キャプテン・クックの上陸ポイントにこしらえられたモニュメントがあるPEACE PARKと言う公園がある以外は、いくつかのお店と閑静な住宅が点在するだけの、ヤプーンよりもさらに小さな町である。
 何するでもなく、ぼ〜っと時が過ぎるのを待つ場所なのだ。僕はこう言う場所にたまらなく惹かれる。楽しいとかつまらないとか、そんなことではない。こんな旅があっても良いじゃないか。

The Singing Ship エミュー・パークを出て向かうのは、マウント・モーガン(Mount Mogan)と言う、鉱山の町。ここもエミュー・パークと同様、非常に静かな町であるが、ここはかつて栄えた町が衰退したかのような、寂しい印象を与える町である。
 エミュー・パークを出発して約40キロ、昨日空路より入ったロックハンプトンに戻り、そこからさらに南西に40キロほど車を走らせる。途中、クネクネと曲がる山道を登り、登りきった後しばらくすると、インフォメーション・センターを兼ねた鉄道駅が姿を現す。
 僕が到着したとき、ちょうど町を巡るツアーが出発してしまった。インフォメーション・センターのおばちゃんが、「出発したツアーは、一般の車では入ることができない場所をたくさん回るの。またとないチャンスよ。出発したばかりだから、連絡すれば呼び戻せるけど、どうする?」と聞いてくる。
 僕は二つ返事でお願いをした。こう言う融通の利き具合、日本にはない好きなところである。
 僕は飛び入りでツアーに参加することにした。バスに乗り込むと、中はオージーと思しき訛りの人ばかり。みんな笑顔で僕の肩をポンと軽くたたきながら迎えてくれた。
 ツアーのバスは街中の歴史深い数々の建物を紹介した後、一般人は立ち入ることのできない鉱山、採掘活動の末に削られた洞窟、削られて窪んだところから地下水が湧き出て作られた湖、採掘時に発見された恐竜の足あとの化石などを見て回り、出発点の鉄道駅に戻ってくる。その間、21才と言っていた女の子が、これまたオージー訛りで一生懸命説明してくれた。可愛い女の子だったなぁ。
 彼女のお陰で、7年前よりもさらにこの町の事を理解することができた。オーストラリアでは、その町をよく知るには、ツアーに参加するに限る。
 ツアーの後、街中のお店でコーヒーを飲んでぼ〜っとした後、ロックハンプトンに戻り、町外れのショッピングモールで買出し。その後、再び40キロの道程を走破し、ホテルに戻った。

 夕方、日本で仕事をしているある友人から、テロ未遂の報を聞く。早速、ホテルのパソコンコーナーでインターネットで確認、やはり「テロ」の2文字が踊っていた。
 5年前、僕は例年通り豪州旅行を直前に胸をワクワクさせていたが、出発の1週間前、世界を揺るがせた「あの事件」が起きた。あの時は出発しようかどうか、大いに考えさせられた。
 これで、豪州の旅がテロの時期と重なったのは、2度目。
 「またか…」という思いが頭をよぎる。
 テロで何が残るんだ?、戦争って何だ?、死ぬってどう言うことだ?アメリカって本当はどんな国だ?…こう言うことがある度に色々なことを考えさせられるが、未熟な僕は、ただ単に考えるだけで、明確な結論が出ず、自分に歯がゆさを感じてしまう。
 今回もまた然り。
 この場でこれ以上考えても、仕方がない…と言う結論だけ出して、夕食を食べにまた夜のヤプーンへ車を出した。

 オーストラリアでの食事について語りたいことがあるが、今回は長すぎた。次回にとっておこう。
 満腹となった僕はホテルに戻り、風呂で一日の疲れを取り、寝ることにした。
 う〜ん、満腹だ、本当に早寝だ…
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8月12日(土) 楽園最終日 
 僕の勤務先の夏休みは、9日スタートのAパターンと、この日からスタートのBパターンに分かれる。Aパターンの夏休みを使った僕は、日本と同じ番号で海外でも使えるドコモの携帯を使用していた。前の日まで、幸せいっぱいの旅に水を差すような無粋な電話が、Bパターンで休む人間からかかって来やしないか、ドキドキものだったが、この日からは勤務先の殆どの人間が夏休みに入るので、まず仕事の電話がかかってくることはなくなるので、とりあえずはホッとした。

 今日は早くもヤプーン滞在最終日である。
 この日は今まで行ったことのないKoorana Crocodile Farmと言う、簡単に言うとワニ園のような場所に行ってみようかと、考えた。しかしパンフレットを見たら、ワニ園のクセしてワニ皮の製品を売り出しているようで、それが気に入らなかった。
 僕はオーストラリアに惚れ、自然や動物達に触れることの素晴らしさにオーストラリアに教えられた人間。毛皮を着ないし、ワニ皮の製品を買わない、そしてアボリジニたちの聖地ウルルを土足で踏みにじるようなマネはしないと心に決めている。…てな訳で、ここのワニ園はパスし、代わりに、ヤプーンの町をブラブラした後、再びCooberrie ParkJoeに会いに、動物達に会いに行くことにした。

Yeppoon ヤプーンに来てから3日が経つ。
 この間、全ての日が快晴、雨どころか、雲で翳った瞬間が1回もない。
 前にも触れたが、天気の良し悪しは、旅の良し悪しを左右する。今まで雨にたたられ、せっかくの里帰りの楽しさが半減してしまったことが何度かあった。
 だから、今回の好天続きの日々は、僕にとっては、何よりも価値がある、自然からの大切な贈り物となった。
 真っ青な青空の下、ヤプーンの町を歩く。
 町の中心部分は本当に小さい。数百メートルの区画に全てが収まる。これは、オーストラリアの地方の町なら大体当てはまる。
 太陽が照り付けるが、日本と違い湿気がないので至って爽やか、汗っかきの僕が殆ど汗をかかない。そんな中、町を歩く人はみんなのんびり、時間がゆったりと流れる、非常に良いムードである。
 表通りには商店、スーパー、レストランなどが並び、一つウラには小さなギャラリーがいくつも並ぶ。ヤプーンのこの風土が、芸術家をも引き寄せるのだろう。
 いつまでも居続けたい…ヤプーンはそう思わせる町である。

Joe この後、車を駆って再びCooberrie Parkへ。
 思ったとおり、Joeが優しい笑顔で迎えてくれる。7年前の自分は覚えていなくても、さすがに2日前の自分は覚えてくれていた。
 「嬉しいねぇ、こんなに早くまた会えるなんて。さ、ショーが始まるから、こっちに来な」
 ショーの時間とあって、2日前と違い、今日は何組かの人たちがいた。
 ここのショーでは、コアラを抱くのはもちろんのこと、ニシキヘビを体に巻くことができる。
 は虫類は、その姿から中々受け入れてくれない人たちが多い可哀想な動物であるが、Joeはどんな動物にも愛情と敬意を注ぐ。だから、ここではヘビだって、至ってフレンドリー。
 僕も7年前にもここでヘビを巻き、またダーウィンに滞在したときはワニとのキスもした。
 皆さんも、ここに来たら、是非ともヘビにも触れて欲しい。触れば分かるが、肌は清潔で、ぬめってなどいない。
 ヘビだってコアラと同じく、地球上で命を受けた尊い生命を持つ動物。人間の見た目に劣るかどうかなんて、関係ない。Joeがコアラと同じようにヘビとも触れ合える場を作る理由は、それを言いたいからではないのか?僕はふと、そう考えた。

 帰り際、2日前と同じく、Joeと話をした。また、どうしても名前を覚えて欲しくて、ウラに英文で追記した名刺も渡した。Joeは名刺の日本語を不思議そうに眺めながら、しばらく僕に付き合ってくれた。
・大企業での経理の仕事、ストレスがスゴいのか。大変だねぇ
・動物の世話は大変だけど、毎日充実しているし、来る人はみんな笑顔だから、ストレスなんかないね。
・ウェブサイト持ってるのかい?紹介してくれるものなら、ぜひここを紹介して欲しい。
・今度はいつだい?来年、また会いたいね。7年は長いよ。
 Joeと2度目の握手をし、後ろ髪を引かれる思いで、車を出した。

 暗くなってきた。ヤプーンでの最後の食事の時間である。
 オーストラリアという国、食べることには本当に困らない。それはシドニーのような大都市はもちろんのこと、ヤプーンのような小さな町でも…である。
Happy Sun どんなに人が少ない場所でも、チャイニーズのレストランは必ずある。日本料理店はそれほど多くはないが、その代わり日本人が慣れ親しんだ、塩や醤油が多めの料理は、このようなチャイニーズのレストランで味わえるので、食べ物で寂しい思いをすることは、少ないはずだ。ただし、肉が主役となる場合が多く、ボリュームはかなりのものなので、その点の注意は必要でもあるのだが…
 僕もチャイニーズのレストランで夕食をとった。それも、この夜だけでない。ヤプーンにいる3日間、全てである。ズバ抜けて美味いわけではないが、安心できる味なのである。
 ちなみに、ここではチョップ・スティック(箸)を自在に操る東洋人に多くの目線が向けられる。3日間、晩ご飯のときはずっとそうだった。このオーストラリアの小さな町は白人の社会、僕は数少ない東洋人なのだ。
 この夜、こんなことがあった。
 違うテーブルにいた目の青いキレイなブロンドの女の子が、どう言うワケか、僕のテーブルの横に立ち、僕をじ〜っと見つめていた。子供だと分かっていても、見つめられるとこっちが恥ずかしくなってしまう。どうにも気まずくなり、手を振ると、同じく手を振って微笑み返してくれた。女の子がテーブルの上の僕の食事を指差して何かを言おうとしたとき、この様子を笑いながら見守っていた母親に呼び戻されたが、やっぱりここでは東洋人は珍しいんだな、俺は遠いところに来てるんだと、改めて実感した。

 明日はいよいよシドニーへの「里帰り」、出発は朝早い。
 早々に引き上げて、寝るとする

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