トンプソン・サブマシンガンの名は、オート・オーディナンス社の初代社長のジョン・トンプソンの名前から取られているが、トンプソン・サブマシンガンはジョン・トンプソンによって設計されたのではない。 トンプソン・サブマシンガンは、スプリングフィールド造兵廠から転職した、セオドア・アイクホフ(Theodore H. Eickhoff)とオスカー・ペイン(Oscar V. Payne)の二人の技術者が中心になって開発された。 ジョン・トンプソンは、造兵界での高い知名度を買われて招かれたのであって、広い人脈を活用して製品の売り込みに奔走した人物だった。
Prototype
トンプソン・サブマシンガンの最初の試作品は、後のモデルとは大きく異なり、布ベルトと弾薬箱を使用するベルト給弾方式だった。現存するこの試作品には製造年が刻印されておらず、実際の製造年は定かではないが、1918年に作られたと見られている。
Model 1919
1919年に、ベルト給弾方式を廃止して、ボックスマガジンおよびドラムマガジンを使用する方式に改めたModel 1919が試作された。Model 1919は、1丁毎に外観や構造が異なっており、全部で10丁ほどが製作されただけと見られている。 PrototypeとModel 1919の実際の製作は、オハイオ州のワーナー&スウェージー社で行われた。
Model 1921
最初に商品化され、量産されたトンプソン・サブマシンガンは、1921年に登場したModel 1921で、Model 1919の製造番号2番を元に改良されたモデルである。マガジンは18、20、30発容量のボックスマガジンと、50、100発容量のドラムマガジンが用意された。Model 1919製造番号2番からの主な改良点は以下の通り。
Model 1921の量産が決定されたのは、1920年に米軍に対して行われたModel 1919のデモンストレーションで好感触を得て、大量の受注を見込んだためだった。オート・オーディナンス社は銃器の設計会社で量産設備を持っておらず、試作を請け負ったワーナー&スウェージー社の能力では量産は難しいと見られていた。
そこで、ジョン・トンプソンは大手のコルト社とライセンス生産の交渉を始めたが、逆にコルト社から製造権の買い取りを打診された。しかし、オート・オーディナンス社の筆頭株主のトーマス・ライアンはこれを拒否し、コルト社が15,000丁分のバレル、レシーバー、内部機構の製造を1丁あたり$45で請け負う契約が結ばれた。リアサイトは、ライマン・ガンサイト社、木製部品のストック、グリップ、フォアグリップは、レミントン・アームズ社に発注され、最終的な組み立てはコルト社で行われることになった。オート・オーディナンス社ではトンプソン・サブマシンガンの製造に必要な治工具類の製造が行われた。
米軍の大量発注を当て込んで量産開始されたModel 1921だったが、当時の軍部には、サブマシンガンの塹壕、市街地、森林等での近接戦闘での有効性が理解されず、ライフルと比較してピストル弾を使用することによる射程の短さが欠陥と指摘する声が強かったため、販売は全く振るわなかった。
売り上げが長く低迷したため、コルト社に発注された15,000丁分の部品を使い切るのに20年もの月日を要した。
Model 1923
1923年、軍部から指摘された射程の短さを少しでも改善するため、バレルを延長したModel 1923が登場した。
Model 1923はMilitary Modelとも呼ばれており、口径は、オリジナルの.45ACP以外に、.45レミントン-トンプソン、.351オートマチック・ライフル、9mmマウザー、9mmルガー等の弾薬を使用するモデルが存在し、オプションで、バヨネットラグ、バイポッド、サイレンサー、フラッシュハイダーが用意されていたが、軍が興味を持つことはなく採用されなかった。
Model 1923の生産量はごく少量だったようで、現存する物は僅かで非常に珍しい銃になっている。トンプソン・サブマシンの射程や威力を向上させる試みはModel 1923が最初で最後となり、以降は行われていない。
Model 1927 Thompson Semi-automatic Carbine
販売不振で、作り過ぎてしまった部品の在庫をさばくため、民間向けにModel 1921をセミオートのみに仕様変更したのがModel 1927 Thompson Semi-automatic Carbineで、1927年に登場し市販された。
トンプソン・サブマシンガンは、軍用銃としてフルオートで撃つことを前提に開発されているため、セミオートのみに制限されているModel 1927を、フルオートで撃てるように改造することは容易だった。このような改造は違法行為だが、マフィアはこぞってModel 1927を買い漁り、フルオートに改造して抗争で使用した。取り締まる側の警察やFBIもマフィアに対抗するため、トンプソン・サブマシンガンを使用した。
アウトロー達に好んで使用されるトンプソン・サブマシンガンは「トミーガン」や「シカゴピアノ」のニックネームで呼ばれ、報道や映画を通じてその名が広く知れ渡ると同時に、犯罪者の使用する銃としての認識が世間に広まったため、軍関係者に対しては否定的な印象を与えることとなった。
Model 1928
1927年1月、米海兵隊はニカラグアに出兵し、戦場でトンプソン・サブマシンガン(Model 1921)を初めて使用した。ジャングルにおける戦闘でトンプソン・サブマシンガンの有効性が明らかとなり、オート・オーディナンス社に対してModel 1921の改良の要望が出された。これを受けて改良されたModel 1928が、1928年に登場した。Model 1921からModel 1928の主な改良点は以下の通り。
1928年は、オート・オーディナンス社にとって大きな節目となった年だった。筆頭株主のトーマス・ライアンが死去し、会社はマギール・インダストリー社に売却され、パートナーを失ったジョン・トンプソンはオート・オーディナンス社を退職した。
1930年代末には、ヨーロッパでは軍備拡大を急速に進めたナチス・ドイツが戦争を始めるのは確実な情勢となっていた。ヨーロッパ各国では、サブマシンガンを大量に配備しているドイツ軍の侵攻に備えるために、サブマシンガンの需要が急速に高まっていた。当時のヨーロッパでは、ドイツのように自動火器を大量に保有する国は少なく、トンプソン・サブマシンガンは直ぐに入手可能なサブマシンガンとして注目され、発注が次々と舞い込んできた。第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパ各国からのトンプソン・サブマシンガンの発注は急増したが、製造に手間のかかる設計が災いし、フル操業でも生産が追いつかなくなった。
ヨーロッパからの発注で製造されたトンプソン・サブマシンガンの全てが発注国に届けられたわけではない。完成したトンプソン・サブマシンガンを載せた輸送船の多くが大西洋でUボートの魚雷攻撃によって沈められたため、実際に発注国に渡った数量は英国の場合で、発注数約30万丁に対して、受領数は約10万丁だった。
U.S. Submachine Gun Caliber .45, M1
1938年に陸軍に採用されたModel of 1928A1は、製造に手間のかかる設計のため1丁あたりの価格は$209と高価なものだった。ヨーロッパでは戦火が広がり、英国からの発注に応えつつ、将来の米国の参戦に備えるために、トンプソン・サブマシンガンの省力化が課題となっていた。1941年、サベージ・アームズ社の技術者がこの課題に取り組み、完成した省力化トンプソン・サブマシンガンがM1だった。M1のModel of 1928A1からの主な改良点は以下の通り。
U.S. Submachine Gun Caliber .45, M1A1
M1が制式採用された後も、さらに改良を加えたM1A1が開発された。M1A1のM1からの主な改良点は以下の通り。
口径 | .45ACP (11.43mm×23) |
全長 | 813mm |
銃身長 | 267mm |
重量 | 4,750g |
マガジン容量 | 20/30発 |
連射速度 | 約700発/分 |
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M1A1の左側面。
M1A1も含めたトンプソン・サブマシンガンは、鋼材から削り出した部品を多用し、ストックやグリップに木製部品を使用する伝統的な工法で製造されている。M1A1の1944年当時の価格は$45だった。 |
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M1A1の右側面。
装弾数30発のボックスマガジンが装着されている。Model 1928まで使用可能だった50または100発容量のドラムマガジンは、M1、M1A1では互換性が無くなり使用できなくなっている。 |
クリックすると拡大 | フロントサイトのクローズアップ。
フロントサイトはブレード型で、調節機能やガードの全く無い簡素な物となっている。 Model 1928までは、マズルコンペンセーターが装備されていたが、マズルの跳ね上がりを軽減する効果があまりない上に製造に手間がかかるので、M1、M1A1では省略されている。 |
クリックすると拡大 | リアサイトのクローズアップ。
リアサイトは鋼板をプレス加工して作られた簡素な物で、ピープホールを使用すると100ヤード、上部のノッチを使用すると200ヤードとなる。改良前のM1では、リアサイトは鋼板をL字型に曲げピープホールを開けただけの物で、両サイドのガードは無かったが、M1A1では変形防止のためのガードが設けられた。 Model 1928までは、500ヤードまでの調節機能が付いた精巧なリアサイトが備わっていたが、 射程の短いピストル弾を使用するサブマシンガンでは不要と判断され、M1、M1A1では固定式の簡素な物に改められた。 リアサイトの前にはオート・オーディナンス社のトレードマーク、後には米国政府の所有物であることを示す「U.S. PROPERTY」の文字が刻印されている。 |
クリックすると拡大 | レシーバー左側面。
トンプソン・サブマシンガンではセレクター(FULL/SINGLE)とセーフティー(FIRE/SAFE)は独立している。 M1A1ではセレクターとセーフティーは軸にピンを差し込んだだけの簡素な物になっている。 これらをピストルグリップを握った右手の親指で操作するのは困難である。 トリガー周辺のレバーは、マガジンキャッチレバーで、チェッカリングの入った部分を上に押すとマガジンを抜くことが出来る。 打刻が浅いため、この写真では判別不能だがレシーバー左側面の前方には、"FJA"と丸囲みで"GEG"の二つの検査刻印が入っている。"FJA"は陸軍兵站部の検査官Frank J. Atwood大佐のイニシャルで、"GEG"はオート・オーディナンス社の検査員George E. Gollのイニシャルである。 |
クリックすると拡大 | レシーバー右側面。
Model 1928までは、コッキングレバーはレシーバー上面に位置していたが、M1、M1A1ではコッキングレバーがレシーバー右側面に移されたため、右手でグリップを握った状態でコッキングする場合は、銃を左に傾けて、左手でコッキングレバーを操作する。 Model 1928までは、ボルトから独立したファイアリングピンとハンマーを持ち、ボルトの後退を遅らせるためのH型の真鍮製部品を使用したディレード・ブローバック方式だった。M1では、H型部品は省略され、その代わりにボルトの重量を増やすことで安全性を確保したため、作動方式は単純なブローバックとなった。さらにM1A1では、独立ファイアリングピンとハンマーは省略され、当時のサブマシンガンで一般的だったボルトヘッドにピンの代わりの突起を設ける固定式となった。 |
クリックすると拡大 | M1A1の前方部分。
射撃で熱くなったバレルから手を保護するために、木製のフォアグリップが取り付けられている。 フォアグリップはレシーバーから前に伸びているグリップマウントに一本のネジで固定されている。 Model 1928までは、空冷式エンジンのような冷却効果を狙ったフィンがバレル後半に刻まれていたが、 加工に手間がかかる上に冷却効果があまり無いため、M1、M1A1では省略されている。 |
クリックすると拡大 | ストックのバットプレート部分。
ストックの中にはオイラー(手入れ用の油入れ)を収納するスペースがあり、バットプレートにはそのためのドアが設けられている。 |
クリックすると拡大 | ストックは2本のネジでレシーバーに固定されている。Model 1928までは、ストックはスライドさせることで簡単に着脱が可能な取付方式だったが、M1、M1A1では簡素化のためにレシーバーに2本のネジで固定する方法に改められた。さらに、M1A1では銃の落下時にストック基部の破損を防止するため、補強用のボルトとナットが追加されている。 |