京都壬生 新撰組散策

京都駅から北西へ西本願寺を経て、更に二条方面へ歩くと壬生に着く。幕末に
会津藩預かりとして京都の治安維持を守った新撰組が滞在していたため、一度
は訪ねてみたかった。多くの新撰組ドラマの舞台だ。
 秋晴れの朝9時には、壬生寺隣のパーキングに車を駐車して散策をした。ビック
リしたのは、朝から壬生寺界隈には新撰組フアンが多く、カップル、若い女性グルー
プ、外国人女性も沖田総司の面影を求めて散策していた。最近、漫画で新撰組が
描かれ又、人気が沸騰しているらしい・・・・。
 1863年(文久3)に、江戸で結成された浪士隊はその年に京都壬生に入り、近藤
勇局長土方歳三副長を中心に壬生の八木邸、前川低などに滞在した。翌年の元治
1年、京都三条の池田屋事件で京都市中を震撼させ歴史に名をとどめた。池田屋事件
は明治維新が1年遅れたと言われる程の大事件だった。京都を中心とした幕末維新史
に、新撰組は大きな影響を及ぼし滅びる徳川幕府と運命をともにした。

壬生寺と境内の近藤局長の胸像

壬生狂言でも有名な寺であり、一角に新撰組コーナーが設けられている。
新撰組は現代でも絶大な人気がある。近藤局長の胸像は生誕地、東京
調布のものと同じだった。
 子供たちと遊ぶ沖田総司の姿が目に浮かぶ。沖田の熱狂的な外国人
フアンも壬生寺を散策していた。

壬生寺隣の八木邸

朝の九時半から見学できる。多くの見学者があり座敷でゆっくりと解説
を聞かせてもらった。瞳を輝かせた若い女性が多かった。
 文久3年に芹沢一派が惨殺された新撰組ドラマの舞台でもある。その
時の刀傷が残り、剣を振るう土方歳三らの姿が眼に浮かんだ。土方は
厳しい隊律を作り、新撰組の鉄の結束と士道を大切にした。

前川邸

八木邸の前にあり非公開なのが残念だった。
隊の規則を破った山南敬介が切腹した舞台。
「新撰組始末記」で有名な、山南と明里との
悲話は新撰組ドラマの名場面だ。


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歴史・物語の舞台を歩く
新選組近藤局長の故郷

土方歳三奮戦の地

会津戦争を歩く
餃子とカクテル 宇都宮

池田屋跡

三条大橋を西に渡り、高瀬川にかかる三条
小橋のたもとに池田屋があった(写真中央
に石碑)。現在はパチンコ店。
 元治1年(1864)6月5日、京都焼き討ち
計画の密会をしていた長州、土佐、肥後など
の志士を、新撰組が殲滅した。一躍、京都
市中に新撰組の名が轟いた。 

土方人気を決定的にした、司馬遼太郎
「燃えよ剣」は必読。

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京都御所

京都守護職であった会津藩の配下で、新撰組も
京都御所の護衛にも就いた。
幕末、8・18の政変で激派の公卿や長州藩は、
京を追われ、元治1年(1864)7月18日、長州
が再び御所を戦場にして、いわゆる禁門の変
勃発させている。長州は池田屋事件に憤慨した。

長州萩の町を歩く

長州藩と会津藩が激しく戦った禁門(蛤御門)
周辺。松下村塾の英才久坂玄端もこの戦いで
自害し長州は駆逐された。禁門守備の救援に
駆けつけた西郷隆盛(薩摩藩)も負傷している。

会津藩本陣の金戒光明寺

京都市左京区。京都の治安維持のために
京都守護職として文久2年(1862)に都入り
した会津藩本陣。
藩主松平容保に率いられた藩兵は1000名
で新撰組も会津藩の配下に入った。徳川幕府
の矢面に立った会津藩は、その後、長州、薩摩
の西軍を相手に鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰
戦争、会津戦争へと悲劇の舞台へと進む。

伏見奉行所跡(京都市伏見区)

慶応4年(明治元年1868)正月、鳥羽伏見の
戦いが始まった。土方歳三率いる新撰組と会津
藩は伏見奉行所を本陣に、御香宮の薩摩軍と
激しく戦い旧幕府軍は敗退した。井上源三郎ら
の隊士が討死した。
土方歳三を中心とした新撰組は、関東、東北、
函館へと転戦を続ける。

会津戦争をゆく
城下町会津若松
寺田屋を訪ねる 京都伏見
土方歳三の旅 多摩編
「黒谷さん」金戒光明寺

平成16年の初夏、NHK大河ドラマの効果
で京都は観光客が多く、特に壬生の周辺は
大変な混雑だった。
池田屋跡のある四条通にも「誠」の旗が並び、
会津藩本陣の黒谷金戒光明寺でも、特別公開
で観光客で賑わっていた。
大河「新撰組!」もこれから京都での活躍が
始まるので、視聴率も挽回してもらいたい。