Diary of 16th Australia Part 2: Sydney |
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15回目の帰豪後、2度の転職をへて、新しい職場で何とか自分がまともに稼動すべく、日々の奮闘に明け暮れ、気付いたら1年以上も里帰りをサボってしまいました。 ふと振り返り、沸々と甦った第二の故郷への思い…1年9ヶ月ぶりの帰豪を綴った旅日記にお付き合いください。 ※このコンテンツは、2006年10月6日に公開した"Diary of 16th Australia"を移植したものです。 |
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8月13日(日) 「またいつか」、そして「ただいま」 | ||
朝4時、起床。日本での週末だったら、夜更かしの後、寝る時間である。 いくらオーストラリアで早寝早起きになる僕でも、普段はこんなに早くは起きない。 この日、ロックハンプトン(Rockhampton)の空港よりブリスベンを経由してシドニーに向かうが、ロックハンプトンを出発する飛行機の時間が6時45分。そこから支度をしたり、空港までの移動を考えて逆算した時間が朝の4時だったのだ。 朝5時、支度を整え、3日間お世話になったホテルをチェックアウトし、車に乗り込む。 今回の旅で最後のドライブである。 ホテルを出て、ヤプーン(Yeppoon)の中心部を、「ありがとう、必ずまた来るから」と感謝の言葉を呟きながら通り過ぎ、ロックハンプトンの空港に向かう。 季節で言うと冬に当たるオーストラリアだけあり、夜明けは遅い。まだ周囲は暗い。郊外の道路はよく整備されているとは言え、街灯は設置されていない場所が多く、車の灯りだけが頼りのドライブである。 車を駆っている最中に、理由もなくガラスが曇り始めた。朝もやである。普段、運転に慣れていない僕には思わぬ障害となり、一気に緊張感が増した。空港の到着時間が気になったが、スピードを落として運転をすることにした。 しばらくすると朝もやが消え、スピードを元に戻す…また朝もやが現れ、スピードを落とし…これを3回繰り返し、何とかロックハンプトンの空港に到着できた。この頃には夜が少しずつ明けてきていた。 朝が早く、レンタカー会社のスタッフはいないので、車のキーを手続きコーナーの返却Boxに入れ、カンタスのカウンターでブリスベンまでの便と、そこからシドニーへの接続便の搭乗券を受け取る。 日本では、特割や早割など、国内線の割引運賃が当たり前のようになってきたが、カンタスにも同じようなチケットはある。日本の代理店やカンタスのオフィスで売られている「ブーメラン・パス」なる海外からの観光客用の割引チケットには、僕はいつも割高さを感じており、そんな中で今回使ってみたのは、カンタスの本国オーストラリアのサイトで売られているRed e-Dealと言うEチケットである。このチケットを使えば、今回のように2フライト使う場合でも、198ドル(約18,000円)でシドニーまで行け、ブーメラン・パスよりもかなりお得なのである。英語でとっつきにくいと言う方もいるとは思うが、オーストラリアの地方を旅する予定のある方は、ぜひとも検討しみていただきたい。 ロックハンプトンの空港を離陸、思い出の地を見下ろすと、木々の隙間に入り込むように、朝もやがまだ残っていた。 人生の悩みに苦しみながら訪れた地は、7年前経って、美しい思い出が残る地に変わった。その地は今、自分の遥か下にあり、僕はそこから離れようとしている。できることなら、ずっとここに居続けたい。それができないなら、また来なくては…しかし、この地にまた必ず来ると言っても、1ヶ月や2ヶ月でまた…と言うのは、もちろんムリな話で、再び来れるまでには、年単位での時間を要するだろう。 出会いがあれば、別れが必ずある。そして別れは大抵の場合、苦く悲しい。僕は飛行機の中で、その苦さを感じつつも、里帰りの地、シドニーが待ってくれているじゃないかと思い直すことにした。 11時よりちょっと前に、シドニー(Sydney)に飛行機が到着した。 前回の里帰りは1年9ヶ月前、このときはとことん天気に恵まれなかったが、果たして今回は… ちょっと心配だったが、シドニーも快晴だった。お天気の神様が居るとしたら、僕はその神様にチュウしてあげたい!今回の旅、天候の面では、本当に恵まれている。 空港ターミナルの出口に出た。 ここから、ぴっかぶーさんが車で僕を運んでくれる約束になっている。 ぴっかぶーさんが赤い車で来てくれた。ぴっかぶーさんとは、1年前の6月に新大久保の韓国風刺身や池袋のやきとん&スープカレーをタカハシさんともツルんで(?)一緒に喰い倒れて以来である。 僕は横浜育ち、ぴっかぶーさんも一時期神奈川県内に住んでいたことがあったので、こちらの交通事情の話やカプリコーン・コーストの旅の話を車の中でした。 車はハーバー・ブリッジ(Harbour Bridge)を渡った後、一旦、僕がシドニーで今回お世話になる、ミルソンズ・ポイント(Milsons Point)駅前のバイブ・ホテル(Vibe Hotel)の前で止まった。チェック・インにはまだ早い時間だったが、快くチェックインを受けてくれた。大きい荷物を預け、部屋のカード・キーをもらったが、部屋には入らず、ぴっかぶーさんの車に戻った。…と言うのも、この後、美味しいランチが待っていたからである。 僕はぴっかぶーさんと一緒にシドニーの西の郊外にある、ハリス・パーク(Harris Park)という場所に向かった。ハリス・パークは、シドニー西部最大の都市、パラマタ(Parramatta)のすぐ隣のインドの人たちの町で、どうもここで美味しいインド料理が僕を待構えているらしい。CityRailのハリス・パーク駅の一つウラの道で車は止まった。 車を降りると、ほぼ同時に狂四郎さん夫婦の車もやってきた。狂四郎さん夫婦とは1年9ヶ月前の前回の里帰り以来なので、本当に久しぶりである。狂四郎さん、全然変わってないなぁ。 お目当てのお店に入ると、そこにはインドの人たちばかり。僕達以外には、アジア系どころか、白人さえもいやしない。いや〜、良いじゃないですか、こう言うの。その土地の人たちばかりが集まるお店に、イヤでも期待に胸が高まる。池袋北口にある「知音食堂」と言う、中国の人たちが殆どの有名(らしい)な四川料理のお店と通じるものがある。(ちなみに、こう言うお店の雰囲気を、一般には【異様】と表現するらしい) まだ全員集合ではないので、とりあえずってことでおつまみ的な料理を3品頼んだ。それを食べている最中にagu1さんがやってきて、さらにその後にhiroko@gongさんも来てくれた。お二人とは初対面である。初めまして。 全員が揃い、本格的に料理を頼むことに。大きなプレートに4種類のカレーとライス、ナン、野菜、ヨーグルトが乗っているものを3つ、他にダンドリーチキンや追加のナンを頼んだ。テーブルの上は、かなりのボリュームの料理で溢れかえった。出てきた料理はどれもこれも絶品。実は、今回日本を発つ前日の夜、タカハシさんと笹塚のインド料理屋で食事をしたのだが、それともまた違う味わいなのだ。使っている食材はそれほど変わらないはずなのだが、料理の出し方からお店の雰囲気、客層まで全然違うのが、そのまま味わいの違いに変わっている感じがした。他愛のない世間話、動物の生態を克明に記録したモノを含む僕の旅の写真、5000円の親子丼の話など、色々な話をして、料理を楽しみ、一人18ドル。本当にお腹がいっぱいである。 シドニーでは色々な国の美味しい料理と出会うのも最大の楽しみの一つ。到着早々、その楽しみを十分に享受した。 その後、ぴっかぶーさんとパラマタをブラブラし、ぴっかぶーさん宅で一息入れた後、ホテルの前で落としてもらい、この日はぴっかぶーさんと別れた。 ホテルで一休みした後、夜のシドニーの町に繰り出した。 夜のシドニーは昼とは別の顔を持つ。ヤプーンとは違い、シドニーの夜は眠ることはない。そんな夜のシドニーを再確認しながら、僕はチャイナタウンに向かい、「いつもの場所」で晩御飯を食べた。 その後、ホテルでネットチェック。メールを見ると、今日会った狂四郎さんからメールが来ている。シドニー最終日の夜に食事をしに来ないかとのご招待だ。実は、別れしなに、狂四郎さんに「手料理を食べてみたい」と話したのだが、それに応えてくれたのだ。早速、連絡を入れたかったが、夜の遅い時間だったので、明朝に電話を入れることにし、今夜は寝ることにした。 ヤプーンの朝もやの中でのドライブ、シドニーへの移動、美味しいインド料理、夜のシドニー…本当に色々あった一日だった。 |
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プロローグ 2006年8月9日 2006年8月10日 前編 2006年8月10日 後編 2006年8月11日 2006年8月12日 2006年8月13日 2006年8月14日 2006年8月15日 2006年8月16日 エピローグ |
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8月14日(月) 朝のシドニー | ||
前回、「夜のシドニーは昼とは別の顔を持つ」と書いたが、シドニーは朝も違う顔を持っており、実は僕は朝のシドニーが一番好きである。
僕のシドニーの朝は、コーヒーの良い香りと結びつく。夏でも冬でも湿気がない爽やかな空気と、コーヒーの香りが一体となって僕の鼻を刺激する。ビジネスエリアが近い僕が宿泊しているホテルでも、朝はマフィン、クロワッサンなどと共にコーヒーを軒先で販売していて、コーヒーの香りに刺激されたのか、たくさんの人が足を止めていた。 僕は起きぬけに狂四郎さんに「昨晩のメールの件、ぜひともお邪魔して、ディナーをご馳走になりたい」と電話を入れ、その後、朝のシドニーの空気を満喫するために早速出かけることにした。 僕もホテルの軒先でコーヒーを…と行きたいところだったが、僕はシドニー滞在時に必ず朝食を食べることにしている店がある。ホテルから歩いて5分もしない場所にあるそこに、僕は向かった。 ミルソンズ・ポイント駅に入り、改札の前を素通りし、駅の反対側に出ると、そこはキリビリ(Kirribilli)という、日本で例えるならば、東京の田園調布か兵庫県の芦屋のような、高級住宅街となる。駅から見て、そのキリビリの入り口にあたるような場所に、そのお店はある。 お店の名前はGarfishと言い、名前からも想像できる通り、夜はシーフードレストランとして営業しているお店だが、朝は全く違うメニューを出してくれる。このお店で僕が注文するのはワッフルで、外はサクサク、中はフワッとしたワッフル2個の上に、無糖のヨーグルト、バナナ、パッションフルーツのソースが乗っったものが中くらいのお皿に乗って出される。無糖のヨーグルトが全体の甘さのバランスを整えてくれていてとても美味しく、ボリュームもそれなりにあるので、僕はできるだけここで朝食を…と決めている。紅茶も併せて頼むと13ドルと、朝食でディナー並みの値段になるのは、さすがキリビリだが、13ドルに見合う美味しさなのは確かだと思うので、ぜひ試していただきたい。 朝食を食べながら、どこに行こうか考えてたが、今回のヤプーン(Yeppoon)滞在時には、動物たちと触れる時間を多くしたから、その延長で水族館に行ってみることにした。ここからだと、ダーリング・ハーバー(Darling Harbour)とマンリー(Manly)の2箇所に、距離的に気軽に行ける水族館がある。ダーリング・ハーバーの水族館は割と新しく、設備も充実しているのだが、観光地のど真ん中にあり、如何せん人が多すぎる。と言う事で、僕はマンリーに行くことにした。 マンリーへは、シドニーの船のターミナルであるサーキュラー・キー(Circular Quay)からフェリーで行くのが一般的。まずはそのサーキュラー・キーに行くために、キリビリの端っこにあるフェリー乗り場に向かった。あらかじめチェックした時間に合わせて乗り場に向かったので、フェリーはすぐにやってきた。 朝のシドニーで、フェリーに乗りながら潮風を体全体で受ける。これが何とも心地良くて、止められなくなる。そんな潮風の心地良さを感じている間にフェリーはサーキュラー・キーに到着、ここからマンリーまで、再びフェリーでミニ旅行である。マンリーへはフェリーで30分ほどで着く。 マンリーのフェリー乗り場を出て左に真っ直ぐ歩けば、オーシャン・ワールド(Ocean World)と言う水族館に着く。この水族館はフェリーからも見えるので、簡単に行けるはずだ。17ドル50セントの入場料を払うと、腕にスタンプがを押され、「今日中だったら何回入ってもOKよ〜」とスタッフのお姉さんが教えてくれる。 この水族館は、ダーリング・ハーバーのそれと比べると、ちょっと古めかしく、かなり小ぢんまりしている。しかし、同じような海底トンネルの水槽はあるし、飼育されている動物の種類も多く、人は少ないので、ゆっくり、じっくり楽しみたい、勉強をしたいのであれば、僕はこの水族館を迷わず勧める。 僕が入場したとき、鮫にエサをやるショーがこれから始まるところだった。他の動物に比べ、鮫にエサをやるのは難しいらしい。と言うのも、鮫はハンターであり、動くものを追う習性があり、死んでいるエサには中々食いついてくれないのだ。水槽の中のダイバーも相当苦労しているようだった。 これに比べ、エイは割と簡単にエサに食いついてくれるし、エサをおねだりする様子は甘えん坊で可愛かった。つい先日、「クロコダイル・ハンター」スティーブ・アーウィンがエイに刺されて命を落とす悲報が流れたばかりだったが、この時点で、エイが彼を殺してしまうなんて、夢にも思わなかった。「動物のために殉じたのは本望だろう」と言う人がいる。しかし、僕は彼が母国オーストラリアのために、動物達のために、ひいては地球のためにやり残したことはたくさん残っていると思っているし、彼もそれを自覚していただろう。それなのに突然訪れたこの運命、さぞかし無念だっただろう。だから、彼の悲報は本当に残念の一言である。 水族館のショーを楽しんだ後、フェリーでシティに戻り、シティやチャッツウッド(Chatswood)で、昼のポカポカ陽気の下、お土産や自分の買い物、食事、ブラブラ散歩を楽しみ、充実の一日は終了した。 明日一日が過ぎると、明後日にはもう帰国、段々と寂しさも増してきていた。 |
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8月15日(火) シドニー・ブルー | ||
「シドニーを色で例えたら?」と聞かれると、僕はブルーと答える。
透き通った空のブルー。 心地よい潮風を作り出す海もブルー。 春に咲き乱れるジャカランダ(日本で言えば桜のような、国を代表する花、木)も紫色で、僕の中ではブルーと結びつく。 そしてシドニーを豪州の旅の最終の滞在地として選ぶことの多い僕は、「もうすぐ豪州と別れて日本へ…」などと考えてしまい、心がブルーになることも多い。 良くも悪くも僕にとってシドニーはブルーなのだ。 時間よ、ゆっくり流れてくれ…僕はシドニーにいるとき、心の中でいつもそう願っている。 シドニーでの最終日、僕は何をしようか全く考えていなかった。 ただ、最終日となるこの日の夜、僕は狂四郎さん宅でのディナーにお邪魔することになっていた。そのディナーの約束の時間に遅れて迷惑をかけることのない範囲でブラブラすることにした。 僕の中でシドニーはブルー、青い水を湛える川を往くミニ船旅を楽しむことにした。サーキュラー・キー(Circular Quay)からパラマタ(Parramatta)まで所要は約1時間である。 パラマタ(Parramatta)はシドニー西部郊外最大の街で、各国の美味しい食べものやオーストラリア国内の有力企業のオフィスが集まる場所である。以前は、パラマタと言えばブルーマウンテン(Blue Mountains)に行く途中に電車で通り過ぎるだけの街だったが、ネット上でまなちゃんと出会ってから、カブラマタ(Cabramatta)と並び、その魅力にハマるようになった街であり、シドニーに里帰りをする度に、必ず訪れるようになった街でもある。 今日も快晴、澄み切った青空の下、フェリーはサーキュラー・キーを後にした。 すぐに左に曲がり、ハーバー・ブリッジ(Harbour Bridge)の下をくぐると、フェリーはパラマタ川をゆっくりと上る。前日の日記にも書いたが、フェリーの上で受ける風が非常に心地良い。しばらく、左右にはウォーターフロントの、船着場つきの高そうな家並みが続く。ぜひ住んでみたいと思わせるような家ばかりである。いくつかの橋をくぐるうちに、川幅は次第に狭くなり、左右に続いた家並みは、マングローブの林に替わり、船体に迫ってくるようになる。マングローブの木々の間をしばらく通り過ぎるうちに、ふと正面を見ると、日本では見かけないデザインのビル群が見えるようになる。ビル群が次第に大きくなってくると、パラマタに到着する。 パラマタで船を下りると、すぐそばのリバーサイド・ウォーク(Riverside Walk)と呼ばれる遊歩道を歩き、アウトレットモールに向かった。何するでもなく、ブラブラとするだけ。天気が良いから、それが一番楽しいのだ。 しばらくしてから時計を見ると、もうすぐ午後2時。僕の願いとは裏腹に、最終日の時計の針は普段の2倍か3倍の速さで進んでいるように思える。僕は船で川を下り、シティに戻り、クイーン・ヴィクトリア・ビルディング(Queen Victoria Building: QVB)でお土産を買い求め、それらをホテルの部屋に置いた後、狂四郎さん宅があるチャッツウッド(Chatswood)に向かった。 チャッツウッドの駅前の東側にはウェストフィールド(Westfield)と言う大きなショッピングモールがある。ウェストフィールドのショッピングモールを僕は何箇所も知っているが、どこもやたらめったらとデカく、チャッツウッドのも然り、見ていて全く飽きない。中を色々と見て回っているうちに、外は暗くなり、僕が今回豪州に帰ってきてから初めての通り雨も降っていた。 狂四郎さんの携帯を呼び出すと、なぜかぴっかぶーさんが応答。「迎えに行くから、少しずつ歩いてきて〜」と言われたので、ゆっくりと歩いていると、正面からぴっかぶーさんがやってきた。途中、ワインを買ってから、狂四郎さんが住むマンションに向かった。 中に入ると、狂四郎さんが腕をふるっている真っ最中、ニンニクのいい匂いがしてきて、嫌が応にも期待が高まる。ブログでは目で楽しむことしかできなかった狂四郎さんの自慢の手料理を味わえるのだ。 しばらくすると、赤いランチョンマットの上に美味しそうな料理が並んだ。 ・豚ヒレとカシューナッツの味噌炒め ・麻婆豆腐 ・大根の中華風煮込み どれも味も見た目も食欲をそそる料理ばかりである。 ワインを飲みながら、料理を口にした。ヤプーンで毎晩食べた中華料理より、比べるのが失礼なくらい、格段にウマい! 狂四郎さんの奥さん、ぴっかぶーさんも交え、4人で美味しい料理とよもやま話を楽しんだ。 え?どんな話かって?それはその場に居た人だけが知ることができること、チャンスがあったら、その場に居た人たちに聞いてみてください。 ただし、これだけは言える。狂四郎さん宅に居る間だけは、ブルーな気分はどこかに消えていた、と。 ちなみにカシューナッツの炒め物、ご存知の通り、本来は鶏肉とのコンビがフォーマルなのだが、鶏肉嫌いの僕のために、狂四郎さんはわざわざ豚ヒレに替えてくれた。料理に心が加わると、それはさらに美味しさを増す。とても嬉しかった。 狂四郎さんご夫婦のおもてなし、心に響きました。 僕のために色々と動いてくれぴっかぶーさんにも大変感謝しています。 お二方、本当にありがとうございました。 狂四郎さんご夫婦と握手で別れ、車で僕を運んでくれたぴっかぶーさんともホテルの前で握手をして別れ、部屋に戻った。 これで豪州の里帰りは終わり、明日、シドニーを出発しなければならない。狂四郎さん宅に居るときには消えていたブルーが甦る。やはり、一抹の寂しさが残る… 僕はこの日のお礼のメールを入れた後、朝早い出発に備え、眠りに就いた。 |
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8月16日(水) 日本モード | ||
いよいよ…いや、とうとう日本に帰る日が来てしまった。 朝の5時。飛行機に乗り込むには、この時間に起きる必要があった。 いや、そもそも飛行機に乗る必要があるのか? 日本に本当に帰る必要があるのか? 何が必要で何が不要なのか? こう言うとき、自分の頭の中にいる、もう一人の自分がむくっと目を覚まして、こんなことを考え出す。 1993年に初渡豪。その時から、日本を取るかオーストラリアを取るか、常に自分へ問いかけをしてきて、いつもウヤムヤにしてきているのだ。そんな僕には明確な結論など出せやしない。ただ自分の意思とは関係なしに体が勝手に動いて、僕は空港に向かう電車の中にいた。 カンタスのカウンターでチェック・イン。 まだパスポートにスタンプが押されていないというのに、大体この時点で僕はもうオーストラリアから切り離された気分になってしまう。しかし、今回はできるだけ最後まで楽しく旅をしたい。そう言う理由で僕は貯まっていたカンタスのマイレージのポイントでビジネスクラスへのアップグレードを申し込んでいた。いつからか、実際にアップグレードされるかどうかは、当日にならないと分からない仕組みに変わっていて、今回は満席との理由で、残念ながらアップグレードはならなかった。日本はお盆休みの真っ最中なので、満席と言う理由は理解できるが、カンタスのマイレージは年月を経るごとに少しずつ使い勝手が悪くなっていると言う印象が僕の中にあるので、何かスッキリしないものが残った。 出発ロビーから、ボーっと景色を眺める。 目の前では、半ズボンの下の日焼けした足が逞しい空港スタッフが、忙しく荷物を積み込んでいる。彼らのような空港スタッフ、オーストラリアのホテルで働く人たち、Cooberrie ParkのJoe…活き活きと働く彼らがとても羨ましく感じてしまう。もっとあのときにちゃんとやるべき事をやっていれば…若いときに英語をキッチリと身に付けていれば、オーストラリア暮らしを早く決断できたかもしれない…僕の人生は、いつもこんな後悔の連続だ。 搭乗の時間が来た。 僕は窓際の席に着き、外を眺めた。 離陸すると、程なくハーバー・ブリッジ(Harbour Bridge)とオペラハウス(Opera House)が目に入る。 今度、里帰りができるのはいつになるんだろう?いや、日本に帰らずに済むオーストラリア往きを何とか実現できないものか?そんな事を、車窓を眺めながら、風景が単調になるまで考え続けていた。 眼下が森林地帯だけになると、朝食の機内サービス。既に日本モードに戻っている僕は朝が大の苦手、オムレツなどが入ったメインディッシュには一切手をつけず、パンとヨーグルトだけを食べた。その後、早起きが利いてきて強烈に眠くなり、珍しく機内で熟睡してしまった。 ガクガクっと言う揺れで、僕は目を覚ました。 僕が飛行機を乗り換えるケアンズに着陸したのだ。ここで2時間ほど待ち、別便にて成田に向かうことになっている。 ケアンズでは、午前から昼過ぎにかけ、シドニー、メルボルン、ブリスベン、ゴールドコーストからの便が次々と到着し、その後成田、関空、名古屋(今はセントレアかな?)に向かう便が次々と出発する。ケアンズに滞在していた人だけでなく、オーストラリア各地に滞在していた日本人の数割はここを経由して日本に戻ることになる。よって、ここはオーストラリアと日本を結ぶカンタス便のハブ的な役割を担っている場所で、ケアンズの国際線ロビーは、昼過ぎまでの時間、必然的に日本人のためのエリアとなってしまい、聞こえてくる会話も日本語がほとんどとなる。僕はそんなエリアを離れ、誰もいないロビーの端っこで、デジカメの写真を眺めたりしながら、時間をつぶした。 再度、搭乗の時間、今度こそ飛行機を降りるときは日本である。 僕は再び窓際の席に着いた。 離陸してしばらくすると、ランチのサービス。以前にも触れたが、機内食は出発地にあるケータリング会社が作っているが、毎度の事ながら、ケアンズ−成田線の機内食は口に合わない。一口食べて胸いっぱいになった僕は、その後、朝食同様メインディッシュには一切手をつけずにそれ以外のパンとサラダ、飲み物だけを口に入れた。 食事の後、よっぽど早起きが利いたのか、またもや強烈な睡魔が僕を襲い、しばらく熟睡してしまった。 目を覚ますと、スクリーンにはカンタス便でよく上映されている日本の「ドッキリカメラ」的な番組(カナダかどこかの番組かな?)がやっていた。機内上映プログラムが終了して1、2時間ほどで飛行機は成田に着いた。 ここまで来たら、家に帰るしかない…て事で、入国審査へ急いだ…が、どういう訳か、入国審査がすごい行列!約20回に及ぶ海外渡航の中でも初めてのすごい行列。僕だけじゃなく、他の人たちもみんな家路を急いでいるはず、夜の遅い時間、ジメジメした気候もあり、周囲はイライラモードに。 そんな中、2列ほど隣の列で英語カブレのアンちゃんが、大声で同伴の女性に向かい、日本語と英語をチャンポンにして熱弁を振るっていた。それが鼻についたオバチャンたちとアンちゃんが口論を始め、周囲のイライラモードが加速している。 「F●ck off! おい、ババァ、うぜぇよ!F●ck off! 俺が何言ってるか、分かる?You know what I'm talking about, huh?」周囲はみんな「お前がうぜぇよ!」と、アンちゃんを白い目でを見つめる中、一触即発の雰囲気になったが、オバチャン軍団の一人が仲裁に入ったので、その後は何も起きなかった。 はぁ〜、こんな事、勘弁して欲しいもんです。 色々なことが重なり疲れきっていた僕は、たまプラーザに向かうバスの中でもボロ雑巾のように眠った。 結局自宅に着いたのは12時少し前だった。 2年ぶりのオーストラリアへの里帰りは終わった。 翌日は早くも出勤、1週間の天国の後の、終わりの見えない地獄の生活が早速始まる。明日以降の自分の身を案じながら、片付けもそこそこに、寝ることにした。 |
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旅、過ぎて…感じること | ||
1週間にわたる里帰り、分かってはいたが、あっと言う間に終わってしまった。 僕のオーストラリアへの里帰りは… ・どれだけ長い時間、青い空を見られたか ・どれだけたくさんの人と握手をし、どれだけたくさんの人が気軽に僕の肩をたたいてくれたか ・どれだけ美味しい食べ物を味わえたか そして、 ・どれだけ以前よりオーストラリアに対する理解を深めることができたか これによって充実度が決まってくる気がする。 理解を深めることは、決して難しいことではない。やたらめったら情報を集めて頭でっかちになってもしゃーないとも思っている。自分の感性でどう受け入れたか?もっと簡単に言えば、オーストラリアをどう感じたか?これで良いのだ。 オーストラリアに行って、何か感じるものがあったのならば、僕はオーストラリアに行った価値は十分にあったのだと思う。 僕の里帰りは、今回で16回目。これだけ行き来をすると、憧れの面だけでなく、イヤなこと、怖いこと、理解不能なこと…色々なことが起きる。日本の22倍もある大きな大陸に世界中から人が集まるわけだから、当然である。僕はこれまでに出くわしてきた色々な出来事を糧に、僕の中に息づくオーストラリアに少しずつ肉付けをしてきた。 青い空に十分すぎるほど恵まれ、オージー達の親切さにも恵まれ、ネットで出会ったお友達の多大なる気遣いにも恵まれ、思い出がたくさんの非常に充実した旅となった今回、さらに充実した肉付けができた気がする。 だけど、僕の肉付けの作業は、もちろん今回で完成したわけではない。 来年も、再来年も、そのまた次も…一生かけても終わるかどうか…そんな作業となる気がする…それだけ奥が深い国だと、僕は思っている。オーストラリアは一生かけて付き合う、恋人のようなものなのだ。 まだオーストラリアに行ったことがない人、僕の日記で少しでも興味を持ってくれた人…一度で良いから、この夢の大陸に足を運んでみてください。何か感じるものが絶対にあるはずだから。 長い日記にお付き合いいただきまして、どうもありがとうございました。 |
17回目のオーストラリア旅日記へ |
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